高村薫の作品は『マークスの山』を読んで以来のファンである。
この作品は、未だ上巻を読んだだけなのだが、高村薫の作品世界の
奥深さに驚きを禁じえなくなったもので、少し記してみたい。
一体彼女とは、ミステリー作家、社会派批評作家なのだろうか、
純文以上に純文、いやそれを超えた形而上小説、
例えば埴谷雄高の『死霊』にも匹敵しそうな、
であっても、観念的な抽象に流れず、とことん現代という時代の
内面と彼女は実地に向き合い、渡り合い続けているかのようだ。
大評判の村上春樹の『1Q84』は未読のままだが、ひょっとして
高村の『太陽を曳く馬』の方が優れていはしまいかと、勝手な予断
をしてしまいそうな程に、この作品はこの作家にとっても、日本の
現代文学・文芸作品として最高傑作の一つであろう、と思っている。
作者が脇役の女性に次のように語らせている場面がある。
「少し前まで、私たちはこの消費社会の虚構を模倣することで、
消費社会を批評しているつもりだったのだけど、
そうしたシュミレーションがある日、どれもこれも現実の一部
になって、そこらじゅうに張りついていたんだわ。
ぬけぬけと物質やリアルの復活という顔をして。
あるいはリアルを突き抜けた先のフラットという顔をして。
違和感もなければ、反動という自覚もない、代替世界ですらない
堂々たる大文字になって!
そして、そこに突然出現した異物が秋道(主人公名)だった。
このフラットな地平から飛び出して垂直上昇するか、垂直落下する
かしかない生きもの!
結局、足すものも引くものもない身体という中心を、私はまだ信じて
いたということだわ。
まだどこかに、生(なま)の身体という実体を設定できる余地がある
かもしれないという、わずかな希望があったのよ、あのころは。」
(高村薫『太陽を曳く馬(上)』p103~104から引用、改行は随時
引用者による。)
引用が長くなり過ぎたが、石川啄木が「時代閉塞の現状」と呼んだ閉塞
とは、ある意味で、真逆の閉塞感がここで語られている。
ファシズム時代の強権抑圧的な閉塞ではなく、豊かで自由でなんでもあり
が行き着いた果ての、フラットな現実世界での行き場が決まり過ぎた閉塞
性のようなもの。
上巻しか読まずに批評文を記すのも、私には異例なのだが、
平面世界の閉塞を破るには、上に行くか、下に落ちるかしかないのか、
いやゼロに留まるような在り方で、平面世界に静かに拮抗することは
不可能か? そんな問い掛けと存在論議が、ミステリー仕立てで示さ
れ模索されているかのような読後感想を今の処、抱いている。
この高村作品が、あまり世間で話題になっていないことが少し意外な気
がするが、下巻では、何やらラカンばりの「対象 a」が登場するようで
あり、この存在論ミステリーが何処まで行き着くのか楽しみである。
PS:この文章を打ちながら、バック音楽に「つじあやの」のCDを
聴いていた。フラットな、フラットな、フラットな、何の起伏
もない草原に吹く風に揺れる一本の草のような、つじあやの。
自然と何の意味も価値も脱落して流れる彼女の歌声、そう聴こ
えるのは、私の年齢のせいなのだろうか?
この作品は、未だ上巻を読んだだけなのだが、高村薫の作品世界の
奥深さに驚きを禁じえなくなったもので、少し記してみたい。
一体彼女とは、ミステリー作家、社会派批評作家なのだろうか、
純文以上に純文、いやそれを超えた形而上小説、
例えば埴谷雄高の『死霊』にも匹敵しそうな、
であっても、観念的な抽象に流れず、とことん現代という時代の
内面と彼女は実地に向き合い、渡り合い続けているかのようだ。
大評判の村上春樹の『1Q84』は未読のままだが、ひょっとして
高村の『太陽を曳く馬』の方が優れていはしまいかと、勝手な予断
をしてしまいそうな程に、この作品はこの作家にとっても、日本の
現代文学・文芸作品として最高傑作の一つであろう、と思っている。
作者が脇役の女性に次のように語らせている場面がある。
「少し前まで、私たちはこの消費社会の虚構を模倣することで、
消費社会を批評しているつもりだったのだけど、
そうしたシュミレーションがある日、どれもこれも現実の一部
になって、そこらじゅうに張りついていたんだわ。
ぬけぬけと物質やリアルの復活という顔をして。
あるいはリアルを突き抜けた先のフラットという顔をして。
違和感もなければ、反動という自覚もない、代替世界ですらない
堂々たる大文字になって!
そして、そこに突然出現した異物が秋道(主人公名)だった。
このフラットな地平から飛び出して垂直上昇するか、垂直落下する
かしかない生きもの!
結局、足すものも引くものもない身体という中心を、私はまだ信じて
いたということだわ。
まだどこかに、生(なま)の身体という実体を設定できる余地がある
かもしれないという、わずかな希望があったのよ、あのころは。」
(高村薫『太陽を曳く馬(上)』p103~104から引用、改行は随時
引用者による。)
引用が長くなり過ぎたが、石川啄木が「時代閉塞の現状」と呼んだ閉塞
とは、ある意味で、真逆の閉塞感がここで語られている。
ファシズム時代の強権抑圧的な閉塞ではなく、豊かで自由でなんでもあり
が行き着いた果ての、フラットな現実世界での行き場が決まり過ぎた閉塞
性のようなもの。
上巻しか読まずに批評文を記すのも、私には異例なのだが、
平面世界の閉塞を破るには、上に行くか、下に落ちるかしかないのか、
いやゼロに留まるような在り方で、平面世界に静かに拮抗することは
不可能か? そんな問い掛けと存在論議が、ミステリー仕立てで示さ
れ模索されているかのような読後感想を今の処、抱いている。
この高村作品が、あまり世間で話題になっていないことが少し意外な気
がするが、下巻では、何やらラカンばりの「対象 a」が登場するようで
あり、この存在論ミステリーが何処まで行き着くのか楽しみである。
PS:この文章を打ちながら、バック音楽に「つじあやの」のCDを
聴いていた。フラットな、フラットな、フラットな、何の起伏
もない草原に吹く風に揺れる一本の草のような、つじあやの。
自然と何の意味も価値も脱落して流れる彼女の歌声、そう聴こ
えるのは、私の年齢のせいなのだろうか?
こんな難しい本を読んで感想を書かれているのが
すごいなあと思いました。
他のエントリも拝見しますね。
まず、統合失調症は知性とは関係ありません。
だいたい「精神分裂病」という旧称も、
同病に罹患した東大の精神科医・石田昇氏が
シゾフレニアをそう翻訳したものですし‥。
寧ろ抗精神病薬の影響で、考え抜く力が
かなり落ちている気がしています。
どうか気ままに、当ブログをご覧下さい。
私は仕事で綿密な作業を投げ出してしまうようになったと先生に言い、
副作用のせいかもということでリスパダールを1錠減らしたことがあります。
結果、幻聴が危ないかも、と私が言って
2週間で戻りました。
コメントをどうもありがとう。
私がもう一つ劣化しているのは、記銘力なのですが、
薬の話では、私はSSRIを基礎治療薬にしています。今服用しているのは、パキシルです。
SDA(セロトニン・ドーパミン拮抗剤)も、
ルーラン、リスパ、ジプレキサ、セロクエルと過去に試してみましたが、自分にはこの系統は合いませんでした。
どうか気楽に、当ブログにアクセス下さい。