MC お待たせしました、大千秋楽でございます!50年大変長ごうございました。お互いに変わってしまいましたね。こうして いっぱいの皆様の前で歌えるのは幸せです。有難うございます、有難うございます・・
時はあまりにも早くすぎゆく 今のLOVELOVELOVEで24曲おわりました。50曲全部うたうと・・ 今頃来たの(観客、え?)何があったんだ 事故があったのか、滑ったのか、転んだか・・。(※最前列に後から来た人あり、手を合わせて謝っていました、雪で遅れたのかもしれないね)
只今の協議についてご説明いたします。ずーっと始まってから一番前のど真ん中 空いておりました。(ええ~!)ずーっと気になっておりました、ただ今到着されました!(拍手・・)
50曲ずっとやると帰りまテンになりますので・・何かご不満でも?あなたはご不満ですか?では25曲目を・・・
(渚でシャララの映像に)笑っていただけましたでしょうか?
僕のマリーでデビューしていらい50年が過ぎました。しかし順風満帆できたわけではありません。60年代はタイガースで、文字どうり日本一のグループになりました。そのボーカルでジュリーとわたしが命名したわけでございます。芸名を付けろと言われた際も沢田研二がいいと、言い張ったわけでございます。昔から意地っ張りな性格で今も変わっておりません。
70年代はバリバリに大活躍していたのでございます。その時の私には若さと美貌・・(笑)拍手 ただ今不適切な発言がございました(笑) 自画自賛、手前みそでございます。しかし私が言ったわけではございません、世間がそう言ったわけでございます。拍手・・女性でもないのに美貌という表現は「はっ?(バカにしたように)何を考えているんだ、大人たちは」そう思っていたわけでございます。
70年代は大活躍でございました、そして80年代に突入したと同時にパラシュートを出しました。そして あの手この手で大活躍をしたのです。同時にタノキントリオが出てくる時代であったと思います。ギンギンギラギラ一等賞は私が言った言葉でございます。
あの頃はザ・ベストテンという番組があって、来週は上がるの?下がるの?とスタッフに聞くわけで、それはもちろん秘密事項です。しかし私の聞き方がスタッフの聞き方が上手かったのでございます。上がるか下がるかだけ聴いて「沢田さん、来週は?一位かもしれませんね」
事情を知っている私は、「いや無理だと思います。」(笑)すでに下がるという情報が入っているのでございます。
今はもう時効で、まして私が大活躍した70年代じゃない時、勝手にしやがれを出した後、憎みきれないろくでなしを出している頃に、企画書に「憎みきれない・・」一位という企画書を見せられた記憶があります。ひとつのピークを過ぎた時に登場した番組です。数々の歌手が多くの記録を出しましたが、私はいつもタマに一位になるくらい。一位になった時こそ ちゃんと出演するよといったのに、田園コロシアムでコンサート中、只今こちらに駆け付け中ですといったまま、出演できず。
昔から問題児だったのかもしれません。そして90年代に入りましすと 青息吐息・・桃色吐息ではありません、咲かせ~て 咲かせ~て・・♪(笑) ももいろ といき・・はあ~(笑) その頃の私は もう美貌もなく若さというものも見放され、中年にさしかかっていました。
その当時、どんなに早く年をとりたいと思ったことか!・・早く年をとれば、あ、あのジュリーが 爺さまになった。と思って ため息をついてくれるんじゃないか、そこで たまさか元気はつらつ ジャンプしながらシャウトしながら歌ったら、皆が喜ぶんじゃないかと、いやいやながらも 早くジジーになりたいと思ったのと同時に、どんどんCDの売り上げが落ちてゆく・・(笑)
売れなくなってくるとから大変です、60年代後半からグループとして活躍し、PYGを経て活躍し、そして歌謡大賞を受賞し レコード大賞を受賞し、沢田研二もういいだろう、というのが世間の見かただろうとのはわかっておりました。
しかし その時点で私がツブシがきくとお思いでしょうか?この私にできる事があるんでしょうか?演技、まあ ソコソコ(笑) 僕なりに一生懸命やりました、どれもこれも大好きでした。でもその中でも 歌う事が一番大好きでした。拍手 今回50周年を迎えて、去年 音楽劇最後という事で大悪名をやらせていただきました。それをもって終了させていただきました。
僕は思いました、これから先 どういう風に沢田研二は生きていきたいのだ?歌う事はどこでだって できるでしょう。僕にはすごい苦い経験があるのです。まだまだ人気があったころ、CDの売り上げはさがっておりましたが、そういう時期に色んなメンバー、スタッフの意見を聞いて地方に行ってお客さんが満員にならない、もうちょっと小さい所でやろうじゃないか。という事になって、そうかな?と思いながらもそうやって小さい所でやったら、とあるスポーツ紙が落ち目と書いたのです。そう思う人は思えばいいと思いましたが、やっぱりそういう風に思う人がいるんだ、そういう日の失敗 教訓をいつか、いかせる日がくると思いました。
歌い続ける事、それは簡単に出来ることですが 僕はただただ ひそやかに歌うのではなく、せめて1200人ぐらい入る会場で 会場いっぱいのお客様の前で歌いたい。400、600 1000以内の会場で歌ったら また僕は落ち目と言われるかもしれないという おそれが有りました。そんなこともすでに言われなくなっていたのかもしれませんが、僕は意地を通します。
地方へ行ってお客さんが一杯にならない頃、いつか地方でお客さんが一杯になるようになりたい!その一心で僕は一生懸命頑張ってきたわけです。その一生懸命というのは、やみ雲でした、どう一生懸命やったらいいのかわからず、そのひとつが 地方は地方、都会は都会という訳隔てをしないで どこでもヒット曲をたくさんやらない。という事を僕は編み出したんです。
歌う曲は4~5曲、あの曲は歌わなかった。あれも歌わなかったと思われるかもしれません、今度来た時は歌うかもしれない・・よくよく見てたら 同じ曲を歌う訳じゃないのねと、さってくれることを僕は期待したのでございます。何も策を弄したわけではございません。ただただ 一生懸命なやり方としてそれを選んだわけです。そういう事を初めて まだまだ会場はいっぱいになりません。6年たち7年 8年、もうちょっとだ 10年ぐらいたった時、どの地方へ行ってもお客さんは いっぱいになるようになったのです。何をしてそうなったのか 僕にはわかりません。
僕は一生懸命歌いました、ベテランがベテランらしく 色々かまして歌っていることは僕は許せませんでした。ベテランでも 何であっても一生懸命歌う以外に何の方法があるんだと思って、やみ雲にやってきたわけです。
続く・・
ジュリーさまの美貌は、小学・中学・高校、お姉さま方、全ての若い女子供の憧れでした。ナベプロや大人たちは、タイガースの対象は高校生くらいのハイティーンで、小中学生のローティーンにまで受けると予想はしていなかったようです。低年齢層にまで受けたので、人気がいっそう爆発的な事になったといえます。
女たちはジュリーの美しさに、自分勝手な夢を見て 自分勝手な物語を作り上げました・・・ところが王子様は色々あって若くなくなり歳をとった。コンサートに人が減っていきました。TVから姿を消した90年代、TV復帰の2001年、でもTV復帰も1年だけでした。
その潮目がハッキリ変わったのは、何といっても還暦コンサートからです。席が埋まるのかと本当に心配だった 無謀とも思えたドームコンサート。それから急にチケットが取りにくくなりました。びっくしたけど、その観客の熱い熱気がとても嬉しかったです(^-^) いまや還暦コンサートを知らないファンも増えました。