俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

不確実

2014-05-04 10:02:02 | Weblog
 昔「日本沈没」という映画でこんなシーンがあった。主人公の科学者が地殻大変動の危機について説明していると「それは確実なことではない」と官僚が指摘した。科学者は怒って「確実になってからでは手遅れになる」と反論した。そのとおりだと思った。
 しかし現代社会では不確実なことを騒ぎ立て過ぎる。大地震が起こるとか温暖化によって多くの都市が水没するとかいった形で危機を煽る。彼らの主張も「確実になってからでは手遅れになる」であって実際のところどうなのかについての明確な根拠の無いまま対策を急がせる。
 癌の早期発見・早期治療についても同じ胡散臭さを感じる。本当に早期発見・早期治療は有効なのだろうか。
 早期発見されるものは癌なのか良性腫瘍なのか区別できないものが殆んどだ。早期治療が成功したとされる手術の大半が良性腫瘍で、近藤誠医師の言葉を借りれば「がんもどき」なのではないだろうか。
 早期発見のための検査漬けも大問題だ。CTにせよX線にせよ被曝量は無視できない。早期発見により助かった人よりも検査被曝によって癌に罹った人のほうが多いのではないだろうか。
 殆んどの中高齢者の脳には動脈瘤があるそうだ。これを一々手術していたら動脈瘤の破裂で死ぬ人よりも手術の失敗で死ぬ人のほうが多くなるから大半は放置されているらしい。
 癌も手術によって治療できるのは「がんもどき」だけであって癌であれば見付かった時点で既に転移しているらしい。それなら検査も手術も無意味だ。癌検診によって放射線を浴びるだけ丸損だ。私は癌検診を受ける気は無いし癌と分かっても手術を受けようとは思わない。勿論これは現在の医療レベルでの話であって、将来、飛躍的に治療法が向上したら考えを改めるだろう。

数値化

2014-05-04 09:33:43 | Weblog
 数値を絶対視する人がいる。彼らは血圧や血糖値などの検査結果に一喜一憂する。高校生なら偏差値を気にするし、太り気味の人や若い女性ならカロリー摂取量に神経質になる。しかし数値とはそんなに意味のあるものなのだろうか。
 確かに数値は客観的だ。事実であれば受け入れるしか無い。しかし数値は事実そのものではなく仮説を数値化しただけのものが大半を占める。
 「知能テストとは何か」と尋ねられた心理学者が「知能の高低を測るテストだ」と答え、更に「知能とは何か」と尋ねられて「知能テストによって測られるものだ」と答えたという逸話がある。これは決して無意味な循環論ではない。数値化するためにはそれぐらい無理をせざるを得ないということだ。
 もし重量計が無い世界で重量を表現しようとしたら身長によってそれを代用しようとするだろう。つまり三次元を一次元によって代用するということだ。これは必ずしも一致しないがある程度の相関性を持つだろう。
 知能とは複雑な要素によって構成される多次元なものだから本来、数値化などできない。それを比較可能なように数値化したのが知能指数だ。正確ではないが無意味でもない。重量を長さで表現するようなものだ。
 あるサッカー選手について多数の評論家が採点してそれを集計しても科学的評価にはならない。この場合の数値化は単なる主観的評価の足し算に過ぎず客観的評価とは言い難い。質の違いを量に還元しようとすることは虚しい試みだ。
 数値の意味を理解しない人ほど数値の意味を過大評価する。例えば高血圧と診断された人が1時間ごとに血圧を測って一喜一憂しても全く無意味なことだ。そんなくだらないことに時間を費やすよりも血圧を上げている原因を改善すべく少しでも努力すべきだろう。
 カロリーは便利な一元論だが、私はカロリー摂取量と体重の増減は必ずしも一致しないと考えている。蛋白質は単なるカロリー源ではなく少なからず細胞のメンテナンスに使われていると思うからだ。カロリー主義は危険な一元論だろう。あるいはこんなことは殆んどあり得ないことだとは思うが、草食動物や、肉食動物から草食動物へと進化したパンダのようにセルロースを分解できる微生物を腸内で培養している人がもしいれば、食物繊維は炭水化物と同程度のカロリー源になるだろう。