俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

採決(2)

2015-09-20 10:24:43 | Weblog
 私が大学生の頃、誰もが反体制派だった。反体制のほうが進歩的であり格好良いと無邪気に信じていた。ところが反体制派は内部分裂を繰り返した。まず代々木系と反代々木系、つまり日共系と非日共系に分かれ、新左翼の側では「革命的共産主義者同盟(通称『革共同』)」が「革マル派」と「中核派」に分かれて凄惨な内ゲバを繰り返した。これが後の「連合赤軍」事件と共に、学生を政治活動から離反させる大きな要因となった。
 「反○○」は易しい。完璧な制度などあり得ないのだから、欠点を針小棒大に騒ぎ立てるだけで簡単に否定できる。「反○○」は小学生程度の知的レベルでもそれなりに主張できる。難しいのは何を肯定するか、だ。「反○○」で集まっても建設的な案が欠けていれば烏合の衆に過ぎず、結局内部分裂を繰り返すことになる。
 私は子供の頃から多数決という仕組みに大きな不満を持っている。これだけは何とかして克服したいと思うのだが、「未来の人も含めた多数決」以外にこれといった代案も無く、これを支持してくれる人も殆んど皆無だ。だから取り敢えず多数決に従わざるを得ない。
 それだけに多数決を支持する立場に立つべき政治家が多数決を否定する行動を取ることを容認できない。「強行採決」という言葉は日本にしか無いらしく外国人はこの言葉を理解できないそうだ。採決とは民主的な手法であり採決を否定することこそ反民主的と考えるのだろう。実際の話、多数決を否定すれば民主主義は機能しなくなる。
 「憲法違反の安保関連法案は何としても阻止する」と一部の政治家は主張する。しかしこれは越権行為だ。憲法違反かどうかを決める権限は政党や政治家には無く、司法が握る重要な権限だ。勝手に違憲と決め付けて審議や採決の妨害をすることは、容疑者に対するリンチのようなものであって許容できない。暴力やセクハラ行為を誘導するような姑息な手段など使わずに紳士的に粛々と採決を終えたほうが、自民党のの悪辣さを浮き彫りにできただろう。そうすればその後の参院選や法廷闘争においても国民の賛同を集められただろう。法案の是非はともかく、与党の議会運営は概ね民主主義のルールを尊重して謙虚であり、野党の形振り構わずいじめや子供っぽい嫌がらせのような採決妨害のほうが遥かに見苦しかった。「どっちもどっち」と言われるような闘い方は下策だろう。
 採決の否定は民主主義の否定だ。一部の学者が違憲として訴訟を起こす準備を始めているようだが、これは政治家が中心となってやるべきことだろう。足尾鉱毒事件における田中正造氏のように法廷闘争を通じて歴史に名を残した政治家もいる。民主主義の国に民主主義を否定する政治家は要らない。

事実

2015-09-20 09:35:42 | Weblog
 事実は価値が高く理念は価値が低い。なぜなら事実は存在するが理念は実在しない。事実には事象性(現実性)があるが理念には可能性しか無い。こんな「現実主義」にはうんざりする。彼らが偶然に基づく事実と必然的な事実を区別しないからだ。
 宝くじで3億円当てた人がいる。アガリクスで癌から快復した人もいる。株で大儲けした人もいる。これらは総て偶然だ。奇跡ではない。
 圧倒的に多くの人は宝くじで損をし、アガリクスで癌は治らず、株では儲けたり損をしたりする。こちらのほうが圧倒的に多い。
 稀にしか起こらないことを根拠にして「これこそ真実だ」と騒ぎ立てる人は「可能性」の意味を理解していない。起こったことは総て必然であり起こっていないことは総て空想だと考える人は誠実性を欠いている。こんな人が例外的事例を根拠にして騒ぎ立てる。起こる筈の無いことも起こり得るし、起こるべきことが起こらないこともあり得る。
 起こったことは事実であることが証明されていると言う人は、多数の事実から都合の良い事実だけを抽出している。確かに宝くじで3億円当たった人はいる。しかし当たらなかった人のほうが圧倒的に多い。当たった少数派に目を向けるのと同等に外れた多数者にも注目すべきだろう。沢山の当たりくじを売った売場は同時に沢山の空くじ(多・空くじ)を売った売場でもある。当りにばかり注目するから評価が歪められる。
 火傷をした子供は火を怖がる。確かに火は怖い。しかし必要なことは適切に怖がることだ。過剰に怖がるなら恐怖症という病気であって治療が必要だろう。
 人は様々な経験をする。その経験に対する評価に基づいて価値観が作られる。稀な事実が過大評価された時、歪んだ価値体系が築かれる。人は皆嘘つきだ・・・何人中何人が嘘つきだったのか。悪人しか出世しない・・・何人中何人が悪人で、そもそも悪人の定義は何か。
 日米戦争の原因は様々に解釈できる。軍部の暴走、帝国主義の激突、領土拡張主義、白人支配の否定、マスコミと国民の好戦気分など無数にある。私はルーズベルト大統領による挑発を第一と考えるが、どれにせよ好き勝手に価値評価をしているだけだ。事実の分析の前に結論があることも少なくない。
 既に起こった事実は無数にある。その総てが等価値である訳ではないし、稀な事実が高価値とも思えない。「人が犬を噛んだ」という事実が「犬が人を噛んだ」という事実よりも重大とは到底考えられない。そんな歪んだ評価をするのはマスコミだけだ。情報の価値は重要性×可能性によって評価されるべきだろう。