原始共産制は皆が平等に貧しい社会だ。平等を優先すればそんな社会になる。もし人が同質であれば平等は難しくない。しかし意欲も能力も異なる人を平等に処遇するためにはかなり無茶な制約が必要になる。
非現実的な仮定ではあるが、身長や体重の平等が政治的目標となった場合、平均値が目標とされるだろうか。もし平均値が目標にされるならそれなりに有益だろう。しかし実際には最下位への同調が強制されることになるだろう。背の高い者は足を切られ、体重の重い者は絶食を強いられる悪平等の社会だ。
学校のテストであれば、全員に現在の平均点を取らせることは難しいが、全員に最低点を取らせることなら可能だ。こうやって同質化=平等が達成される。
一方、自由と競争が認められる社会であれば一部の人が豊かになって格差が生まれる。しかしこれによって社会全体の富は増える。
毛沢東の時代の中国が前者で、小平の「先富論」以降の時代が後者だ。競争を肯定することによって中国のGDPは大きく拡大した。
しかしその後がいけない。先に富を得た者が牽引者になって全体を向上させようとはしなかった。丁度、高度経済成長期の日本のように全体が豊かになるべきだった。中国では富める者はますます富を集め貧しい者は放ったらかしのままだ。こんなことになったのは競争があるのに自由が無いという異常性と権力の集中が原因だろう。
権力が分散していれば権力争いが起こる。現在のタイで都市住民と農民が争うように、英仏などでは市民革命が起こった。実権を握る少数者と貧しい少数者による対立だ。資本家は労働者による反乱を恐れて待遇を改善し続けた。こうして分厚い中間層が生まれた。
共産主義を理想としない共産党が独裁を続ける中国ではデモもストも非合法だ。これでは権力者は搾取の手を緩めようとはしない。力と力が対立すれば弁証法的に発展して止揚される。力が抑え込まれれば発展の力学が働かずに現状が維持される。つまり権力構造が変わらない。しかしいずれ遠からずに制度疲労が限界に達して破綻することになるだろう。中国人民にとっても国際社会にとってもそれが望ましいし歴史の必然でもあるだろう。
非現実的な仮定ではあるが、身長や体重の平等が政治的目標となった場合、平均値が目標とされるだろうか。もし平均値が目標にされるならそれなりに有益だろう。しかし実際には最下位への同調が強制されることになるだろう。背の高い者は足を切られ、体重の重い者は絶食を強いられる悪平等の社会だ。
学校のテストであれば、全員に現在の平均点を取らせることは難しいが、全員に最低点を取らせることなら可能だ。こうやって同質化=平等が達成される。
一方、自由と競争が認められる社会であれば一部の人が豊かになって格差が生まれる。しかしこれによって社会全体の富は増える。
毛沢東の時代の中国が前者で、小平の「先富論」以降の時代が後者だ。競争を肯定することによって中国のGDPは大きく拡大した。
しかしその後がいけない。先に富を得た者が牽引者になって全体を向上させようとはしなかった。丁度、高度経済成長期の日本のように全体が豊かになるべきだった。中国では富める者はますます富を集め貧しい者は放ったらかしのままだ。こんなことになったのは競争があるのに自由が無いという異常性と権力の集中が原因だろう。
権力が分散していれば権力争いが起こる。現在のタイで都市住民と農民が争うように、英仏などでは市民革命が起こった。実権を握る少数者と貧しい少数者による対立だ。資本家は労働者による反乱を恐れて待遇を改善し続けた。こうして分厚い中間層が生まれた。
共産主義を理想としない共産党が独裁を続ける中国ではデモもストも非合法だ。これでは権力者は搾取の手を緩めようとはしない。力と力が対立すれば弁証法的に発展して止揚される。力が抑え込まれれば発展の力学が働かずに現状が維持される。つまり権力構造が変わらない。しかしいずれ遠からずに制度疲労が限界に達して破綻することになるだろう。中国人民にとっても国際社会にとってもそれが望ましいし歴史の必然でもあるだろう。