俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

中間子

2014-01-21 10:09:32 | Weblog
 中間子と言っても素粒子論について書くつもりではない。長子・末子に対する中間の子供という意味だ。平均兄弟数が2未満になった現代では中間子は少ないが昔は兄弟姉妹が多かった。私は4人兄弟の次男だ。
 中間子には世界中で共通した特徴があるらしい。家族に対する愛着が少ないそうだ。これは生育環境に起因するようだ。親は長子を大切にする。初めての子供だから小さな兆候にも気を配る。もし長子と次子が同時に病気になれば長子をより手厚く看護するだろう。それまでの投資が多いだけに長子を失うことによる損失のほうが大きいからだ。
 末子も大切にされる。猿であれば乳離れが遅くなる。次の子がいなければ慌てて乳離れをさせる必要は無い。人間においても乳離れが遅くなり長期間大切に保護されるだろう。
 中間子は冷遇される。同性の兄か姉がいれば服の大半がお下がりだ。家庭内での立場は上からも下からも圧力を受ける中間管理職のようなものだ。居心地は余り良くない。中間子はこのことを恨む訳ではない。家族とはそういうものだと信じるだけだ。
 こういった事情から家族に対する愛着は弱くなりその分、社会に対して積極的になる。つまり家庭的であるよりも社会的になる。こんな中間子は家庭を持つことに対する関心は乏しい。私が生涯独身であるのは中間子であったことも一因だということに今頃になって初めて気付いた。
 家庭を持った中間子はどう振舞うだろうか。概して家族に冷淡であるように見えるのではないだろうか。それは決して薄情だからではない。彼または彼女にとって家庭とはそういうものであったから彼(女)が正常と考えるベタベタしない関係を築いているだけだ。このことを中間子の一人として釈明したい。

選挙

2014-01-21 09:38:57 | Weblog
 戦国時代の日本では戦争によって事の是非が決められた。戦争をして勝ったほうが正義だった。しかし暴力によって正邪を判定することは不当だ。こんなやり方を現代人は野蛮だと考えるが必ずしも不合理とは思えない。
 関ヶ原の戦いを考えて欲しい。各大名も武将も徳川に付くか豊臣に付くかを必死で考えた。自己責任で選択をしてその勝敗結果に従った。これは言わば命懸けの投票だ。現代の選挙ではこんな覚悟は無い。増してや無記名投票だ。間違った投票をしても責任を問われることは皆無だ。
 選挙と比べて戦争は必死だ。支持するために命を賭ける。軽い気持ちで戦争を行うことはできない。戦争は命懸けであるし経済的損失も大きい。戦争を決意することは実に大変なことだ。
 戦争の代わりに選挙を行うことによって負担は大きく軽減された。しかし軽減され過ぎたのではないだろうか。
 中東ではスンニ派やシーア派などが争う。これを投票による多数決で決めても少数派は納得しない。徹底抗戦しようとするのは当然のことだろう。投票は質を問わない。必死の1票も軽い気持ちの1票も同じ1票だ。必死の訴えであることを知らしめるためには過激な行動を選ばざるを得ない。自爆テロなどのように過激であればあるほどその本気さが伝わるからだ。
 タイのインラック政権による農民優遇策は国を破綻させかねないほどの悪政だと私は考えている。人口の6割を占める農民に対する歪な優遇策は政府による農民買収にも等しい。なぜかマスコミは反政府勢力が「買収だ」と非難をしてもその言葉の意味を掘り下げようとはしないが、かなり極端なポピュリズム政治だと思う。
 スンニ派かシーア派かとか農民か非農民かといった対立軸を煽っても問題は解決しない。二者択一は問題を拗らせるだけだ。多数者の側は対立構図を使って少数者を抑圧しようとするものだ。
 軍主導だという理由から日本では評判が良くない今月18日のエジプトでの憲法改正を私は支持する。「宗教に基づく政党の結成禁止」という条項によって調整不可能な宗派対立を否定しているからだ。こんな荒療治でもやらないことには多数者と少数者による利権争いが政治の軸になってしまう。

シャケ弁

2014-01-19 09:31:32 | Weblog
 料理の虚偽表示に関して、16日に消費者庁がガイドライン案を発表した。これを読めば昨秋の偽装騒動の大半が、消費者庁のいい加減さとマスコミによる勇み足だったことが分かる。
 私も何度か指摘したことだが、今頃になってようやく消費者庁は解凍した魚を鮮魚と認めた。遅過ぎる。解凍した魚を鮮魚と表示したことを偽装だとして騒ぎ立てたマスコミは名誉棄損として罪を問われるべきだと思うのだが、多分誰も告訴しないだろう。下手に騒ぎを起こせば報復されかねないからだ。これだから官公庁とマスコミは付け上がる。
 今回のガイドライン案で「サーモントラウトを鮭と表示してはならない」とされたことに多くの人が疑問を持ったのではないだろうか。そもそもサーモントラウトとは一体何なのだろうか?salmonは鮭でtroutは鱒だから直訳すれば「鮭鱒」ということになるがそんな魚はどこに棲んでいるのだろうか。
 元々鮭と鱒は厳密には区別できない。どちらもサケ科の魚で、川を遡上すれば鮭、淡水で一生を終えれば鱒と呼ばれているだけだ。サーモントラウトとは海水で養殖されたニジマスのことらしい。つまり人工的にサーモン化された鱒ということだ。これを鮭と呼ぼうが鱒と呼ぼうがどちらでも構わないだろう。
 そもそも偽装とは、実際よりも良いものであるかのように誤解させることなのだから、「天然鮭」と表示しない限りは偽装ではなかろう。大衆魚の鮭に妙な規制など要らない。こんな変な理由でシャケ弁をマス弁に呼称変更させるなら消費者の利益に背く。消費者庁と名乗りながらその実態は消費者と向き合ってはおらず自省庁の責任回避だけを考える前近代的なお役所だ。今後この延長として、ニホンウナギ以外を鰻と認めないとか輸入シシャモをカペリンと呼べなどと言い出したら迷惑なだけだ。無益な規制などして欲しくない。むしろ役立たずのままでいてくれるほうがマシだとさえ思える。

自己評価

2014-01-19 08:56:34 | Weblog
 自己評価は至難の業だ。自分のことは自分が一番分かっていると考えるのは大間違いだ。人間の知覚は外に向かっており自分を知覚することは難しい。
 目は自分の手足などなら見えるが顔を見ることはできない。鏡を使えば見られるがそれは自分を見ている顔だ。意識しない自分を見るためにはカメラなどが必要だ。
 自分の声を直接聞くこともできない。レコーダーで自分の声を初めて聞いた人は、思っていた声と余りにも違うことに驚く。
 自分の匂いも分からない。ニンニク料理を食べた人は自分の息が臭いということに気付かない。靴を長時間履けば足の匂いが知覚できるがこれは必ずしも自分の匂いとは言い難い。
 他人の唾液の味なら分かるが自分の唾液の味は分からない。
 触覚ならある程度、自分を知覚できる。自分の肌触りもそれなりに分かる。しかしこれも他者が感じる肌触りとは別のものだろう。自分をくすぐってもくすぐったくないし、マッサージは他人によって施されてこそ快い。女性は乳房を自分で揉むよりも揉まれたほうが快感を覚えるらしい。
 知覚が外へ向かっている以上、自分を知るためには他人の知覚に頼らざるを得ない。自己評価は他者に依存することになる。
 カントは知覚に依存しない内省こそ真のものと考えた。知覚によって得られる知識は「物自体」ではなく「現象」に過ぎないからだ。しかし内省はゼロから組み立てられるものではなく経験に基づくだけに、これは知覚さえできないことを知覚を超えたものとする過大評価だろう。
 歩きスマホをする人や柔軟剤の匂いをバラ撒く人は自分が周囲に迷惑を掛けていることに気付かない。周囲から指摘されて初めて気付く。自分が正しいと信じていることが誤っていることはしばしばあるのだから他者による忠告は有難く拝聴すべきだろう。人の振り見て我が振りを直せるとは限らない。悪意に基づかない迷惑行為は決して少なくない・

晩節

2014-01-17 10:05:29 | Weblog
 細川元首相の東京都知事選立候補は全く不可解だ。選挙だから誰が立候補しても構わないが「正気か?」と疑いたくなる。当初の15日から今日(17日)に延期されていた出馬表明会見は20日に再延期されたがまさか「やっぱりや~めた」ではあるまい。そう疑いたくなるほど奇妙な立候補だ。疑問点は主に2つ。①借入金問題②反原発だ。
 ①借入金・・・・ブラックジョークとしか思えない。5000万円の借入金問題で辞任した前知事の後任に、1億円の借入金問題で辞任した元首相が立候補することは100%笑い種だ。
 その問題が発覚したのは1993年のことだった。熊本県知事に就任する前年の1982年に東京佐川急便から1億円借金していたことが発覚した。猪瀬前知事は何とか説明しようと努めて失敗したが、細川氏は説明責任を果たさず政権放棄をしたと私は記憶している。30年以上前に起こり20年以上前に発覚した事件だからもう時効だろうが、事情が事情だけに袋叩きに会うのは必然だ。一体どう説明するつもりだろうか。恥晒しにしかなるまい。もし細川氏に知事になる資格があるのなら猪瀬前知事は辞職する必要など無かったということになるだろう。
 ②反原発・・・・反原発をスローガンにして立候補するなら東京都知事選ではあるまい。国会か福島県か、原発銀座の福井県、あるいは熊本県の隣で原発所在地の鹿児島県で立候補すべきだろう。東京で反原発を主張して何ができるのだろうか。「日本の中心で愛を叫ぶ」だけのパフォーマンスならやめて貰いたい。
 「原子力発電」や「原子力発電所」などでも書いたように、私は東日本大震災以前から地震による危険性を指摘していただけに、大衆迎合型の無見識な反原発は不愉快だ。
 政界を去って20年間、陶芸家として活躍していたそうだが、なぜ今更、政界に復帰するのだろうか。漫画のような話であり週刊誌のネタにしかならない。もう手遅れかも知れないが、かつてのヒーローが晩節を汚すべきではない。殿、ご乱心召されるな!

弱い動物

2014-01-17 09:33:41 | Weblog
 人類はかなり弱い動物だ。一般の市民が服も靴も無くジャングルに放り出されたら一日も生きられないのではないだろうか。すっかり温室育ちの虚弱体質になっている。
 では屈強な兵士ならどうなるだろうか。多分、自力で槍などの武器を作ってしばらくは生き延びるだろう。それでも猛獣に襲われたら一溜りも無い。
 こんな弱い動物が地上に蔓延しているのは文明の恩恵以外の何物でもない。文明は蓄積される。蓄積された文明の上に個人は乗っかっている。個人はちっぽけな存在なのに巨人の背中に乗っかっているから大きいだけだ。
 ではなぜ文明は蓄積されるのか。共有されるからだ。知恵を独り占めするよりも共有したほうが進歩する。ある道具を大勢で使えば様々な改良が施されるだろう。発明は苦手でも改良なら得意という人が大勢いるからだ。トヨタのカイゼン活動のようなことが自然に起こる。
 助け合ったり知恵を共有する集団は、助け合わず知恵を独り占めする集団よりも強い。他の集団との競争だけではなく環境の変化に対する適応力も高い。無人島で生き延びられるのは助け合う集団だけだろう。人類は弱い動物だからこそ共有したり助け合うことが欠かせない。そういう性質が本能的に備わっている。
 人類の本質は群居動物だ。群居動物だからこそ悪意も善意も連鎖する。シリアなどのような内紛の国ではお互いに悪意を持つ。日本のような平和な国では善意の連鎖が起こる。誰かによる善意が次の善意へと繋がる。
 群居動物としての本能は概して有益なものだが、異質なものを排除する時には危険なものに変質する。劣ったものだけではなく優れたものも少数者として排除され勝ちだ。助け合う群居動物は美しいが、異端者を排斥しようとすることは群居動物の大きな欠陥だ。ナチスによるユダヤ人虐殺も中国での少数民族弾圧も異質なものを嫌う群居本能に基づく。多数決も群居本能の現れだ。この欠陥は長所と表裏一体だ。

内紛

2014-01-15 10:09:34 | Weblog
 タイでは内紛が続いている。デモ隊はインラック首相の辞任を要求している。日本ではその背景が殆んど報じられないのでただの暴動と思われ勝ちだが、どうやらコメが原因らしい。
 昨年の夏頃までは報じられていたコメの高値買取制度が問題だ。正確にはこれはコメを担保にした融資制度だ。ところが融資額がコメの市場価格よりも高いために多くの農民が返済をせず、担保にされたコメを政府が大量に引き取ることになり作夏の時点で2000万tもの在庫になっていたらしい。高値のコメは輸出競争に耐えられず、前年は世界シェアの29%を占めていた輸出量が2012年には17%にまで激減して、それまで31年間続けていたコメ輸出量世界一の座を明け渡すことになった。これは国家経済の危機だ。
 この奇妙な政策の狙いは貧しい農家を支援して貧富の格差を縮小しようという崇高な目的とされているが、人口の6割を占める農民に対するバラ撒き行政とも思える。だからバンコク市民は怒っている。これは農村と都市の利害対立だ。しかし6割を占める農民票があるから選挙になればインラック政権が負けることは無い。
 多数決の矛盾がモロに出ているためにマスコミはこのことに触れようとしないのだろうか。6割の農民と4割の非農民の利害が対立した時に6割を占める農民の利益が優先されるのが多数決だ。しかしそれが明らかに国益に背いているためにタイの経済は大混乱に陥っている。
 中東ではシーア派とスンニ派などによる権力争いがある。多数派が権力を握れば少数派は冷遇されるから内紛になる。
 アフリカでは部族間対立が深刻だ。旧植民地単位で独立国となったために、習慣も言葉も異なる複数の部族が1つの国を構成する。多数決で多数者が権力を握れば排斥される少数者は独立運動を起こすだろう。
 中国では漢民族が9割を占める。仮に多数決によって民主的に決めてもチベットやウィグルの意向は反映されない。
 多数者が権力を握るという仕組みは大きな矛盾を抱えている。多数決とは多数者が少数者を犠牲にして利益を独占するシステムだ。

正しい知識

2014-01-15 09:35:35 | Weblog
 今更「知は力なり」と言うつもりは無い。しかし「無知は悲惨」ということは確実だ。最も惨めなのは何と言っても、宗教に騙された殉教テロリストだろう。イスラム教の原理主義者に騙されて、天国に行けると信じて自爆した人もまた哀れな犠牲者だ。誤った信念に基づいて、他人を不幸にするために命を捨てることほど愚劣な行為は無かろう。
 間違った信念に基づいて生きることは虚しい。キリスト教徒を殺せば天国へ行けると信じたテロリストだけではなく、将来ガマガエルに化けるオタマジャクシに恋するアマガエル、性欲は悪と信じて自ら去勢を選ぶ男、自分の性器の醜さに絶望する少女、ハルマゲドンを信じてサリンをバラ撒いた狂信者、薬が毒物であることを知らずに薬を飲みすぎて医原病に罹る人、あの世で一緒になれると信じて心中する恋人達、不味くて不衛生な食材をわざわざ高値で購入する人。これらは皆、誤った知識の犠牲者だ。私は彼らを悼む。無知は不幸の源だ。
 人は人生に意味を求めたがる困った動物だ。実は意味など無い。両親が交尾をしたから生まれただけであり必然性も意味も無い。意味も目的も無く生まれたのだから意味は後付けになる。後付けをするなら最もマシな意味付けが最良であり、偽りの意味付けが最低だ。嘘に基づいて生きることが最低の人生だ。
 嘘に基づいて快適に過ごせるならそれも良かろう。しかし嘘に基づいて不快に生きるなら惨めだ。まやかしの宗教を信じて隣人と争わねばならないことは不幸だ。こんな人が世界中に溢れ返っている。
 「人生には意味が無ければならない」と考えることは個人の自由だ。私はそんな人を咎めようとは思わない。しかし「これこそ真理であり誰もがこれを信じねばならない」と言い出したら相手にしたくない。主観的判断を客観的事実と混同することは最早狂気に近い。

不老

2014-01-13 13:30:59 | Weblog
 アンチエイジングとして行われていることの大半は「若く見せる」ということに過ぎない。これは大変な間違いだ。大切なのは若く見せるということではなく若くある=老化を遅れさせる、ということだ。
 健康そうに見せるよりも健康であること、賢そうに見せるよりも実際に賢いことのほうが重要であることに誰も異存は無かろう。アンチエイジングにおいてはこんな常識が忘れられている。
 ケネディ大使のシワの多さは非常に目立つ。母親のジャクリーヌ譲りの美貌であるだけに余計に惜しまれる。大半のアメリカ人ならアンチエイジング治療を行うだろうが敢えて行わないのは彼女がその有害性を知っているからだろう。ホルモン療法によって肉体的にも精神的にも若返る効果があるらしいがそれによって癌の発症率は顕著に高まるそうだ。
 ドーピングをすれば一時的に身体機能を高めることができる。しかしそれによって選手生命だけではなく生命そのものをも危険に晒すことになる。カンフル剤は所詮一時的な効果でしかなく、長期的に使用すれば悪影響のほうが大きくなる。
 健康のために重要なのは栄養と運動と休養だろう。薬や化粧品は有害物だ。「持つ(have)」ことよりも「である(be)」ことのほうが重要だが、これらと比べて「であるように見せる」ことの価値は遥かに低い。虚栄のために人は何と多くの無駄遣いをしていることだろうか。

失われた歴史

2014-01-13 13:11:10 | Weblog
 1940年にこんな「欧州新経済秩序」が発表された。「ヨーロッパの通貨を統一して金本位制から脱し、ヨーロッパ域内のヒト・モノ・カネの移動を自由にする。」
 これはユーロの先駆だ。ユーロの理念を半世紀以上も前に世界に発信したのは、なんとナチスだった。
 ナチスにはしばしば驚かされる。こんな素晴らしい政策があったのか、と。そうでなければ第一次世界大戦の敗戦国が僅か25年で最強国になれる筈が無い。
 我々はナチス=悪という図式で教えられている。だから悪いことしかしなかったと思い込んでいる。しかし国際経済政策に関しては、戦後にアメリカを中心にして築かれてその後破綻したブレトンウッズ体制よりもナチスの政策のほうが遥かに優れていたことは歴史が証明している。アメリカが金本位制を放棄した「ドルショック」は1971年のことだ。
 私は大日本帝国の歴史を殆んど知らない。これから勉強しようと思っている。なぜ文明から取り残されて資源にも恵まれない極東の島国が僅か半世紀で先進国の仲間入りをできたのか、私が持っている知識では理解できない。学校で教えられた歴史は「戦前の日本は軍国主義の暗黒時代だった」の一点張りだ。歴史に対しても是々非々の姿勢が必要だ。
 退職後の勉強で分かったことが少しだけある。最も「戦犯」の名に値するのは新聞社だということだ。新聞が大衆の好戦気分を煽ったから政治家も軍部も「民意」に逆らえなかったということだ。当時は今以上に政治思想が未熟だったために民主主義とポピュリズムを区別できなかった。「民意」は常に正しいとするのが当時の民主主義だった。
 新聞社による犯罪的行為を隠蔽するために新聞は自らの意思で言論を統制している。つまり戦前・戦中の歴史をファンタジーに変えている。中国・韓国と同様、新聞が伝える近現代史も史実ではなくファンタジーだ。なお当時最も好戦的だったのは朝日と毎日だったと言われている。