俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

採決

2015-09-17 14:02:09 | Weblog
 国会議事堂が「採決堂」になっていることは嘆かわしいが、採決さえできないのであれば国会そのものの存在価値さえ無くなるのではないだろうか。
 安保関連法案は多分違憲だろう。しかし採決さえさせないということは憲法以前の問題であり、民主主義の根幹に対する造反だ。どうせ可決されることが分かっているのだから愚かなパフォーマンスなどに終始せずさっさと可決させて法廷闘争に切り替えたらどうなのだろうか。司法には法案の審査権は無く、法として成立して初めて違憲立法審査権を行使できる。力尽くで阻止するような野蛮な方法ではなく、憲法に基づいて合法的に廃案にすべきだと私は考える。
 司法が違憲と判断するとは限らないから力尽くで阻止しなければならない、という理屈は通らない。法の番人は司法であり、与党であれ野党であれ立法府は司法判断に従う義務がある。司法の権威を無視して自分達の主張を正当化することなどできない。それは驕り以外の何物でもなかろう。
 多数決は不完全なシステムだ。しかし幾ら不完全で不合理な仕組みであろうと、代替案が無い以上これに従わざるを得ない。選挙という制度があってこれで選ばれた議員だけが議決権を持つ。これを否定することは選挙制度の否定であり民主主義の否定でもある。彼らはデモ隊同士で殴り合って決めろとでも言いたいのだろうか。
 その点、橋下市長は潔かった。「いやぁ~、負けちゃいました」とは言わなかったものの、政治生命を掛けた大勝負で惜敗しても一言も文句を言わなかった。それどころか自らの主張を否定した民主主義を絶賛した。
 日本の政治家は民主主義とは何であるかを1から学び直すべきではないだろうか。維新の党の議員も含めて、採決阻止に血眼になっている野党の議員全員に、橋下市長の爪の垢を煎じて飲ませたいものだ。

信頼

2015-09-17 10:33:17 | Weblog
 北関東で大洪水が発生した原因は線上降水帯だが、ここまで被害が拡大した原因は何だろうか。2つあると思う。1つは特別警報の発令が遅かったことであり、もう1つは住民も市役所も特別警報を軽視したということだろう。特別警報が遅れただけではなく、それを受けて発令すべき避難勧告も避難指示も後手に回った。特別警報はこれまでに5度出されたがどれも大した被害は無かった。2014年8月に三重県に出された時も空振りだった。私は伊勢市の住民だが、元々騒ぐほどの雨ではなかったし、雨が止んでからしばらくたっても特別警報は解除されなかった。空騒ぎに終わったから不信感が残った。
 これまでに5度も空振りをしたことから住民は特別警報を警戒しないし、気象庁はこれ以上失敗を繰り返したくないと考える。だからこそもっと早く発令すべき特別警報が遅れたのではないだろうか。間違いを反省することは重要だが告知する勇気もそれに劣らず重要だ。
 もしかしたらデタラメな地震予知を繰り返して反省しない地震学者と同列にされたくないという思いもあったのかも知れない。こんなことでまともな研究者が萎縮するなら、贋学者や彼らの無責任な発表を垂れ流し続けたマスコミの罪は重い。
 イソップ寓話の狼少年の話は余りにも有名だが、偽物の本場・中国の歴史にはそれを地で行ったスケールの大きな実話がある。
 古代中国の周には褒似(ほうじ。正しい字はニンベンではなくオンナヘン)という絶世の美女がいた。夫の幽王は滅多に笑わない王妃の笑顔を見たいと願っていた。ある日、手違いで狼煙が上がった。諸侯は「すわ、一大事」と我先に駆け付けたが都には何事も無く平穏だった。この時、褒似は美しく微笑んだ。それを見た幽王は褒似の笑顔を見るために不必要な狼煙を上げ続けた。しばらくの間、諸侯は真に受けて駆け付けたが、褒似を笑わせるために集められていると分かって段々集まらなくなった。そんな時、蛮族の犬戎に攻め込まれた。ところが合図の狼煙を上げても諸侯は集まらなかった。こうして周は滅んだ。
 信頼を失えば国でさえ滅ぶ。関係者の信頼を得ることはどんな組織・個人にとっても重要だ。しかし信頼を得ようとして慎重になり過ぎればそのために信頼を失うということもあり得る。空振りを恐れてスイングを小さくしても打率が上がるとは限らない。

肯定

2015-09-17 09:52:27 | Weblog
 先日「還付」という記事で珍しく肯定する立場で書いたが、やはり肯定は否定よりも難しいと痛感した。生半可な知識でも否定はできるが、肯定するためには豊富な知識が必要だ。執筆するための準備時間は他の記事の何倍も要した。還付制度やマイナンバー制度の仕組みを充分に理解しなければこの記事は書けなかった。
 8%への増税は退職後のことだったが、初めての導入時でも5%への増税時でも、私は仕事上かなり積極的に取り組んだ。だから消費税の裏も表もかなり詳しく知っていると思っている。
 否定することは易しい。完璧な制度など無いのだから小さな不備を針小棒大に騒ぎ立てるだけで可能だ。合成保存料の有害性を騒ぐ人の大半は明らかに勉強不足だ。碌に調べもせずに誤った知識に基づいて批判する人が少なくない。
 私は代案無しに反対する人を信じない。反対する人こそ建設的であるべきだ。文句を言うだけではなくどうすれば良いかを具体的に提示してそれよりも劣るということを根拠にして反対すべきだろう。
 具体案に入る前に公明党の反対で廃案になりそうな雲行きになって来たが、消費税の還付という仕組みは帳簿方式を採用している日本型消費税制の元では最も合理的な軽減税制度だと思う。これを簡略化した定額還付制でも良いと思う。これを否定するなら代替案を提示すべきだ。どんな貧しい人にも「平等に」課税する悪税である消費税の廃止を考慮しなければ、多分2種類の案しかあるまい。軽減税を諦めるか、ヨーロッパのようなインボイス(伝票)制への変更か、だ。この3択でどれが一番マシかを議論すべきであって、代替案も無いままに完全な制度ではないからと否定するのは駄々っ子のようなものだ。財務省案の還付上限額4,000円に問題があれば5,000円や6,000円の案と比較すれば済むことだ。マイナンバーカードとの連動も必ずしも必須ではあるまい。これらは根本的な問題点ではない。ぶっ壊せばあとは何とかなるという考え方は余りにも楽天的かつ無責任だ。
 たまたまニュージーランドの国旗変更の是非を問う国民投票が2度に分けて行われることを知ってその仕組みに感心した。1度目では新国旗の案の人気を問い、2度目で初めて現行国旗との優劣を競うとのことだ。まず対案を決め、それから初めて変更の是非を問うところに成熟した民主主義を感じた。日本なら、現行の国旗の是非を問うか、複数の案のままいきなり多数決に持ち込んでしまうだろう。賛否の前に対案を一本化することは理に適っている。
 オリンピックの開催地の決定方法も単純な多数決ではない。最下位だった候補地から順番に外してどこかが過半数を獲得するまで投票を繰り返す。単純な多数決ではなく工夫が加えられている。
 日本における言論の自由は責任免除とセットにされている。この長所を否定する気は無いが、このために言論が無責任になって暴言・放言が横行している。反対することが愚痴であってはならない。建設的でない反対意見など有害無益なだけだ。