木めぐり像めぐり

気に入った木、気になる像などを紹介していこうと思います。

太宰府天満宮の麒麟と鷽像

2015-01-15 10:25:03 | 

天満宮の参道を歩いていて、真新しい感じのする面白い像があったので、撮りました。一方は麒麟とわかったのですが、もう一方は何かわからなく、現代的なか姿をしていたので、最近作られたものだろうとおもったのですが、説明分を読んで、江戸末期に奉納されたと知り、驚きました。説明文のよると
「麒麟は中国の瑞獣思想上の動物で、聖人が表れて王道が行われる時に出現すると伝えられ、菅公御聖徳をたたえたものと言える。鷽は、1月7日、一年中の嘘を天神様の誠心と振り替えていただく鷽替神事ゆかりの鳥で、幸運を運ぶ天満宮の守り鳥でもある。
嘉永5年(1852)に奉納されたもの。」
 と、なっていました。
鷽は、シンプルな姿で、江戸時代に作られたと思えないほど、現代的な形をしていると思います。
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蔵王のヤマンバさま

2014-09-24 10:58:40 | 

 蔵王の熊野岳を登ったときに出会った像です。ヤマンバの像は初めて見ました。ただ首の部分は、新しく付けられたものなので実際は、どんなものなのか分からないのが残念です。説明によると
「蔵王の主峰熊野岳の山頂に『熊野神社・現在の蔵王山神社』があります。その山頂に至る登山道、神社への参拝道で最後の上り口にあたるこの場所は、『ワサ小屋跡』とよばれ、おワサさんという老婆がここにあった山小屋の番をしており、参拝者の面倒をみていたといわれています。
 この土地は蔵王山神社地とともに山形市宝沢の神保神官が司る敷地で、ひと頃は、参拝者に対してここで水を提供していたといいます。
 その昔、三途の川のほとりで衣をはぐ婆という伝説があり、そこから先は『女人禁制』であったという言い伝えがあります。立ち膝にギョロ眼、大きく開いた口の端から牙をむき出して、入山する者をとがめているようです。
 この姥神、通称ヤマンバ様の石像がここにいつの頃から居るのか、いつ首が無くなったか、つい最近まで誰も知られずに、積まれた石の下に埋もれていました。
 祓川登山道の分岐点を標す『首なし姥神さま』に、あらためて頭・顔部を再生しょうという機運が上がり、この度晴れて開眼と相成りました。平成23年5月24日」となっていました。
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上三依の珍しい道祖神

2014-06-15 13:44:51 | 

 前回紹介した植物園の入り口前に川が流れ、落差1mほどの滝があり、その川(尾頭沢)に沿って遊歩道のような道があったので歩いてみました。少し行くと川幅3mほど、増水した水で向こう側へ渡れなくなってしまいました。(この川に沿って塩原へと続く道があったようである。)その阻まれたところに「文政六銘石造道祖神」という説明板が立っていました。周りを見回してもそんなものが見つからず、どこだろうと探したら、道の斜面の4mほどの高いところに立っていました。なかなか珍しい物なので写真に撮りました。
 説明板によると「総丈60cm、女子像23cm、男根長さ16cm、蓮台最大幅36cm、光背最大幅27cm  道祖神は、路傍・村境にあって、邪悪のカミの村への侵入をふさぎとめる「ふさぎ」が祖形である。その起こりは、奈良時代に求められ、全国的な民俗信仰の一態様である。
 この神体は、娘が男根を胸にいだいた姿をいやみなく陽刻したものであって、この姿態の道祖神は栃木県内では全く他に類例をみない。のみならず、群馬県や長野県などに散見できる男女抱擁像などに対比できる全国的にも珍しく貴重なものである。……省略
 こうした時代背景の中で、上三依村の活況や尾頭峠越え塩原郷との盛んな交流があったこと、さらには、六地蔵などの他の石像の建立と併せて幅広い信仰の世界が存在したことを裏付ける貴重な一資料といえる。このように、『文政六年』と本体の造立年代が判然としていうることが、本町史上の背景的なことがらと併せて、本体の資料的価値を高からしめているといえる。」となっていました。
 ちなみに文政六年は1823年です。葛飾北斎63歳、歌川広重26歳、勝海舟が誕生した年です。
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樫野埼灯台とケマル・アタテュルク騎馬像

2013-12-26 13:24:56 | 

 南紀の串本駅の観光案内所で電動自転車をかりて、ほぼ1時間、上り下りの多い舗装道路を走って、大島の突端にある樫野埼灯台へ行きました。電動自転車でなければ、坂道が多いので、これなかったかもしれません。バスも走っているのですが、やはり機動力という点で自転車は便利です。写真は灯台とそのそばで遭難した軍艦エルトゥール号を救助したことにより、駐日トルコ大使館より串本町に寄贈されたムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像です。アタテュルクは、第1次世界大戦後、分割占領された祖国解放に立ち上がり、指導者としてこの戦争を勝利に導き、初代大統領として、祖国の近代化を成し遂げ、建国の父として国民から深い尊敬を受けている。
 樫野埼灯台は、1866年江戸幕府とアメリカ等4カ国との間で結ばれた江戸条約で建設が決められた8灯台の一つです。「日本の灯台の父」として知られるリチャード・ヘンリー・ブラントン(英国人)がわが国で初めて手がけた石造りの洋式灯台で、1869年3月着工、翌年6月10日点灯されました。
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鳳来寺石段の始まる入り口にある利修仙人像

2013-09-14 19:10:03 | 

 この像を見たとき、奈良県のキャラクターせんとくんとそっくりと思いました。やはり、この像の作者は同じ人物で薮内佐斗司さんでした。説明によると「鳳来寺山はもと桐生山といって、高さが150mもある桐の大木が生えていました。古い木なので洞があり、竜や鳳凰という美しい大きな鳥が住み着いていました。1400年ほど前、仙術という超能力を身につけた利修仙人がこの山へ来て修業をはじめ、鳳凰を操って空を飛んだりしていました。
 1300年ほど前のことです。文武天皇が病気になってなかなかなおらないので、霊力を持つといううわさの高い利修仙人にご祈祷してもらおうということになりました。そして、草鹿砥公宜という人が天皇の使いとして、利修仙人に頼みにきました。仙人は鳳凰に乗って都へいき、一心にお祈りをして天皇の病気をなおしました。
 病気の全快を喜んだ天皇は、利修仙人を開山として、桐生山に立派なお寺を建てました。そして、鳳来寺と名付けました。そこから鳳凰が来たという意味です。それから桐生山を鳳来寺山と呼ぶようになったということです。」と、いうことです。
 仙人というと、白いひげを伸ばした老人をイメージしてしまいますが、幼児にしてしまうところが作者の凄いところだと思います。
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合羽橋のかっぱ河太郎像

2013-06-21 14:08:50 | 

 浅草の浅草寺をお参りしたついでに、合羽橋道具街を散策してみました。そこで、金色のかっぱ像を見つけました。第一印象は金粉ショーの像かと思いました。仏像のように金色にするのはセンスがない、かっぱだったらやはり緑色するのがいいと思うのですが、どうでしょうか。しかし、かっぱの像は面白いと思います。

かっぱ河太郎の碑の説明文によると「古来合羽橋は商売とは深い縁でむすばれていた今から約2百年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋喜八は、このあたりの水はけが悪く、僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀していることを見かね、私財を投げ出し、治水のための掘割工事を始めた。ところが工事は困難を極めなかなかはかどらない。その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ、夜な夜な現れては人知れず工事を進め、さしもの難工事もついに完成した。そして、その河童を見た人は、なぜかそれから運が開け、商売が繁盛したという。この故事に鑑み、合羽橋道具街の誕生90年を迎えるにあたり、ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を祈念し、台東区の協力を戴き、この地に、かっぱ河太郎像を建立する。」となっていました。
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北の丸公園の吉田茂像

2013-05-22 16:36:48 | 

 北の丸公園に吉田茂像がありました。どうしてこの場所にこの像があるのかその理由はわかりませんが、この人物の歴史を調べれば、自由民権運動の頃から元首相の麻生太郎までつながり、近代日本の歴史を見渡すことができると思います。戦後首相として活躍した吉田茂を、私はあまりよく知りませんが、日本の歴代首相の中でも、かなり重要な位置を占める人物だと思います。
 この像は、舟越保武の作品で、柔らかな曲線の作り出す姿は、彼の彫刻の特徴がよく出ていると思います。
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さわり大黒(流政之 1973年)

2012-06-03 18:50:08 | 

 東京の丸の内を歩いていたら、三菱東京UFJ銀行入口に写真の像を見つけました。一目見て流政之の作品だとわかりました。ある絵を見てピカソの絵だとわかるように、流の作品にもそれがあります。かなり昔、流の自伝のような新聞記事だと思うのですが、そこで「自分は特攻隊くずれ」と言っていたようなことが記憶に残っています。だから、もう死んでいるだろうと思って調べてみましたら、1923年生まれの89歳、まだ作品を作っているようです。流政之のオフィシャル・ウェブ・サイトhttp://www.nagaremasayuki.com/ もありました。そこで彼の作品をいくつも見ることができます。
 銀座の三愛ビルの入り口の隅にも胴長の猫の作品があります。
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三越のライオン像がこんな所に?

2012-02-23 10:42:54 | 

 浅草駅から、あるいはスカイツリーから徒歩15分ほどの所に三囲(みめぐり)神社があります。そこに、池袋の三越にあったライオン像が鎮座しています。一対で展示されていればバランスがとれるのですが、一体しかおりません。展示できる土地がなかったのだろうと推測しましたが、残念な姿です。
 なぜこんな所にライオン像があるかといえば、この神社は、江戸時代、京都の巨商、三井家が江戸に進出、守護神と仰ぎ、享保元年、三井高治、三井高久、三井高房が相議、神位を乞請けたそうです。
 三井家の守護神ならば、もっと大きな敷地ならばいいのに、と思うのですが、企業が宗教に多額の寄付をするのは難しいのだろうと思いました。
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岡倉天心像

2012-01-23 10:47:51 | 

 前回のバルザック像と共に、芸大美術館に行った時に見つけた像です。照葉樹に囲まれた東屋の様な下に鎮座していました。とても薄暗く、すぐ手ブレするので、撮るのに苦労しました。ほとんど満足できるものではありません。
 岡倉天心はこの芸大の前身である東京美術学校の設立に大きく貢献し、横山大観や菱田春草の教育に大きな影響を与え、洋画に負けない日本画の将来をよく考えていたようです。この像は、青銅時代で解説したときのエピソードに出てきた平櫛田中の作品です。上野谷中にも、日本美術院創設の地の公園の中にある六角堂を模した建物の中に金箔で覆われたこの像が飾られています。彼は岡倉天心を尊崇し、毎朝この像を拝んでいたそうです。この服装は、天心が意匠した奈良時代の官服を模した、東京美術学校の制服姿です。宮廷画工を描いた韓国ドラマ「風の絵師」というのがあります。その制服がこの像の服装とそっくりです。
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