自分にとっては常に自分が主役だ。しかし社会においてはそうではない。多くの場合、脇役に甘んじなければならない。このことに納得しない人がいる。主観と客観が一致しない時、2つの対応策がある。主観を客観に合わせることと、客観を主観に会わさせようとすることだ。前者は正常な対応だが後者であれば様々な無理が生じる。
見栄を張ることによってそれは幾らか満たされる。自分を実際以上に重要な人物に見せ掛けてそれによって生じた誤った評価を自分で信じる。主役であると他人に信じさせてそれを自分でも信じて満足する。
悪いことをするのも1つの方法だ。周囲を不安にさせたり心配させたりすることによって存在をアピールする。男性なら大抵の人が小学生の時に、好きな女の子に意地悪をした経験があるだろう。これは無関心よりも嫌われるほうが存在感を示せるからだ。多くの不良少年が「学校に居場所が無かった」と言うが、これは学校では存在感を示せなかったという意味だろう。
ツィッターなども自己顕示の場として利用される。犯罪に近い行為を自撮りして投稿する。注目されることによって主役になった気分を味わう。子供に煙草を喫わせてその動画を投稿する馬鹿な親もいた。
私はよく知らないが最近は「かまってちゃん」と呼ばれる人もいるそうだ。周囲が自分に関心を持ち続けなければ我慢できない人らしい。
これらは発達障害の一種だろう。乳幼児は世界を自分対その他として知覚する。快いものは良く不快なものは悪い。その内、自分の外の世界が自分の意思とは無関係に動くことに気付く。それを認めようとせずに自分の意のままにしようとする人がいる。願望と事実が乖離しても事実よりも願望を優先しようとするから狂った行動を選択することになる。朝日新聞は事実よりも願望を優先しようとしたからこそ「従軍慰安婦の強制連行」というマスコミ史に残る大誤報をしてしまった。いつからか知らないが、朝日新聞は「従軍慰安婦」という言葉を単に「慰安婦」という表現に変えていたらしい。これはその時点で既に記事を疑い始めていたからだろう。願望に引き摺られていなければもっと早く事実に基づく報道に修正できていただろう。
自分にとって自分が主役であるのは当然だ。しかし他人にまでそれを押し付ける理由は無い。自分にとって自分が主役であることが未来永劫変わらないように、他人がそれぞれ自分を主役と思うことも他人の勝手だ。
見栄を張ることによってそれは幾らか満たされる。自分を実際以上に重要な人物に見せ掛けてそれによって生じた誤った評価を自分で信じる。主役であると他人に信じさせてそれを自分でも信じて満足する。
悪いことをするのも1つの方法だ。周囲を不安にさせたり心配させたりすることによって存在をアピールする。男性なら大抵の人が小学生の時に、好きな女の子に意地悪をした経験があるだろう。これは無関心よりも嫌われるほうが存在感を示せるからだ。多くの不良少年が「学校に居場所が無かった」と言うが、これは学校では存在感を示せなかったという意味だろう。
ツィッターなども自己顕示の場として利用される。犯罪に近い行為を自撮りして投稿する。注目されることによって主役になった気分を味わう。子供に煙草を喫わせてその動画を投稿する馬鹿な親もいた。
私はよく知らないが最近は「かまってちゃん」と呼ばれる人もいるそうだ。周囲が自分に関心を持ち続けなければ我慢できない人らしい。
これらは発達障害の一種だろう。乳幼児は世界を自分対その他として知覚する。快いものは良く不快なものは悪い。その内、自分の外の世界が自分の意思とは無関係に動くことに気付く。それを認めようとせずに自分の意のままにしようとする人がいる。願望と事実が乖離しても事実よりも願望を優先しようとするから狂った行動を選択することになる。朝日新聞は事実よりも願望を優先しようとしたからこそ「従軍慰安婦の強制連行」というマスコミ史に残る大誤報をしてしまった。いつからか知らないが、朝日新聞は「従軍慰安婦」という言葉を単に「慰安婦」という表現に変えていたらしい。これはその時点で既に記事を疑い始めていたからだろう。願望に引き摺られていなければもっと早く事実に基づく報道に修正できていただろう。
自分にとって自分が主役であるのは当然だ。しかし他人にまでそれを押し付ける理由は無い。自分にとって自分が主役であることが未来永劫変わらないように、他人がそれぞれ自分を主役と思うことも他人の勝手だ。