俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

○○コン

2014-01-11 10:16:59 | Weblog
 日本語には「○○コン」という言葉が非常に多い。これは英語にはconで始まる単語が多くその頭を使っているからであり紛らわしいこと限りない。例えば
 パソコン personal computer
 ゼネコン general constractor
 ボディコン body conscious
 ラジコン radio control
 エアコン air conditioner
 ロリコン Lolita complex
 オリコン Original confidence
 ミスコン Miss cotest
 カラコン color contact lens
 生コン   生 concrete
 合コン   合 company
 ざっと並べただけでもこんなにある。これらの「コン」が総て違う意味であることに呆れる。外国人にはさっぱり分からないだろう。実は私は最近まで「アイコン」をeye contactの略だと思っていたがiconだった。その一方で「糸コン」や「デキ婚」といった純然たる日本語もある。
 省略すれば便利だが時々困ることもある。ショッピングセンターの案内図でCD店のすぐそばにCDコーナーを見つけた時には驚いた。Compact DiscとCash Dispenserだった。CDは他にもChristian Diorや譲渡性定期預金、あるいは中日ドラゴンズの意味もある。
 AVも紛らわしい。一時期Audio-Visual(音響・画像)の意味で使われていたがAdult-Videoという言葉が登場したためにすっかり駆逐されてしまった。省略語は本当に紛らわしい。

抗生物質

2014-01-11 09:38:19 | Weblog
 「風邪は万病の元」という言葉は誤りだ。風邪をこじらせても重い風邪にしかならない。大体、風邪が他の病気に変質すると考えることはおよそ科学的ではない。コレラがコレラであるように風邪は風邪だ。感染症の原因は特定の病原体だ。
 こんな誤解が生まれたのは多くの感染症の初期症状が風邪の初期症状と似ているからだ。より正確には感染症に対する免疫反応が同じだからだ。発熱は病原体の活動を抑制し同時に免疫力を活性化する。体のだるさはそのことによって安静を促す。下痢は有害物を対外に排出するためだ。体は感染症に対して類似の反応をする。だから大半の感染症の初期症状は風邪の初期症状と似ている。
 風邪は細菌感染症ではなくウィルス感染症だ。だから抗細菌薬に過ぎない抗生物質は無効であり、副作用の危険があるだけだ。風邪に対する抗生物質は有害無益だ。栄養と安静こそが特効薬だ。
 インフルエンザもウィルス感染症だ。だから抗生物質は効かない。
 医師が抗生物質を処方するのは肺炎や結核などの可能性に備えるからだ。これらの細菌感染症はそれぞれ肺炎球菌や結核菌といった細菌が原因なので多くの場合、抗生物質が有効だ。しかしそんな患者は1割もいない。9割の患者にとって抗生物質は有害無益な物だ。
 もし肺炎や結核であれば経過を見守れば特有の症状が現れる。それから対処しても充分に間に合う。これらは決して風邪が悪化して肺炎や結核に変わった訳ではなく初めから別の病気だ。その病原体による初期症状が風邪と類似しているだけだ。
 ただの風邪に抗生物質を処方することは百害あって一利無しだ。欧米では国が、風邪に抗生物質を使わないよう指導している。日本の厚生労働省はこんな大切なことを怠っている。風邪の患者に抗生物質を投与することは、男性に対する子宮頸癌ワクチンのようなものだ。効果は全く無く、副作用の危険と医療費の無駄遣いがあるだけだ。

ぬるま湯

2014-01-09 10:16:18 | Weblog
 JP(日本郵便)の民営化後の「過酷な」業務が報道される度に呆れる。JPのぬるま湯体質、そしてそれをぬるま湯と感じない報道機関の姿勢は元民間企業人には理解できない。
 朝日新聞によると「配達の遅れが常態化している」のは「配達員の人手不足が理由」(どちらも8日付け朝刊)とのことだ。こんな馬鹿な理由を容認するのはなぜだろうか。一方には「官業」に対する甘やかしがあり、もう一方には郵政民営化に対する反発がある。JR北海道によるデタラメ営業を「人手不足が理由」と認める気だろうか。これほどまでに怠慢に対して寛大な記事は殆んど見たことが無い。
 「朝日新聞の調べでは(中略)少なくとも全国6ヶ所の郵便局でこうした実態が確認された」そうだ。たった6郵便局での怠慢を根拠にして郵政改革が誤りだったと決め付けるような論法は全く理解不可能だ。このわずか6局での怠慢ぶりをあたかもJPの欠陥であるかのように報じるのは非常識だ。
 JP社員の自爆営業も彼らのぬるま湯体質の現れだ。彼らほど換金し易い商品を扱っている事業者はいないだろう。だから正当な努力をせずに安直な方法で責任逃れをしているだけだ。
 宝石店の店長ならどうやってノルマを達成するだろうか。親類縁者は勿論のこと、あらゆるツテを使って正当な営業努力をする。彼らには自爆営業のような馬鹿な手法は使えない。金の地金ならともかく宝石の換金性は驚くほど低い。ノルマを達成するために自分で買っていればすぐに破産してしまう。だから地道な営業活動が絶対に欠かせない。JP社員に自爆営業が横行するのは、換金性が高いからわざわざ努力するよりも自分で買って横流ししたほうが楽だからに過ぎない。こんな甘ったれに同情する必要など全く無い。
 普通のことでも甘やかされた人には地獄と思えるだろう。こんな甘ったれ揃いだから公務員は金食い虫になる。努力を正当に評価する厳しい企業をマスコミはブラック企業と非難するが、そんな記事を書く記者およびそれを報じさせる上司はぬるま湯にどっぷりと浸かった甘ったれだ。

安全運転

2014-01-09 09:41:48 | Weblog
 交通ルールを守れば周囲も本人も安全だ。交通ルールを守らなければ周囲にとっても本人にとっても危険だ。交通ルールを守ることは社会のためであり本人のためでもある。
 当たり前のことをわざわざ書いたのはルールやしきたりが本来そういうものだからだ。ルールやしきたりは単に秩序を守るためだけではなく本人を守っていることが少なくない。暴走族のようにルールを破る人は他人にとって危険なだけではなく、自らを危険に晒している。
 本来ルールは共同体のためにある。つまり個人と社会の双方のために定められる。しかし作り方に問題がある。
 1個のケーキを二人で分ける場合、両者が少しでも多く取ろうとすれば争いになる。これを公平に分配する方法がある。一方が分割をして他方が先に選ぶ。こうすればどちらも文句を言えない。ところが現状はそうではない。最初からケーキを不公平に切ってそれを切った人が先に取る。これでは公平に分けられない。ケーキを割る人と選ぶ人は別であるべきだ。
 政治とは利益集団の対立だろう。集団の利益を守ろうとする人が法律を作ってもその集団のための法律であって国民のための法律ではない。司法が違憲立法審査権を持っているのは立法府の暴走を防ぐためだ。
 しかしそれでも不充分だ。政治資金規正法は「政治家の政治家による政治家のための法律」だ。違憲性は無いが抜け穴だらけの悪法だ。政治家を規制するための法律を政治家に作らせることが根本的に間違っている。違法にはならない脱法が初めから準備された欠陥法だ。こんな法律は国民審査を受けるべきだろう。
 

自爆テロ

2014-01-07 10:12:56 | Weblog
 自爆テロほど厄介な犯罪は無い。
 まず防ぐことが難しい。通常の攻撃であれば、必ず逃走経路を確保するのだが、彼らは逃走することなど全く考えていない。だから神出鬼没であって防ぎようが無い。
 普通の犯罪とは違って法律によって規制できない。法によって裁ける限界は死刑までなので、死んだ者を死刑に処する訳には行かない。イスラム教徒(ムスリム)は火葬を嫌うので死体を焼くという方法もあり得るが、これは憎悪の拡大に繋がる。
 テロリストは確信犯だ。自分が悪いことをしているとは全く思っていない。だから「良心」に訴えることもできない。
 イスラム教では聖戦(ジハード)で死んだ兵士は天国へ行けると信じられている。だから喜んで死ぬ。大日本帝国の特攻隊員は「靖国で会おう」と言い残したそうだが、本当に信じていた人は少なかろう。殆んどが嫌々死んだのだから彼らとは全然違う。当たり前の話だが特攻隊員はテロリストではない。彼らが襲ったのは軍艦などの軍事施設だけであり正当な軍事行動だ。民間人を無差別に攻撃するテロリストとは全然違う。むしろアメリカによる原爆投下こそ人道に背くテロリズムだ。
 宗教の最大の問題点は自分達だけが正しいと信じ込んでいることだ。だから違う信仰を持つ人は必然的に極悪人として位置付けられる。極悪人を殲滅することは神の意思を実現する崇高な行為であり無差別殺人でさえ肯定される。オウム真理教と同じだ。西洋人は認めたがらないがナチスによるユダヤ人虐殺はキリスト教徒によるユダヤ教徒虐殺だ。
 宗教組織が武力を持たないのは日本だけではないだろうか。しかしこれも自らの意思でそうした訳ではなく、織田信長によって強制的に武装解除させられたからだ。それまでは宗派間で殺し合っていた。現代社会でさえ政教分離は難しいのに、あの時代に「兵教分離」を実現した信長は稀有な英雄だ。
 日本人は世界で最も宗教から自由な民族だろう。やれ豚を食うな・牛を食うなとか断食せよとかいった妙な戒律に縛られないから寿命も長いのだろう。宗教とは本当に有害な存在だ。世界中が宗教を否定した時に初めて平和が実現するのではないだろうか。宗教こそ平和の敵だ。

ロシアン・ジョーク

2014-01-07 09:34:25 | Weblog
 ソ連時代にロシアではこんなジョークが流行ったそうだ。
 共産党幹部が工場長を呼び出して叱責した。
党幹部「先月も生産目標を下回った。何とかしろ。」
工場長「あと100人増員してください。」
党幹部「何だと!一体何人働かせるつもりだ。」
工場長「はい、せめて半分ぐらいは・・・」
 私は大笑いした。そしてこのジョークを作った人は天才だと思った。ジョークの解説ほどヤボで興醒めなものは無いがこの「せめて半分」というオチは凄い。たった一言で当時のソ連の社会矛盾を端的に表現している。
 党幹部の「何人働かせるつもりだ」は疑問文ではなく叱責文だ。「労働者を使い過ぎだ」と咎めている。それを疑問文と捕らえてしかも「働かせる」という言葉も本来の意味で使うから、大半の労働者が実は働いていないという事実がオチになっている。
 ソ連では資本家による搾取の無い労働者の天国が作られる筈だったのだが実際の社会は怠け者の楽園だった。働きたいだけ働けば充分という理念から生まれたのは「働かない自由」だった。「労働者の社会」ではなく役人天国だった。そのためにソ連での生産性は低くこのことが国民全体を貧しくさせた。これらのことをこんな短い文章を使って言論統制下で発信したのだから最高級のジョークだ。
 資本主義を賛美するつもりは無いが、現実に基づかない理想は得てして理想から懸け離れたとんでもない代物を作ってしまう。自然発生したものはそれなりに合理性を持つ。それを空虚な理想で否定すれば却って矛盾が拡大する。社会をリセットすることは難しい。
 明治維新は「尊皇攘夷」が当初の理想だったが、本気で攘夷をしようとした薩摩藩と長州藩は外国と戦って惨敗した。このことによって空理空論から目覚めて開国へと方針転換したからこそ明治維新は成功した。理想は現実によって検証されねばならない。

公共事業

2014-01-05 10:08:26 | Weblog
 ケインズは「雇用・利子および貨幣の一般理論」に「穴を掘ってそれを埋める仕事でも失業手当を払うよりも景気対策として有効だ」と書いた。あるいはこれは誰が言ったのか知らないが「ヘリコプターから現金をバラ撒けば景気は良くなる」という言葉もある。経済学をよく知らない私はこれらの言葉から経済学を馬鹿にしていた。ホモ・エコノミクス(経済合理性に基づいて個人主義的に行動する人間)という仮説と併せて経済学とは哲学以上に空理空論が横行すると思っていた。
 これは私の無知だった。後者はともかく前者のケインズの言葉には大切な前提条件が付いていた。「失業者が多い時は」と。つまりこれはあくまでカンフル剤だ。一時凌ぎの対策のことだった。
 医療も同じだ。人を切ったり毒物を飲ませたりすべきではない。しかし非常時はそうではない。内臓を切り取ったり薬=毒を飲ませたりする必要が生じる。たとえ有害なことであろうとも非常時には必要な措置だ。
 戦争は良くない。しかし必要な戦争もある。ナチス・ドイツが侵略を始めた時、イギリスは平和裏に解決しようとして介入しなかった。そのうちにドイツは侵略地から資源を獲得して強国になってしまった。そのためにイギリスは強国となったドイツと戦う破目になり第二次世界大戦を招いてしまった。
 悪政が許されるのは一時凌ぎに限られる。悪政を続ければ国が破綻する。大切な前提条件を無視して無駄な公共事業を続ければ国の借金は雪だるま式に膨らんでいずれは大増税が必要になる。
 ケインズの経済理論として「乗数効果」という言葉がある。収入を得た人が消費をすればそこに新たな収入が生まれるからその効果がさざ波のように広がるというものだ。
 しかし穴掘りと東海道新幹線を比べてみよう。穴掘りは付加価値を生まない。しかし東海道新幹線は巨大な付加価値を生んだ。仕事もレジャーも活性化された。無駄な公共事業は最小の乗数効果しか生まないが、有効な公共事業なら乗数効果を最大化することができる。
 無駄な公共事業は高齢者を狙った詐欺と大差は無い。詐欺でさえ乗数効果を生む。しかしこれを有効な経済活動と考える人などいまい。「ある」「ない」で評価すれば何であろうとも経済効果はある。大切なのはどれだけ大きな効果が生まれるかということだ。

シェールガス

2014-01-05 09:34:16 | Weblog
 シェールガスは最近発見された新しい資源ではない。昔からその存在は知られていたが採掘コストが高いために放置されていた。ところが原油価格が高騰したために充分に採算が合うようになった。
 原油の採掘の歴史はこんなことの繰り返しだ。50年前には原油の埋蔵量は50年分と言われていた。しかし50年経っても掘り尽くされていない。これも原油価格が上がったために、当時なら見向きもされなかった使い勝手の悪い油田が利用されるようになったからだ。
 海水には様々な資源が含まれている。金やウランやレアアースなどが含まれている。これらが利用されないのは濃度が薄いために抽出コストが高いからだ。もしこれらの資源の価値が高騰すれば海水からの抽出が現実になり海水が資源として重視されることになる。
 価格が上がれば徹底的な資源利用が行われるということを知れば、鰻の稚魚の問題のとんでもない矛盾に気付かざるを得ない。
 物の価格は需要と供給のバランスによって決まる。需要が変わらなくても供給量が減れば価格は上昇する。しかし価格が上昇し過ぎれば需要が減るのでバランスが保たれる。
 この理屈を鰻に当て嵌めればどうなるか。鰻の価格が上がれば蒲焼が売れなくなる。従って鰻の価格はどこかで安定する。ここまでは問題無かろう。
 しかし漁業(畜養)の現場では何が起こるか。鰻の価格は高止まりしているのだから獲った者勝ちだ。シェールガスと同様に、取得コストが多少上がってもより多くを捕獲しようとするだろう。高値安定が放置されれば最後の1尾まで取り尽されかねない。これでは資源保護という発想は生まれず、種の絶滅へと向かう。
 当分の間、鰻を食べることは自粛すべきだと思っている。しかし私は中国共産党や朴クネ大統領とは違って、自分の考え方を他者や他国にまで押し付けようとは思わない。他者や他文化を尊重すべきだと考える。しかしそんな甘い考え方では鰻の絶滅を防げないのかも知れない。日本人以上に自由の価値を充分に認識している筈のヨーロッパ人がクロマグロの漁獲量を規制しているのは、自由競争社会では少ない資源が一層乱獲されるということを知っているからだろう。

温暖化の真相

2014-01-03 10:01:37 | Weblog
 これまで地球温暖化について何度も書いたが、年頭に当たって整理しておこうと思う。論点は2つであり①温暖化の原因はCO2か②温暖化は危険か、だ。
 ①CO2・・・確かに地球の主要観測地での気温は上がっている。しかしこれらの観測地は殆んどが主要都市だ。東京・大阪などヒートアイランド現象によって高温化した場所が殆んどだ。ヒートアイランド現象の主因はCO2ではなくコンクリートとアスファルトと大量のエネルギー使用だ。これは数億年掛けて蓄積された石油・石炭などのエネルギーをこの100年間で一気に放出したことが招いた高温化だ。エネルギー保存の法則によってこのことは証明可能だ。CO2は原因ではなく結果だろう。
 ②危険性(1)・・・水位が上がるという話はかなり疑わしい。数度程度の上昇ならむしろ水位が下がる可能性のほうが高い。温暖化によって水蒸気の蒸発量が増えれば南極に降る雪が増えてこれが氷として蓄積される。
 ②危険性(2)・・・温暖化によって日本の農業が破壊されることはあり得ない。耕作地が北上するだけだ。リンゴやブドウの産地が北海道に移りパイナップルやバナナが本州で作れるようになるかも知れない。農業にとって恐ろしいのはむしろ寒冷化であって温暖化ではない。
 ②危険性(3)・・・異常気象の原因についてはよく分からない。私だけではなく専門家にも分からない。しかし巨大台風が増加するという話は眉唾物だ。と言うのも近年、巨大台風は日本に上陸しなくなっているからだ。私が子供の頃は伊勢湾台風や第二室戸台風のような巨大台風が数年おきに上陸したものだ。ところがこの数十年、巨大台風は上陸していない。50年前と比べれば台風による被害は減少している。事実に基づくなら日本は台風の被害を受けにくくなっている。マスコミがその事実を報じないだけだ。彼らは危険を煽れるネタにしか興味を示さず危機が減少していても無視する。

単純化

2014-01-03 09:31:33 | Weblog
 抽象化とは単純化だ。具体的な事物はそれぞれが異なっており比較することは難しい。ところが抽象化、特に数値化をすれば比較が簡単になる。こうすれば質の問題を量の問題に置換できるからだ。
 美女Aと美女Bのどちらが美しいかは幾ら議論をしても結論には至り難い。ところが採点してしまえば簡単に決まる。片方が80点でもう一方が90点であれば90点の勝ちだ。
 しかし数値化が有効とは限らない。もし楊貴妃の役にどちらを使うかとなれば尺度が変わる。数値化とは無意識のうちに行う偏った基準に基づいた評価に過ぎない。数値化は客観的なように装う歪んだ単純化だ。
 複雑なものを単純化しようとすれば歪めざるを得ない。立体を二次元で表現しようとして人類は大いに知恵を絞ったが、一次元で表現することは流石に不可能だ。数値化とはこれと同等の無茶な単純化だ。
 パスカルは「パンセ」で幾何学の精神と繊細の精神と分類した。現代の理系と文系の分類とほぼ等しい。パスカルは確率論の創始者でありパスカルの定理などの理科系の才能で知られているが、それだけではなく現代フランス語を確定したほどの名文家でもあった。
 私は理系と文系の発想の相違を単純化と複雑化と捕えることが多い。理系の発想では物事の本質を衝く単純原因で分析しようとするし、文系は微妙で繊細な問題と考えたがる。
 私のブログは二分法に対する批判のように単純化を咎める記事が多い。しかし単純化を誤りだと思っている訳ではない。
 単純化とは四捨五入のようなものだ。四捨五入で計算すれば楽になるが正確ではない。
 社会が単純化し過ぎていると思えばそれを否定するが、「ああでもない、こうでもない」と言い出したら私は「問題点はこれだ」と逆に単純化して主張する。幾何学の精神と繊細の精神は二者択一ではない。そのバランスを取ること、そして両者の長所を生かすことこそ大切だ。