俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

コンビニ

2014-05-06 10:11:14 | Weblog
 コンビニが成功したのは規制対象外だったからだ。政府は大型店を目の敵にしていた。百貨店法から大規模小売店舗法、そして大規模小売店舗立地法に至る法による規制は総て中小小売店を守るためのものだ。これは決して商業を発展させるためのものではない。中小商店主とその家族の票を狙っただけのものだ。
 こんな規制のためイオン・グループは郊外出店を戦略として選んだ。当時は「タヌキがいるような場所に店を作れ」という方針だったと言われている。その結果、モータリゼーションが加速されて中小都市の中心部は寂れてシャッター商店街が生まれた。
 セブン&アイの戦略は違った。法に規制されないコンビニの出店を選んだ。法の規制は店舗面積が基準なので、それ以下の面積であれば何の規制も受けなかったからだ。
 構図を単純化すれば、イオンが中小都市を空洞化させ、その空白域をコンビニが埋めたということになる。
 イオンもセブン&アイも法規制に対応して戦略を立てたということだ。今年の決算を見る限りではセブン&アイの戦略のほうが優っていたように見えるがまだ最終決着ではない。国による規制が変われば状況は如何様にでも変わり得る。
 今後、人口が減少するに伴い人は都心に集中するものと予想される。その際、最も有利なのはコンビニでも郊外店でもなく都心の大型店だろう。品揃えと人員効率において大型店の優位性は揺るがない。
 人員効率の悪さは小型店の致命的な弱点だ。どんな小さな店であろうとも一人以上の店員を常時配置せねばならない。この弱点をフランチャイズ方式のオーナー制によって補っているがオーナーの負担が大き過ぎる。こんなやり方がいつまでも通用するとは思えない。コンビニ業界の話ではないが、和民やすき家のように求人難のせいで閉店ということもあり得る。小売業の勢力地図は今後まだ変わり得る。商業は恣意的な政策のせいで歪な方向に進化してしまったからだ。

排泄欲

2014-05-06 09:38:34 | Weblog
 排泄欲は欲なのだろうか。私は下痢持ちなので特に強く思うのだが、排泄の時間ほど無駄な時間は無い。最も減らしたいし、もし可能ならゼロにしたい時間だ。そうせざるを得ないことを「欲」と呼ぶことは無意味なのではないだろうか。例えば腰痛の老人が腰を屈めるのは「屈身欲」があるからではない。足を痛めた人がビッコをひくのは「ビッコ欲」があるからではない。こう考えると「睡眠欲」も疑わしい。これも「したい」のではなく「せざるを得ない」だけだ。あるいは喉が渇いた人が水を求めるのは「摂水欲」によるのだろうか。「飲酒欲」なら多くの人が持っていそうだが「摂水欲」は欲とは言い難い。
 私は欲を分解して捕える。通常「食欲」と呼ばれるものを「満腹欲」と「美食欲」に分けて考える。前者は空腹を満たしたいという消極的な欲であり、後者は旨い物を食べたいという積極的に快楽を求める欲だ。性欲なら、誰でも良いから性行為をしたいという「情欲」と、特定の人との関係を深めたいという「愛情」に分けて考える。
 たとえ言葉としては「したい・欲しい」であっても消極的な欲求を「欲」と呼ぶ必要は無かろう。実際の話「トイレに行きたい」を英語では`Nature calls me.'と表現する。この文章には「欲」ではなく「自然」があるだけだ。広い意味での生理現象は欲ではなく動物として強制される行為なのではないだろうか。
 人が何等かの行為を選択するのは欲求があるからだ、という前提が間違っているように思える。自然界の一員でもある人間は動物的行為から逃れられない。これを人間的な欲と同一レベルで考える必要はあるまい。マズローのように欲をレベルによって分類するのではなく、同一視されている欲が実は多重性を持っているということに注目したい。
 人の行為には必ず動機がある。しかしそれは必ずしも「欲」ではない。動物として必ずしも必要でないことに執着することに限って「欲」という言葉を使うべきだと思う。I wantとI needは区別されるべきだろう。