俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

主役

2015-11-19 10:24:44 | Weblog
 自分にとっては常に自分が主役だ。しかし社会においてはそうではない。多くの場合、脇役に甘んじなければならない。このことに納得しない人がいる。主観と客観が一致しない時、2つの対応策がある。主観を客観に合わせることと、客観を主観に会わさせようとすることだ。前者は正常な対応だが後者であれば様々な無理が生じる。
 見栄を張ることによってそれは幾らか満たされる。自分を実際以上に重要な人物に見せ掛けてそれによって生じた誤った評価を自分で信じる。主役であると他人に信じさせてそれを自分でも信じて満足する。
 悪いことをするのも1つの方法だ。周囲を不安にさせたり心配させたりすることによって存在をアピールする。男性なら大抵の人が小学生の時に、好きな女の子に意地悪をした経験があるだろう。これは無関心よりも嫌われるほうが存在感を示せるからだ。多くの不良少年が「学校に居場所が無かった」と言うが、これは学校では存在感を示せなかったという意味だろう。
 ツィッターなども自己顕示の場として利用される。犯罪に近い行為を自撮りして投稿する。注目されることによって主役になった気分を味わう。子供に煙草を喫わせてその動画を投稿する馬鹿な親もいた。
 私はよく知らないが最近は「かまってちゃん」と呼ばれる人もいるそうだ。周囲が自分に関心を持ち続けなければ我慢できない人らしい。
 これらは発達障害の一種だろう。乳幼児は世界を自分対その他として知覚する。快いものは良く不快なものは悪い。その内、自分の外の世界が自分の意思とは無関係に動くことに気付く。それを認めようとせずに自分の意のままにしようとする人がいる。願望と事実が乖離しても事実よりも願望を優先しようとするから狂った行動を選択することになる。朝日新聞は事実よりも願望を優先しようとしたからこそ「従軍慰安婦の強制連行」というマスコミ史に残る大誤報をしてしまった。いつからか知らないが、朝日新聞は「従軍慰安婦」という言葉を単に「慰安婦」という表現に変えていたらしい。これはその時点で既に記事を疑い始めていたからだろう。願望に引き摺られていなければもっと早く事実に基づく報道に修正できていただろう。
 自分にとって自分が主役であるのは当然だ。しかし他人にまでそれを押し付ける理由は無い。自分にとって自分が主役であることが未来永劫変わらないように、他人がそれぞれ自分を主役と思うことも他人の勝手だ。

科学

2015-11-19 09:46:54 | Weblog
 科学であるためには再現が可能でなければならない。リンゴが落ちるかどうかについては議論によってではなく実験によって検証される。しかしこんなことが可能なのは単純な事象を対象とする場合に限られる。地球環境であれ地震であれ食物や薬の有効性・有害性であれ、複雑過ぎて実験による再現は不可能だ。再現不可能なことを科学にするために様々な工夫が凝らされたが殆んどが似非科学になってしまった。
 因果が曖昧な場合、統計に基づく相関関係が利用される。しかし統計的事実を羅列しても科学にはなれない。「リンゴは90%落ちる」ではなく「リンゴは100%落ちる」が科学であって、落ちない10%を解明する必要が生じる。因果を解明しないままでの90%有効な医療は科学とは呼べない。
 科学であるためには客観的かつ再現可能でなければならない。こんな前提が却って偽科学に繋がる。パソコンばかりを見て患者を診ようとしない医師もいるらしいが、検査数値だけに頼ることを科学的だと勘違いしている。医師が注意すべきことは検査数値には現れない患者の状態だ。患者の顔色を気にしない医師でも、もし顔色判定機によって顔色が数値化されるならその数値を気にするようになるだろう。全く本末転倒だ。
 ネットでも話題になっている過剰釣り銭に出会った。91円の商品を買って101円出したところ、店員が妙にモタモタしていた。レジの表示を見れば釣り銭910円となっていた。101円を間違えて1,001円と入力したから変な釣り銭が表示された。私は「お釣りは10円」と言った。機械に頼るからミスに気付かない。こんな店員が9万円以上のお釣りを渡すような馬鹿な仕事をするのだろう。
 たとえ機械が正確であっても入力を間違えれば誤った答えが出る。科学には普遍妥当性があっても偽科学は嘘まみれだ。数値化できないことを無視するようでは医師として失格だ。
 無理矢理科学を装うことなど不必要だ。実験によって検証できない医療は元々科学たり得ない。基礎医学は科学たり得るが臨床医学は科学ではない。科学では対応できない複雑な事象に対しては、科学に還元しようとせずに「ありのままに」捕えることのほうがむしろ科学的な姿勢だ。
 根本的な間違いは、数値化すれば客観的かつ科学的になると思い込んでいることだ。科学の本質は正確な因果性の把握であって数値化することではない。これが科学に対する大きな誤解だ。
 実は科学と哲学は相性が良い。それは科学が元々は「自然哲学」というジャンルだったからだ。近代科学の創始者とも言われるニュートンはカント以前の自然哲学者だ。カント哲学によって理性の限界が示されたが、ニュートンは総てが単純な法則に集約される、つまり神の定めたルールに従うと信じていた。哲学において、分からないことを分からないと認めることが重要であるように、科学や医学においても数値化できない情報を見逃さないことこそ重要だ。