俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

不作為

2014-05-18 10:12:14 | Weblog
 韓国のセウォル号の船長ら4人が15日に「不作為の殺人罪」で起訴された。彼らの行為は恥ずべきものだが日本では殺人罪にはできないだろう。法体系が違うとは言え違和感を覚える。日本でなら「未必の故意」か「重過失致死」だろう。結果は最悪だったが船長らに殺意は無い。自らの危機に動転して命辛々逃げ出しただけだろう。
 カルネアデスの板という寓話がある。船が沈没して小さな板に捕まっていると他の被害者もその板に捕まろうとした。二人が捕まれば板が沈んで二人とも溺れてしまうから彼は後から来た男を追い払って水死させた。こんな場合、緊急避難が認められる。セウォル号の船員も自らの危機に瀕していた。許されない行為ではあるが情状酌量の余地はあるだろう。感情的に許せないということと厳罰とは区別されるべきだろう。
 もし「不作為の殺人罪」が広く認められるなら妙なことになるだろう。料理人が油火災を起こして真っ先に逃げてそれが延焼して死者が出れば「不作為の殺人」と韓国ではされるのだろうか。これは過失致死ではないだろうか。
 私は犯罪における結果主義を不当なものと考える。日本の刑法の殺人罪が「故意」を条件としているのは妥当だと思う。殺意のある行為と殺意の無い行為は明確に識別されるべきだろう。殺意の無い殺害は過失致死に当たる。突き飛ばしたら相手が頭をぶつけて死んでしまった場合と、ナイフで滅多刺しにした場合とでは、相手が死んだという結果が同じであっても罪が違って当然だ。
 その観点から現住建造物等放火罪は不適切な法律だと思う。放火致死が殺人よりも重い罪と位置付けられているからだ。放火は不特定多数に危害を及ぼす恐れのある危険な犯罪ではあるが傷害と同程度の罪だと私は考える。大半の放火で死者は出ない。たまたま住人が死んだ場合のみ極端に重い罰が科される。意図も行為も同じであっても結果次第で重罪になる。放火においても「殺意」を考慮すべきだと思う。

白と黒

2014-05-18 09:36:36 | Weblog
 福島は今も危ないのか、これが今回「美味しんぼ」が提起した問題だ。福島に住めるのか、福島産の食材は本当に大丈夫なのか、ということについて政府は「直ちに健康に影響を与えることは無い」に近い、かつて毎日のように聞かされた言葉を使ったり、「住民のいる所が安全な場所だ」「流通している食材は安全だ」といったまるでかつての小泉首相の「自衛隊がいる場所が非戦闘地域だ」との答弁のような詭弁に終始している。本当に安全なのだろうか。
 まず動かぬ証拠を挙げておこう。何のことはない、農林水産省ではなく厚生労働省が公表しているからだ。直近の検査で福島産のゼンマイなど5品目が基準値を超えたと今月12日に公表した。これで水掛け論は不要だろう。たとえ新聞・テレビが報じなくてもネットで調べればすぐに分かる。
 安全と危険が混在しているのが現状だ。空気中の放射線量は風や天気によって刻一刻変動するし、農産物の汚染度も個々に異なる。放射線耐性の個人差も大きい。実際のところ、どの程度危険なのか分からないから「とりあえず安全」として曖昧なままで放置されている。
 体温とは違って血糖値や血圧などは幾つ以上なら危険かという線引きが難しい。白と黒の間のグレーゾーンが余りにも広い。放射線も何ミリシーベルト以下とか何ベクレル以下なら安全という線引きは実際にはできない。基準は作ったものの守る気も守らせる気も無いようだ。極力、寝た子を起こさないようにすることが政府の方針のようだ。昨日(17日)安倍首相は福島市で「全力を挙げて対応する」と語ったが「全力で抑え込む」という意味ではないだろうか。
 「美味しんぼ」は有害の程度が分からなくても事実を公表せよと主張する。基準値を超えるなら売ってはならないし買ってもいけない筈だ。ごくごく真っ当な主張だろう。これを「風評被害を助長する」と非難するのは全くお門違いだ。風評被害は事実誤認に基づくが、基準値超過は事実であって風評ではない。
 風評被害を恐れて事実を隠蔽することこそ本末転倒だ。事実を隠すから安全な物まで危険な物と混同される。国民には事実を知る権利がある。事実に基づいて各個人が判断すべきであって、事実を知らされなければ風評に頼らざるを得なくなる。私は基準値を多少超えたぐらいなら殆んど気にしないが、そうでない人も少なからずいる。いずれにせよ事実が共有されることが重要だ。知る権利を奪われてはならない。