韓国のセウォル号の船長ら4人が15日に「不作為の殺人罪」で起訴された。彼らの行為は恥ずべきものだが日本では殺人罪にはできないだろう。法体系が違うとは言え違和感を覚える。日本でなら「未必の故意」か「重過失致死」だろう。結果は最悪だったが船長らに殺意は無い。自らの危機に動転して命辛々逃げ出しただけだろう。
カルネアデスの板という寓話がある。船が沈没して小さな板に捕まっていると他の被害者もその板に捕まろうとした。二人が捕まれば板が沈んで二人とも溺れてしまうから彼は後から来た男を追い払って水死させた。こんな場合、緊急避難が認められる。セウォル号の船員も自らの危機に瀕していた。許されない行為ではあるが情状酌量の余地はあるだろう。感情的に許せないということと厳罰とは区別されるべきだろう。
もし「不作為の殺人罪」が広く認められるなら妙なことになるだろう。料理人が油火災を起こして真っ先に逃げてそれが延焼して死者が出れば「不作為の殺人」と韓国ではされるのだろうか。これは過失致死ではないだろうか。
私は犯罪における結果主義を不当なものと考える。日本の刑法の殺人罪が「故意」を条件としているのは妥当だと思う。殺意のある行為と殺意の無い行為は明確に識別されるべきだろう。殺意の無い殺害は過失致死に当たる。突き飛ばしたら相手が頭をぶつけて死んでしまった場合と、ナイフで滅多刺しにした場合とでは、相手が死んだという結果が同じであっても罪が違って当然だ。
その観点から現住建造物等放火罪は不適切な法律だと思う。放火致死が殺人よりも重い罪と位置付けられているからだ。放火は不特定多数に危害を及ぼす恐れのある危険な犯罪ではあるが傷害と同程度の罪だと私は考える。大半の放火で死者は出ない。たまたま住人が死んだ場合のみ極端に重い罰が科される。意図も行為も同じであっても結果次第で重罪になる。放火においても「殺意」を考慮すべきだと思う。
カルネアデスの板という寓話がある。船が沈没して小さな板に捕まっていると他の被害者もその板に捕まろうとした。二人が捕まれば板が沈んで二人とも溺れてしまうから彼は後から来た男を追い払って水死させた。こんな場合、緊急避難が認められる。セウォル号の船員も自らの危機に瀕していた。許されない行為ではあるが情状酌量の余地はあるだろう。感情的に許せないということと厳罰とは区別されるべきだろう。
もし「不作為の殺人罪」が広く認められるなら妙なことになるだろう。料理人が油火災を起こして真っ先に逃げてそれが延焼して死者が出れば「不作為の殺人」と韓国ではされるのだろうか。これは過失致死ではないだろうか。
私は犯罪における結果主義を不当なものと考える。日本の刑法の殺人罪が「故意」を条件としているのは妥当だと思う。殺意のある行為と殺意の無い行為は明確に識別されるべきだろう。殺意の無い殺害は過失致死に当たる。突き飛ばしたら相手が頭をぶつけて死んでしまった場合と、ナイフで滅多刺しにした場合とでは、相手が死んだという結果が同じであっても罪が違って当然だ。
その観点から現住建造物等放火罪は不適切な法律だと思う。放火致死が殺人よりも重い罪と位置付けられているからだ。放火は不特定多数に危害を及ぼす恐れのある危険な犯罪ではあるが傷害と同程度の罪だと私は考える。大半の放火で死者は出ない。たまたま住人が死んだ場合のみ極端に重い罰が科される。意図も行為も同じであっても結果次第で重罪になる。放火においても「殺意」を考慮すべきだと思う。