俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

植物

2015-11-11 10:43:28 | Weblog
 フレミングの最初の発見は、鼻水が多くの細菌を殺すということだった。彼は鼻水の中の殺菌成分によって感染症を克服できると考えて熱心に研究を続けたがこの研究は全く役に立たなかった。鼻水の成分によって除去できるのは人にとっては無害な細菌ばかりだったからだ。
 しかしここで一度立ち止まって、人にとって無害な細菌という意味を考える必要がある。それは本当に無害なのではなく、人類に備わっている免疫力によって克服できる細菌と捕えるべきではないだろうか。人に備わっている体液によって駆除できるから無害なだけであり、本来は有害であるものが大半だろう。
 現在無害である細菌とは実は最も有害であった細菌ではないだろうか。その細菌を克服するために人類は進化した。より正確に記せば、その細菌に対する免疫力を持たない個体は死滅し、たまたまその免疫力を持つ個体のみが生き残ったということだ。(以下のこの記事では不正確になることを承知の上で擬人的表現を使う。正確に表現しようとすれば余りにも冗漫になってしまうからだ。)医療では多剤耐性菌が問題になっているが、人類は既に多菌耐性を備えている。だからこそ免疫力が低下した状態、例えば後天性免疫不全症候群(エイズ)を患った患者はエイズそのものではなく、通常であれば発症しないカリニ肺炎やカポジ肉腫といった奇病によって命を失う。
 多くの薬が植物や菌類から発見された。ペニシリンは青カビから、アスピリンは柳の樹皮に含まれるサリシンから作られた。なぜ自然界に薬の原料があるのか?細菌から身を守るためだろう。細菌によって滅ぼされないために植物が獲得した殺菌力が人類にとっての薬として役立つ。
 植物にとっての敵は細菌だけではない。草食動物こそ最大の敵だ。食べられないために植物は様々な進化をした。例えば奈良公園のイラクサは独自の進化を遂げて毒性のあるトゲを持ち、このことによって鹿に食べられることを防いでいる。多くの植物は虫に食われると自然農薬を合成してそれ以上食べられないように防御をする。だから虫食い状態の無農薬野菜を有難がるべきではなかろう。たとえ人工農薬がゼロでも内部が自然農薬まみれになっているかも知れない。
 果実の役割は全く違う。果実は動物に食べられるために作られる。勿論、植物が利他的である訳ではない。実を種子ごと食べた動物が他の場所で排泄することによる拡散を目論んでいる。だから種子は容易に消化されないように固い殻を被っている。
 種子は植物の生命の源だ。種子から植物が生まれるのだから卵と同様生命のエッセンスが凝縮されている。水さえあれば発芽・成育できるほどの栄養素も含まれている。貴重な種子が消化されては困る。だから様々な防衛策を講じる。クルミのように固い殻を持ったり栗のようにイガを持ったりする。堅牢にして食べても消化されないようにすることが一般的だが、中にはアーモンドやトマトの原種のように毒を持つという進化もある。動物とは違って動いて逃げることができない植物は生き延びるために非常に様々な戦略を採用している。動物の生存戦略は逃げるという最も有効な戦略に特化してしまっているが、それをできない植物の多様な生存戦略から我々は多くのことを学べるだろう。

保守

2015-11-11 09:46:52 | Weblog
 敗戦で価値観が転覆した日本には2種類の保守主義者がいる。戦後民主主義を信奉する人と戦前までの日本文化を懐古する人だ。
 保守的な人の価値基準は単純だ。現在自分が持っている価値観を極端に信頼する。だから自分とは違った意見を間違った意見と考える。保守的な人は頑固だが、戦後民主主義の信奉者と比べれば、懐古的な人のほうが少しだけ融通が利く。それは戦後の価値観によって否定された経験があるからだ。この経験があるから自らの価値観を絶対とは考えない。ベストではなくベターと位置付ける。どうしようもないのはゴチゴチの戦後民主主義者だ。
 保守的な人は議論が下手だ。議論の前に既に結論があるから議論をしても少しも深まらない。そもそも彼らは議論とディベートの区別さえできない。ディベートとは相手を説き伏せることだ。お互いに知恵を出し合って考えを高める議論とは全く別の代物だ。
 ややこしいことに戦後民主主義の鬼っ子が革新を標榜している。確かに敗戦直後であれば「封建的な」戦前の価値観に対して革新的ではあったが、今では学校で習った低レベルな価値観を盲信している幼稚な人々だ。学校で「民主主義が正しい」と教わったから何でも多数決で決めようとする。
 議論が成立しなければ民主主義も成立しない。民主主義とは異なった意見の存在をお互いに認め合った上で妥協をすることによって成立する。ところが相手の意見を初めから否定していれば議論にならない。だからこそすぐに多数決に頼ろうとするが、多数決ほど少数者の意見を封殺する非民主的な手法は無かろう。
 真に革新的な人は自分の意見に対しても革新的だ。だから違った意見を喜んで聞き、今の自分を維持することよりも今よりも優れた自分に成長することを望む。不思議なことだが、世界の5大聖人【釈迦、孔子、ソクラテス、イエス、マホテット(ムハンマド)】は誰一人として著述せず、弟子達による伝聞書のみが継承されている。これらの真に革新的な人々は今の自分以上に優れた自分を常に想定していたからこそ、今の自分の考えを固定化すべきではないと考えたのではないだろうか。映画の巨匠・黒澤明監督は、代表作を尋ねられると必ず「次に撮る作品です」と答えたそうだ。現状に満足しない高い向上心こそ偉人の証しだろう。