台風は必ず通過する。だから一定期間耐えていれば問題は解決される。しかし一年中吹き荒れる場所に住むためには全く違った対策が必要だ。地下に都市を築くようなことまで考える必要が生じる。
日本は四季に恵まれている。冬に耐えれば春になり、夏に耐えれば秋を迎える。気候の問題は時間が解決する。このことが日本人の精神風土になってしまった。困った生徒がいれば卒業するのを待つ。理不尽なクレイムにも詫びて鎮めようとする。問題は先送りする。このように、雄々しく立ち向かうことよりも波風を立てないことが美徳とされた。しかしこんな対応が有効であるのは一過性の問題の時だけだ。放置すれば拡大する類いの問題に対処するための方法ではない。
人体には自然治癒力が備わっている。だから医師はその場凌ぎをしていれば良かった。咳が出れば咳止めを、頭痛があれば鎮痛剤を処方していればその内、自然治癒力が働いて健康になる。日本の医師はそれが治療だと思っている。だから老化に対しても同じように対応する。関節痛には痛み止めを、便秘には下剤を処方する。しかしこんな対症療法では治療できない。老化には自然治癒力が働かないから、薬が無ければ生活できない薬物依存症患者を大量に作り出すことになる。現在の老人の大半が薬漬けになっているのは医師がデタラメな治療をするからだ。薬漬けになれば当然その副作用に苦しめられる。
薬は「楽にする草」と書く。元来は薬草の意味だ。しかし楽にすることには二種類ある。完治することと苦痛を感じなくすることだ。この全く異なる二者が今尚、区別されていない。傷口を塞がないまま痛み止めを処方するような愚行が横行している。究極の対症療法はモルヒネ中毒だろう。痛みも苦しみも感じないまま命を失う。
老人の膝の痛みに有効なのは鎮痛剤ではなくリハビリだ。膝の軟骨は擦り減る一方であり手術しない限り改善されることは無い。しかし膝の周辺の筋肉を鍛えることなら老人にも可能だ。筋肉がクッションの役割を果たせば膝の機能が回復する。
一過性でない病気の治療こそ真の医療だ。老化や先天性異常などに一時凌ぎは通用しない。苦痛を緩和するだけの対症療法ではなく、治療をする医療が必要だ。リハビリ以外に食生活の改善や軽スポーツなどが有効だろう。但しこれらは医学ではない。医師は病気についてしか学んでおらず健康については何も知らない。医学(=病気学)ではなく「健康学」こそ必要だ。
日本は四季に恵まれている。冬に耐えれば春になり、夏に耐えれば秋を迎える。気候の問題は時間が解決する。このことが日本人の精神風土になってしまった。困った生徒がいれば卒業するのを待つ。理不尽なクレイムにも詫びて鎮めようとする。問題は先送りする。このように、雄々しく立ち向かうことよりも波風を立てないことが美徳とされた。しかしこんな対応が有効であるのは一過性の問題の時だけだ。放置すれば拡大する類いの問題に対処するための方法ではない。
人体には自然治癒力が備わっている。だから医師はその場凌ぎをしていれば良かった。咳が出れば咳止めを、頭痛があれば鎮痛剤を処方していればその内、自然治癒力が働いて健康になる。日本の医師はそれが治療だと思っている。だから老化に対しても同じように対応する。関節痛には痛み止めを、便秘には下剤を処方する。しかしこんな対症療法では治療できない。老化には自然治癒力が働かないから、薬が無ければ生活できない薬物依存症患者を大量に作り出すことになる。現在の老人の大半が薬漬けになっているのは医師がデタラメな治療をするからだ。薬漬けになれば当然その副作用に苦しめられる。
薬は「楽にする草」と書く。元来は薬草の意味だ。しかし楽にすることには二種類ある。完治することと苦痛を感じなくすることだ。この全く異なる二者が今尚、区別されていない。傷口を塞がないまま痛み止めを処方するような愚行が横行している。究極の対症療法はモルヒネ中毒だろう。痛みも苦しみも感じないまま命を失う。
老人の膝の痛みに有効なのは鎮痛剤ではなくリハビリだ。膝の軟骨は擦り減る一方であり手術しない限り改善されることは無い。しかし膝の周辺の筋肉を鍛えることなら老人にも可能だ。筋肉がクッションの役割を果たせば膝の機能が回復する。
一過性でない病気の治療こそ真の医療だ。老化や先天性異常などに一時凌ぎは通用しない。苦痛を緩和するだけの対症療法ではなく、治療をする医療が必要だ。リハビリ以外に食生活の改善や軽スポーツなどが有効だろう。但しこれらは医学ではない。医師は病気についてしか学んでおらず健康については何も知らない。医学(=病気学)ではなく「健康学」こそ必要だ。