俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

平等と自由

2014-05-28 10:14:23 | Weblog
 原始共産制は皆が平等に貧しい社会だ。平等を優先すればそんな社会になる。もし人が同質であれば平等は難しくない。しかし意欲も能力も異なる人を平等に処遇するためにはかなり無茶な制約が必要になる。
 非現実的な仮定ではあるが、身長や体重の平等が政治的目標となった場合、平均値が目標とされるだろうか。もし平均値が目標にされるならそれなりに有益だろう。しかし実際には最下位への同調が強制されることになるだろう。背の高い者は足を切られ、体重の重い者は絶食を強いられる悪平等の社会だ。
 学校のテストであれば、全員に現在の平均点を取らせることは難しいが、全員に最低点を取らせることなら可能だ。こうやって同質化=平等が達成される。
 一方、自由と競争が認められる社会であれば一部の人が豊かになって格差が生まれる。しかしこれによって社会全体の富は増える。
 毛沢東の時代の中国が前者で、小平の「先富論」以降の時代が後者だ。競争を肯定することによって中国のGDPは大きく拡大した。
 しかしその後がいけない。先に富を得た者が牽引者になって全体を向上させようとはしなかった。丁度、高度経済成長期の日本のように全体が豊かになるべきだった。中国では富める者はますます富を集め貧しい者は放ったらかしのままだ。こんなことになったのは競争があるのに自由が無いという異常性と権力の集中が原因だろう。
 権力が分散していれば権力争いが起こる。現在のタイで都市住民と農民が争うように、英仏などでは市民革命が起こった。実権を握る少数者と貧しい少数者による対立だ。資本家は労働者による反乱を恐れて待遇を改善し続けた。こうして分厚い中間層が生まれた。
 共産主義を理想としない共産党が独裁を続ける中国ではデモもストも非合法だ。これでは権力者は搾取の手を緩めようとはしない。力と力が対立すれば弁証法的に発展して止揚される。力が抑え込まれれば発展の力学が働かずに現状が維持される。つまり権力構造が変わらない。しかしいずれ遠からずに制度疲労が限界に達して破綻することになるだろう。中国人民にとっても国際社会にとってもそれが望ましいし歴史の必然でもあるだろう。

認識

2014-05-28 09:37:24 | Weblog
 我々は知覚に基づいて認識するが、実は認識が知覚を歪めている。最も簡単に実感でき、しかも今すぐにでも体験できる実例を紹介しよう。寝転がって天井を見て欲しい。その時、天井板の四隅は総て鈍角に見えるだろう。つまり四角形の内角の和が360度を超えてしまう。これは立体を平面として捕えることによって生じる錯視なのだが、視覚はそんな主観的な画像を捕える。
 数学的に説明しよう。天井の四隅はどれも3面によって構成される。壁2面と天井面だ。四隅はそれぞれ3本の線で作られる。内角もそれぞれ3つずつある。それぞれの内角の和は360度でなければならない。すると個々の内角の平均値は120度となる。天井が約120度の内角を4つ持つ四角形であれば内角の和は約480度となる。
 この奇妙な現象は写真に撮れば納得できる。天井板が曲がって見えるからだ。まるで魚眼レンズで撮影した写真のように直線が曲がっている。
 日常的に目にするこの奇妙な光景に人はなぜ気付かないのだろうか。先に認識があるからだ。天井板の内角は直角で、壁と天井との接線は直線であると知っているから、それとは違った見え方をしてもそれを否定してしまう。
 我々の知覚はそれほどいい加減なものだということだ。見たままの像を脳が勝手に修正してしまう。偏見があれば正しい姿が見えなくなるのは当然のことだ。「アバタもエクボ」どころの話ではない。先入観に基づいて世界は知覚される。人は見たままに見ないし聞いたままに聞かない。見たいように見、聞きたいように聞く。見ようとしなければ見えないし、聞こうとしなければ聞こえない。
 好きな異性であれば触っても触られても心地良い。そうでなければ鳥肌が立つ。人間の知覚はこれほどまでに認識によって操縦されている。だから正しく知覚することは難しく正しい認識はもっと難しい。これを克服するためには不快さを悦ぶような奇妙な性質が必要だろう。幸か不幸か、私は不快を悦ぶという困った性格を持ち合わせている。自分自身が語った言葉の中で最も気に入っているものは「嫌いなことをするのが大好き」だ。