俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

遺言

2014-11-12 10:14:15 | Weblog
 時々とんでもない遺言状のために親族が仲違いすることがあるそうだ。そんな場合、親族で話し合って別の結論を出しても良いのではないだろうか。遺言を遺した人は既にこの世にはいない。この世のことに関してはあの世の人よりもこの世の人が優先されるべきだろう。
 これは遺言ではないがこの言葉を覚えている人は少なくなかろう。「死んだら(ゴッホの「ガジェ博士の肖像」を)棺桶に入れてもらうつもりだ。」という発言があった。大昭和製紙の齊藤了英相談役の発言だ。世界中から非難されたのでこんな蛮行は行われなかったが、もしこんな類いの遺言であれば無視すべきだろう。それどころか私なら、香典の代わりに小切手か手形を棺桶に入れたいと思っている。
 認知症には様々な症状がある。記憶力の衰えだけではなく判断力が歪むことも少なくない。嫁を泥棒扱いする姑は少なからず妄想に冒されており、そんな人の遺言状であれば不公平極まりないものになるだろう。そんな遺志を尊重すべきとは思えない。
 心優しき日本人は故人の遺志を尊重しようとする。最期の思いを叶えたいと考える。しかし故人とはもうこの世にはいない人だ。化けて出ることもできないのだから故人の遺志に振り回されて不幸になる必要は無かろう。シェークスピアの「リア王」のように晩節を汚す老人は決して少なくない。怒りで我を忘れて本意とは異なる遺言状を書いてしまうこともあり得る。最早意思を確認できない死んだ人よりも今生きている人のほうが大切だ。相続が「争族」に繋がることもあるらしいが、死んだ人と心中する必要はあるまい。死んだ人には視覚も聴覚も無いのだから、草場の蔭から見守ることもできない。

外因と内因

2014-11-12 09:39:11 | Weblog
 病気には外因と内因がある。典型的な外因性の病気は感染症だ。病原体が体内に入ることによって発病するのだから感染さえしなければ病気を防げる。しかし内因性の病気ならいくら隔離しても発病する。先天性異常や生活習慣病などがそれだ。癌は外因と内因の相互作用だろう。
 医学の進歩は外因性の病気の克服に依るところが大きい。外因性の病気に対してなら科学的に対処できる。しかし内因性の病気には殆んど無力であり、むしろ食生活などの改善のほうが有効だろう。
 精神病の治療法の現状はどうなっているだろうか。医学系の精神医学と心理学系の心理療法に大別できる。前者は精神病を脳の病気と捕え薬を使って治療する。後者は心の病気と捕えカウンセリングなどによって改善を図る。言い換えれば前者はハード、後者はハート(ソフト)とし、前者は内因、後者は外因とする。
 鬱病であれば、前者は脳のセロトニン不足を原因としてセロトニンが脳から出る量を抑えようとする。後者は原因を生活上の問題に求めそれに適切な対応をすることによって克服しようとする。前者は科学主義、後者は心理主義と位置付けられる。
 ここに奇妙な捻じれがある。医学が有効なのは本来、外因性の病気だ。ところが精神病においては内因性とした上で薬物療法を行う。医学が得意とするのは病原体に対する対応なのだがこの手法は精神医学では使えない。だから医療効果の無いあの劣悪な対症療法に頼ることになる。治療することではなく不快な症状を緩和することだけが目標となる。しかし症状の緩和は治療ではない。下痢止めや痛み止めなどに治療効果は無い。例えば怪我をした時に痛みを感じなくしても傷は放置されるから傷口からは血が流れ続ける。
 精神医学において現代医学の欠陥が露呈する。原因を解決せず只管症状を緩和しても治療には繋がらない。対症療法は一時凌ぎに過ぎない。原因に対処するという意味では心理療法のほうが遥かにマシだろう。和田秀樹氏のように精神医学よりも心理療法を高く評価する精神科医も少なくない。
 鬱病などの軽度の精神病患者が増え続けている。生活習慣病の患者も増え続けている。感染症以外に対しては殆んど無力な現代医学に対する誤った信頼が医原病を増やしているように思える。