俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

最悪

2014-05-24 10:17:54 | Weblog
 最悪を想定することは無意味だ。最悪の事態に対応することはできない。例えば小惑星が地球に激突するなら現時点では人類に対応策は無い。あの何もかも破壊するかのような核兵器でも表面を多少傷付けるだけだ。ごくごくちっぽけな小惑星しか破壊できない。
 大地震ならどうだろうか。有史以来の大地震になら対策も立てられるが、ヒマラヤ山脈が生まれる原因となったと言われるインド亜大陸とユーラシア大陸との激突に対応することは不可能だ。マグニチュードは10を大きく超え地殻変動や津波の規模は想像を絶する。対応不可能な災害は諦めるしか無い。だから学者も政治家も対応可能な最大値しか考慮しない。それ以上であればお手上げであり諦めるしか無い。
 逆に言えば技術的に対応可能なレベル以上の災害は想定から除外しているということだ。東日本大震災ではこのことの欠陥が露呈した。東日本大震災は防潮堤の限界を証明してしまった。一部の防潮堤は災害の拡大にさえ繋がった。津波が見えなかったり逃げ遅れたり、あるいは門を閉めに行ったために犠牲になった人までいた。防潮堤はそれが防げる限界を超える津波には無力だ。多分、現代の技術では東日本大震災の規模の津波には耐えられまい。逃げるのが一番だ。防潮堤よりも避難タワーのほうが有効なようだ。現代文明にできることは対応可能な最大値に想定を留めてその範囲内で最善策を練ることだけだ。それ以上なら諦めるしか無い。困ったことには対応可能な最大レベルが先にあってそれに合わせて最大限の災害が想定されている。
 こう考えると原発は危険極まりない。現代技術で対応可能な範囲しか想定せずそれを超えれば壊れるのだから諦めなさいということになっている。対応可能な範囲しか想定しないのは全く乱暴な話だ。人が勝手に最大値を定めても自然はそれに従ってくれる訳ではない。現代の技術では守り切れないということが分かっておりその時には甚大な被害を招くことになるのだから、そんなものを作るべきではなかろう。

健全な情報

2014-05-24 09:44:21 | Weblog
 「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉は最近では余り使われていない。この言葉は元々誤った引用だった。ユウェナリスの言葉は「健全な精神が健全な肉体に宿れ」に近い。この言葉が使われなくなったのは身体障害者の団体からの抗議が原因らしい。「障害者は健全な精神を持てないのか」という抗議から逃れるために使用を自粛しているようだ。こんな言い掛かりを付ける人が健全な精神の持ち主と言えるかどうかは敢えて問わないでおこう。
 昭和44年にカルメン・マキという歌手の「時には母のない子のように」という歌がヒットした。この時ラジオ番組に「放送禁止にせよ」という抗議文が届いた。「♪母のない子になったなら誰にも愛を語れない♪」という部分が父子家庭に対する差別だという指摘だった。DJ(ディスク・ジョッキー)が誰だったのか覚えていないが、この葉書を紹介した上で「この歌詞は母の尊さを讃えたものであって差別とは言い難い」と言ってこの曲を放送した。
 私はこのDJの姿勢を高く評価する。異論の存在を認めた上で自らのスタンスを示すべきだと思う。現代は言い掛かりに近い苦情を回避するための事勿れ主義が横行していると思う。「群盲、象を撫でる」は私の好きな諺だ。この諺は盲人を蔑視することが目的なのではなく、我々自身が真実を知り得ない群盲であることを戒めているからだ。こんな諺まで障害者に対する配慮という理由で使えなくなっている。これは弱者に対する過剰な遠慮ではないだろうか。
 「美味しんぼ」の騒動も同根だ。福島についてネガティブな発言をしてはならないという暗黙のルールが言論の自由を奪っている。ネガティブな発言が禁じられたら嘘を言うか沈黙するかということになってしまう。風評被害を生むのはこんな言論統制だ。不安を持っている人は情報に飢えている。そんな人にネガティブな情報がそっと伝わったら「やっぱり隠蔽されていた」と思って過剰反応をする。正しく怖がることこそ必要だ。
 マスコミによる自粛は言論統制の一種だ。嘘を報じてはならないが、事実を報じないことも国民を欺く行為だ。