俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

電車

2015-09-03 10:22:35 | Weblog
 最近、首都圏では電車のトラブルが相次いでいる。これは首都圏住民にとっては大変な迷惑だ。人々が怒るのは当然だ。しかし彼らの不幸は大したことではない。99%の電車が正常に運行されているからだ。電車を利用する権利さえ持たない地方人と比べれば特権階級のようなものだ。
 もし都会の隅々にムービングウォークがあり地方には無ければ人々はどう思うだろうか。地方の住民はインフラの格差に憤るだろう。電車とは低価格で利用できるムービングウォークのようなものだ。電車に乗れば早く正確に快適に、しかも安全に移動できる。地方の住民は電車を利用する権利を奪われている。
 企業側にとって、そんな理屈は通らない。過疎地に電車を走らせても空気を運ぶようなものであり採算が合わない。ヒグマしか通らない道路が無駄遣いであることと同様、大量移送交通機関である電車は人口密集地でしか成立し得ない。
 事業者の理屈はよく分かる。しかし権利としてはどうだろうか。教育を受けたり電気やガスや水道を利用する権利は地方でも同等だ。電車を利用する権利だけが奪われている。こんな地域格差を容認する差別的な施設など禁止すべきだ、などと馬鹿なことは言わない。不遇の人が厚遇されている人の幸福を妬んで邪魔をすべきではなかろう。しかしせめて税金によって埋め合わせても良いのではないだろうか。電車税を新設してその分、地方在住者の住民税を軽減しても良かろう。電車というインフラを利用できない地方の住民は納税において多少優遇されても構わないのではないだろうか。ムービングウォークにも等しいインフラの無い田舎の住民にそれぐらいの損失補償があっても不公平ではなかろう。
 電車が無いことのデメリットは都会人の想像を絶する。事故で不通になった時の不便さを思い起こせば少しは理解できるだろう。その不通の状態が1年中持続すると考えれば絶句するだろう。
 都会人の生活圏は広い。大阪に住んでいた頃は大阪市内全域は勿論、京都も神戸も生活圏だった。それほど電車による移動は楽で快適だ。
 私は滅多に違法行為など行わないが、飲酒しての自転車の運転だけはしばしばする。都会人なら飲酒して電車に乗っても構わないのにその代替交通手段である自転車では違法であることに納得できない。電車の乗客は事故に遭うことなど殆んど想定しないが、自転車や自動車であれば被害者になるだけではなく加害者になる恐れもある。電車を利用できないことが権利の喪失であることを都会に住む議員に理解させたいものだ。

雑文

2015-09-03 09:44:28 | Weblog
 学ぶべきことが沢山あり過ぎる。一日中勉強してもまだ足りない。だからこんな雑文など描いている暇があればもっと勉強すべきだとも思う。
 書く理由は2つある。1つは、世間には余りにも多くの誤った情報が溢れており、自分として正しいと思うことを伝えたいからだ。特に酷いのは医療だ。何度も記事にしていることだが、命を預かる最も重要な科学の筈の医療がオカルトに冒されている現状は許し難い。医学は実験が許されないから科学のレベルを保つことは難しい。しかしオカルトのレベルにまで堕ちるべきではない。
 もう1つは自分のためだ。ぼんやりと考えていると案外、不確かな根拠に基づいていることが少なくない。酒の席での雑談ならともかく、文章として定着させるからには、データに基づいているか、その出典は何か、などを調べる必要が生じる。調べた結果考えがひっくり返ることもある。書くために調べることを通じて自分の考えの正誤を検証できる。
 時には思わぬ発見もある。先日「自律神経」という記事を書く際、足の動きを意識したムカデは足が絡んで歩けなくなる、という寓話を紹介しようとして、出典と思っていた「荘子」を読み直した。意外なことに似た話はあったがそのものズバリの話は無かった。ネットだけではなく毎日新聞まで荘子の寓話として紹介しているがこれは子引き・孫引きによるデマの拡散だったようだ。正しい出典はマザーグースだった。
 最近シルバー民主主義の危険性を痛感するようになったのは大阪都構想の記事を書いてからだ。最初はなぜ否決されたのかという疑問だった。次のステップはなぜ70代以上の反対票だけが極端に多かったのかという分析に至った。この過程で、シルバー民主主義が次世代に対する搾取であることに気付かさせられた。
 孔子曰く「学びて思わざれば即ち罔(くら)し。思いて学ばざれば即ち殆(あやう)し。」しかし書くためには考えて更に調べる。私の場合は、考えるから知識を求め、知識を得れば更に考える。思考と知識は相互に刺激し合って高まろうとする。学べば考え、考えれば知識を求める。知恵のスパイラルが自然に生じる。考えるほど自分の無知に気付くものだろう。思い付くだけではなく、更にそのことについて調べて初めて考えるというレベルに到達できる。無知に基づくユニークさは独創性ではない。