俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

2015-09-15 10:26:00 | Weblog
 先日のバンコクでの爆破テロ事件について12日の朝日新聞は「ウイグル続関与か」という見出しで報じた。私は朝日新聞は中国贔屓だと思っているがこの見出しは酷い。まるでウイグル族がテロリスト集団であるかのように誤解させかねない表現だ。
 新疆ウイグル地区の住民は中国共産党によって支配されており自由な政治活動は困難だ。だからダライ・ラマ14世を精神的指導者と仰ぐ人が少なくないチベット族とは違ってウイグル族としての意思表示は難しい。
 バンコクでのテロに参加したのは一部の跳ね返りだけであり民族の総意である筈が無い。この記事は見出しだけではなく記事においても「ウイグル族がテロに関与した可能性が高まった」と書いており、ウイグル族が組織的に犯罪に加担したかのような表現だ。こんな見出しは「中国関与か」と同じようなものだ。勿論正確には「中国人関与か」だが、国を持たないウイグル人にとって「ウイグル族」は全体を意味する。もし「クルド族参戦」という表現があればそれは決して「一人のクルド人」ではなく「共通の政治的目的を持った多数のクルド人」という意味だろう。同様に「ウイグル族」は「ウイグル人」とは違ってそれなりの集団か全体を指す。国を持たない民族に対する配慮が欠けている。
 私は朝日新聞を定期購読している。散々非難している新聞を購読しているのは決してアラ探しをしたいからではなく読み易いからだ。朝日新聞は特定の情報についてのみ歪んでいるから、そのことさえ知っていれば補正することは易しい。夜に起こった事件であれば、朝日ならこう書くだろうと予想して、翌朝そのとおりであることに大笑いすることもある。
 朝日新聞の記事は概ね正確だ。多分、他紙以上だろう。憲法9条と中国と韓国と北朝鮮と橋下市長など以外では妙なバイアスが掛かっていないと思っていたが、ウイグル族などを含むムスリム(イスラム教徒)にも偏見を持っているのだろうか。
 7日の朝日新聞名古屋本社版の朝刊には少なからず驚かされた。どうでも良い作り置き記事がトップだったからだ。官公庁が休みの日曜・祝日明けの朝刊は作り置き記事が少なくないが、この日の「政党交付金 人件費で飲食」という記事は酷かった。事件性も新鮮さも全く無く、匿名の元秘書やら元議員やらの談話が羅列されているだけだ。到底トップを飾れるレベルではない。多分当初予定していた記事がボツになったために急遽穴埋めに使われたのだろうが、どんな記事がボツにされたのかのほうが興味深い。こんなolds≠newsで誤魔化すよりは真っ当なニュースで埋めて貰いたいものだ。

決壊

2015-09-15 09:44:37 | Weblog
 今回の北関東の大水害で、線上降水帯という言葉を初めて知った。2つの低気圧が左右を通過すればラッキーと思うところだがそうではなかった。両側を低気圧に挟まれれば線上降水帯が発生する。低気圧は左回りの渦だ。2つの渦に挟まれれば大気の衝突が生じる。2つの独楽がぶつかれば接点でエネルギーが生じるが低気圧は個体ではなく渦だから接点ではなく接線になる。これが線上降水帯だ。
 堤防の決壊がこれほど恐ろしいものだとも思っていなかった。何もかも飲み込む濁流を見てあの東日本大震災の大津波を思い出して恐怖を感じた。
 こんな時にふと不謹慎なことを考えた。今回は東側が決壊したからこそ西側は無事だったのではないだろうか。つまり川岸の両側では利害が対立すると思える。対岸が決壊すれば自分の側は安全になる。両岸を守れるならそれがベストだろうが、両岸の決壊という最悪のケースもあり得る。どちらかを意図的に決壊させるという選択は可能だろうか。
 福島第一原発での事故時のベントについてこんな噂がある。東京を守るために南風が吹くのを待っていたという噂だ。東京を守るために東北を犠牲にすることは許されるだろうか。
 10人を守るために一人を犠牲にすることは通常許されない。犯罪における緊急時だけが例外だ。人質を取った凶悪犯に対する狙撃は認められている。それ以外であれば11人全員を守ろうとしてそのためにたとえ10人が犠牲になってもやむを得ないとされている。つまり成行き任せが是とされ積極的な行動は奨励されていない。
 倫理学ではこんなことが問われている。人通りの多い交差点の直前で自動車のブレーキが利かないことに気付いた。直進すれば大惨事になるが、左折すれば歩道の歩行者に、右折すれば他の自動車にぶつかる。運転者はどうすべきだろうか?
 直進して大勢の歩行者を跳ね飛ばすことが最も安易な選択だ。事故の原因はブレーキの故障であると、自分も他人も納得する。逆にハンドルを切ったほうが責任を問われることになりかねない。仮に横断中の10人を救ったことになってもそのために数人を「殺した」ということになるからだ。更に悪いことには、救われた10人には救われたという自覚が無いから感謝されることも無い。加害だけがクローズアップされる。
 こういった究極の選択は議論が回避され勝ちだが予め考えていなければいざという時に最悪の選択をしてしまいかねない。
 利害が対立する時に全員が納得できる解決策はあり得ない。多数決で決めるべきとも思えない。しかし放置して最悪の結果を招くことだけは避けるべきだろう。一般論は難しいが、究極の選択を回避して成行き任せにすべきとは思えない。