公園で事故が起こる度に遊具が撤去される。ブランコであれ滑り台であれ、不適切な使い方をすれば事故は起こるものだ。ところが事故が起これば遊具の欠陥の有無を問わず撤去される。これは利用者の安全のためではなく管理責任を逃れるためだろう。
大阪に住んでいた頃、近所の公園で、ある日突然キャッチボールが禁止された。多分、事故があったのだろう。これくらいなら納得できる。しかし段々エスカレートして訳の分からない禁止が増えている。ネットで調べれば呆れるような禁止条項が沢山見つかる。漫才の練習、楽器、ダンス、スポーツ、飲食、大声、談笑、撮影、凧揚げ、ボール遊び、遊戯などだ。こんなことまで禁止する必要があるのだろうか。
比較的理解し易いのは楽器とダンスだ。多分、大音量でのダンスを規制したいのだろう。しかしこんなルールでは盆踊りやギターの練習もできない。むしろ「大音量」とすべきではないだろうか。
遊戯禁止は理解不可能だ。これでは公園は通過するためにしか使えない。ただの空き地であって公園とは言えない。
飲食禁止も不可解だ。缶コーヒーを飲んだり、ベンチで弁当を食べるぐらいなら構わないだろう。多分、宴会や酒盛りを禁止したいのだろうが本末転倒ではないか。
公共施設でも図書館なら閲覧数や利用者数などの評価尺度がある。だから公共サービスの向上という意識が働く。公園には事故数や苦情といったマイナスの尺度しか無い。だから禁止条項ばかりが増える。
公園は市民の憩いの場だ。作ればそれで完了する訳ではなく有効に活用されることが大切だ。プラス思考ではなくマイナス思考だから禁止条項ばかりが増える。いっそのこと入場禁止・立入禁止にしてしまえと言いたくなる。そうすれば世界一安全な公園になれる。
禁止しても罰則は無いのだから、ルールを守るのは行儀の良い人だけだ。そうでない人は無視する。禁止だらけにしても秩序は保たれず、善良な市民が不便を強いられるだけだ。明らかな迷惑行為であればこんな禁止条項など無くても規制できるのだから、何とも馬鹿げたルールだ。
アメリカのグランドキャニオンでは毎年10人近くの人が死亡事故に会うそうだ。それでも立入禁止にならないのは自己責任という理念が根付いているからだろう。これが成熟社会であり、日本の公園管理は小学校の校則のような低レベルな発想だ。公務員の知的レベルの低下と責任逃れ体質の深化の現れだ。
大阪に住んでいた頃、近所の公園で、ある日突然キャッチボールが禁止された。多分、事故があったのだろう。これくらいなら納得できる。しかし段々エスカレートして訳の分からない禁止が増えている。ネットで調べれば呆れるような禁止条項が沢山見つかる。漫才の練習、楽器、ダンス、スポーツ、飲食、大声、談笑、撮影、凧揚げ、ボール遊び、遊戯などだ。こんなことまで禁止する必要があるのだろうか。
比較的理解し易いのは楽器とダンスだ。多分、大音量でのダンスを規制したいのだろう。しかしこんなルールでは盆踊りやギターの練習もできない。むしろ「大音量」とすべきではないだろうか。
遊戯禁止は理解不可能だ。これでは公園は通過するためにしか使えない。ただの空き地であって公園とは言えない。
飲食禁止も不可解だ。缶コーヒーを飲んだり、ベンチで弁当を食べるぐらいなら構わないだろう。多分、宴会や酒盛りを禁止したいのだろうが本末転倒ではないか。
公共施設でも図書館なら閲覧数や利用者数などの評価尺度がある。だから公共サービスの向上という意識が働く。公園には事故数や苦情といったマイナスの尺度しか無い。だから禁止条項ばかりが増える。
公園は市民の憩いの場だ。作ればそれで完了する訳ではなく有効に活用されることが大切だ。プラス思考ではなくマイナス思考だから禁止条項ばかりが増える。いっそのこと入場禁止・立入禁止にしてしまえと言いたくなる。そうすれば世界一安全な公園になれる。
禁止しても罰則は無いのだから、ルールを守るのは行儀の良い人だけだ。そうでない人は無視する。禁止だらけにしても秩序は保たれず、善良な市民が不便を強いられるだけだ。明らかな迷惑行為であればこんな禁止条項など無くても規制できるのだから、何とも馬鹿げたルールだ。
アメリカのグランドキャニオンでは毎年10人近くの人が死亡事故に会うそうだ。それでも立入禁止にならないのは自己責任という理念が根付いているからだろう。これが成熟社会であり、日本の公園管理は小学校の校則のような低レベルな発想だ。公務員の知的レベルの低下と責任逃れ体質の深化の現れだ。