以前、BSフジで放送された「ヒットソングメーカー」は村井邦彦さんが特集でした。 見た時は確かに、偉大な作曲者だと思いましたが、別にブログでアップすることもないかと思っていましたが・・ 17日にトッポがラジオで語ったことと、この番組がリンクするのでブログに上げて見ました。
いやー、ラジオではトッポ、自慢しているんじゃないの?とちょっと思ったんですー('◇')ゞ
ヒットソングメーカーズ 栄光のJ-POP伝説
※ アルファレコードの創設者でもある村井邦彦氏は、1960年代中盤から、すぎやまこういち氏、筒美京平氏、鈴木邦彦氏と共に大活躍した和製ポップスの作曲家だ。ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」、ザ・モップス「朝まで待てない」、トワ・エ・モア 「虹と雪のバラード」、赤い鳥「翼をください」などのヒット曲、名曲を次々に手がけた。
やがて音楽の版権ビジネスに挑み、24歳のときに音楽出版会社アルファミュージックを設立。また、自社の録音スタジオも作った。そして1977年(昭和52年)にアルファレコードを設立。プロデューサーとして、赤い鳥やユーミンなどを育て、また、YMOを世界におくりだした。今回は自由な気分に満ちたアルファのことなど、村井氏に、当時のことをいろいろと伺った。
音楽の教科書にも載っている、世代を超えて愛される「翼をください」の 作曲者、村井邦彦は1945年生まれ、22歳の時に作曲家デビュー。 作曲家でプロデューサーでもあり、偉大なヒットソングメーカーである。 GSからニューミュージック(トワ・エ・モア、森山良子、。赤い鳥、山本潤子、ムッシュかまやつ、ユーミン、YMO等の映像が流れる) 世界的な成功をなしえた。 ※森山良子や、かまやつ、トワ・エ・モアのインタビューが流れる。
村井氏 『日本の歌謡曲のダサさが気に入らなかった。日本の歌謡曲を世界的なレベルに持っていきたいと思った。』 慶応の学生だった村井さんは「ブルーシャトー」を聴いて、今までの日本曲とは違うと思い、僕にもできるかもと作曲をはじめ、森山良子やGSの曲を作り始める。
かまやつ氏 『浜口庫之助さん作曲の「夕陽がないている」には、違和感があったが、村井さんの曲には違和感がなかった。』
村井 『始めて、GSのカーナビーツのステージを見に行った。お前のすべて~!! GSは熱気があって、ある種演劇性が要求される。その為工夫した。』 「エメラルドの伝説」の、あ~いたい~! 曲は爆発的に売れた。 その為、敵の陣営の作曲家をこっちにひっぱろうと思ったナぺプロからアプローチがあった。
タイガースの後期の作品をすぎやまこういち氏とともに作曲し、タイガースの新たな境地を開いた。 コンセプトアルバム「ヒューマンルネサンス」はタイガースにどんな変化をもたらしたのか。
サリーのインタビュー
『すぎやまさんのは曲がいい、綺麗、コーラスが響きやすい。でも演奏の楽しさがあまり浮かんでこなかった。 村井さんになって曲を弾くのが楽しくなった。 アイドルでありながら少しものを考え出してた時。「廃墟の鳩」をかつみが歌った時、照れが一切なかった。 凄くこういう歌を歌いたいと、5人ともそれが一致した。』
GSから歌謡曲、ピーター「夜と朝のあいだに」辺見マリ「経験」など、多種多様な曲をかいたが、1969年入るとGSブームにも陰りが来た。
そんな時、トワ・エ・モアの「ある日突然」「虹と雪のバラード」で大ヒットを飛ばす。 トワ・エ・モアや、編曲家の東海林修さんのインタビューが流れる。東海林さん、大変ダンディな方です。すぎやまこういちさんのインタビューも。
1969年、その後の日本のポップシーンを大きく変える会社、それが音楽出版と、原盤製作会社「アルファミュージック」
村井 『ことのおこりは、加橋かつみがタイガースをやめてフランスのバークレーレコードと契約したこと。 バークレーレコードの出版部門の人と仲良くなって、ポールアンカの「マイウェイ」の元の曲の原盤をタダでもらった。日本で出版されていない曲の権利を、いっぱいもらったことで始まったのが、アルファミュージック。』 アルファミュージックは、赤い鳥などを見出した。
(※ アルファレコードはトッポのお蔭で今がある。その時に出した「花の世界」どんな曲だったか、全く覚えていませんが・・)
1969(昭和44)年12月、
世界中で大ヒットしていたミュージカル「ヘアー」の日本版公演に主役格で出演。
パリで録音されたファン待望のデビュー・アルバムも同時期にリリース、加橋かつみは完全復活した。
そして1970(昭和45)年1月、デビュー曲「花の世界」がアルバムからシングル・カットされ発売。
作詞:加橋かつみ、作曲:村井邦彦、編曲:ジャン=クロード・プチ。オリコン・チャート58位、1.7万枚を売上げた。
「花の世界」 詩:加橋かつみ
花の世界を いつか僕等は作りたい
その日の来るまで 手をつないで
かけて行こう 哀しみは明日に
花のにおいに 愛を祈る僕達に
昨日の哀しみ 忘れて今
歩いて行く 花の世界の道を
いつも忘れないで 花の心その喜び
空に向かって 手をのばせば
つかめるはず 倖せのしるしを
花の心が いつも僕に語りかけ
目を閉じてごらん ほら聞こえる
明日の歌 花の世界の歌が
1969年、三重県の合歓の里で行われた「合歓のポピュラーソングコンテスト」略してポプコン。日本を代表する作曲家たちが一堂に会し、新曲を発表する非常に画期的なコンサートだった。あの時代のトップの作曲家、編曲家が集まった。村井さんは作曲賞を受賞。曲をいろいろ考えてとても楽しかった。
※ヤマハポピュラーソングコンテストとは、ヤマハ主催で1969年から1986年まで行われたフォークロック、ポップスの音楽コンテストである。略称「ポプコン」(POPCONとも)。後に年2回開かれるようになった。グランプリ優勝者には自動的にレコードデビューが約束され世界歌謡祭の出場資格を得ることが出来た。もともと第5回まではプロを対象にしたコンテストで、アマチュア向けのプロへの登竜門して開催されるようになったのは第6回からである。1970年代のニューミュージック全盛期に注目を集めたが、1980年代のバンドブーム、j-POPへの移行とともにこの名称での大会は終了。
※ ポプコンは元々、プロ対象だったのか、知りませんでした。 受賞しなかったけど、ジュリーは「君をのせて」で出ましたね。でも、この時はまだ歌手より曲に対しての賞だった。受賞できなかったけど、ジュリーのせいじゃないよ。YOUTUBEでもポプコンのことを話しています (TVでは、ジュリーのことにはふれていません) でもやっぱりジュリ~♪よね
1960年代、当時の文化人や芸能人が足しげく通った伝説のレストラン、キャンティ。
その交友から、のちの大ヒットを生み出すマッシュルームレーベルが誕生する。 ミッキーカーチス、内田裕也達と日比谷の野音に出ているような連中のレーベルを立ち上げた。そこで、売り出したのが、ガロ。B面だった「学生街の喫茶店」が大ヒットした。 すぎやまこういちさん、B面がA面になって僕がひっくりかえるほど驚いた。
そして、村井邦彦は作曲家から社長として力を注ぐようになる。 その当時、村井に見いだされたのが新井由美。
村井『加橋かつみさんがアルバムをレコーディングして、その中の一曲を彼女が書いていて、加橋さんがみつけてきた。』 ※トッポのホラじゃなかったのねー
村井 『凄くいい曲、ユーミンのようなライターと契約したいと、うちの専属になりませんか?と言った。新しいタイプの曲で、あの曲をうまく表現できる人はなかなか見つからず、彼女自身がやったほうがいいんじゃないかと、スタッフは思い出した。』 ユーミンは返事はいらないでデビュー。 その後アルファミュージックからYMO出て、世界的成功を収めた。
世界に通用する音楽を作りたいという思いでやってきた、村井邦彦のその思いは果たせたのか? 村井『これは果たせなかった。僕の夢を、YMO、ユーミンらに託したのかもしれない。』
細野晴臣 『プロデューサーとしては日本でただ一人の人じゃないかな』
かまやつ 『ソングライターとして優れた人だから、実際にオーディエンスの前でプレーすることを求めます』 ※まるで用意してあるようなコメントだと思いました('_')
そしてセルカバーアルバムを発売したという村井氏がピアノを弾き、白鳥英美子と「ある日突然」を二人でデュエットしながら、番組は終わる。先生、歌は素人です・・・
山本潤子さんが「ニューミュージックという言葉を生み出したのは村井さん」と言っていました。 実際の番組は、トワエモアの二人や森山良子山本潤子、細野晴臣、すぎやまこういち、ムッシュかまやつなどのインタビューが多かったが、私が興味があるのはGSと、タイガース関連、トッポの事だったので、そこは大幅にカットしました。
番組の感想は、うーん、結局セルフカバーアルバムの宣伝がしたかったのかしら? 村井先生が作曲家としてだけではなく、プロデューサーとしても偉大な方だという事は、お蔭でよーく理解できました。
それはわかったが、セルフカバーは・・・聴かされる方はちょっとぉ~('_') 褒めるとしたら、やさしいトーンの声だが、はっきり言えば気が抜けた、サイダーみたい(*_*) やっぱり、表には出ずに裏方の方がいいのでは。💦
先生、最近やることないから ついセルフカバーなんて出そうと思ったとか? それとも周りがおだてちゃったのかしらねー あ。つい本音で書きすぎました~(^^ゞ
ジュリーに読んでもらいたくて、何枚葉書を出したことか。
あ、でも読んでもらったのは全部で三回で、これは二度目です。
また他のも紹介できたらいいなと思います。