俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

狭視眼

2015-04-22 09:40:27 | Weblog
 当事者には全体が見えなくなる。自分の傍にある小さな物は遠くにある大きな物よりも大きく見える。だから判断を誤り勝ちだ。たとえ自分にとっては重要な問題であっても、一歩離れて余裕を持って全体を眺めることが必要だろう。
 身辺に問題が発生すれば視野狭窄に陥ってそれ以外のものが見えにくくなる。失恋をすればそれだけで世界は灰色になる。現実世界が変わらなくても主観世界は灰色にしか見えない。
 歯や頭が痛い時、この苦しみから逃れるためなら何を犠牲にしても構わないと思う。もし痛みを消せるなら世界が滅んでも、悪魔に魂を売り渡しても構わないとさえ思う。だからこそ拷問は効果的だ。今、現に存在する痛みは未来の、つまりまだ存在しない苦痛よりも百万倍耐え難い。
 ドストエフスキーは「地下生活者の手記」で「何も無いよりは歯の痛みがあるほうがマシだ」と書いたが、こんな絶望感は「無」の苦しみを知り尽くしたドストエフスキーだからこそ書けることだ。神を失う恐怖と戦い続けたからこそ、神無き世界よりは邪悪な神が支配する世界のほうがマシだと考えたのだろう。私のような俗物はこんな境地には到達できそうにない。
 私は頻繁に医学批判をしているが、安易に医師を犯罪者扱いをする風潮には不満を持つ。群馬大学や神戸国際フロンティアメディカルセンターなどによる連続事故死事件は論外だが、まともな手術でも結果が悪ければプロセスまで悪かったかのように誤解され勝ちだ。患者が亡くなった責任が総て医師にある訳ではあるまい。検査での見落としは困るが根絶することは不可能だ。人はいつでも万全の体調でいられる訳ではない。ミスはあくまで過失致死であって殺人ではない。あの医師に殺されたという思い込みで起こされる医療訴訟は決して少なくない。
 もし誤診が犯罪であるなら誤審をした裁判官も犯罪者だ。時間的制約が厳しい医師と比べれば裁判官には充分な時間がある。それでも誤審があるのだから誤診は避けられない。裁判官はこのことを忘れるべきではない。
 産婦人科医が不足するのは訴訟の多さが原因と言われている。こんなことで産科医が減って一番困るのは当事者である妊婦だろう。怒りに駆られて産科医を攻撃することが医療の改善に繋がるとは思えない。むしろ医療崩壊を招きかねないと危惧する。

医療

2015-04-20 10:24:23 | Weblog
 私はカントによって独断の微睡みから覚醒した。それまでは理性の力を無限と考えていた。理性は一瞬にして無限の彼方や過去・未来へと飛翔できる神通力であり、理性によって時間と空間を超越できると信じていた。しかしこれはとんでもない思い上がりだった。お釈迦の手の平から飛び立つことさえできない孫悟空のように無力であることを教えられた。全面的に経験に依存する理性では経験を超えられないことが「二律背反」によって明らかにされた。経験を越えようとしても矛盾に陥るだけだ。
 哲学は理性の限界を知ることから始まる。できることに全力を注ぐことと、できないことについてはどこまでなら可能なのかを知ることが重要だ。医学もそうあるべきだろう。できないことをできると信じるべきではない。
 抗生物質は多くの病原菌に対して有効だが病原ウイルスに対しては無効だ。ウィルスは細胞を持たないからだ。そもそもウィルスは生命体かどうかさえよく分からない。増殖するのだから生命体なのだろうが生きているのか死んでいるのかさえ曖昧だ。
 細菌による感染症であれば治療は可能だが、ウィルスによる感染症の治療は現時点では不可能だ。元々備わっている免疫力だけが頼りだ。だからエボラ出血熱の治療は点滴だけだ。点滴によって体力を回復させて免疫力による治癒を支援することしかできない。
 風邪もインフルエンザもウィルスが原因だから治療できないが免疫力によって自然治癒する。対ウィルス戦においては免疫力だけが戦力であってその支援以上のことはできない。
 対細菌戦でも人類が勝った訳ではない。抗生物質による攻撃に対して細菌は耐性菌へと進化し続けている。抗生物質の開発よりも細菌の進化のほうが早いから極めて分の悪い戦いだ。病原体に勝てるという思い上がりが人類を滅ぼしかねない。
 勿論未来永劫人類が病原体に勝てないという訳ではあるまい。あくまで現時点では勝てそうにないということだ。勝てない間は負けないための努力が最重要だ。つまり免疫の邪魔をしないということと、感染しない・させないために最大限の努力をするということだ。それ以上のことを望めば無駄で有害な医療、つまり偽医療になってしまう。

群居動物

2015-04-20 09:48:57 | Weblog
 布団の中で突然妙なことを考えた。社会契約論は根本的に間違っているのではないだろうか、と。人は自然状態に逆らって社会を作るのではなく、自然な欲求に基づいて社会を作るのではないだろうか。なぜなら人類は群居動物だからだ。
 犬が人類の友であるのは犬が群居動物だからだ。群居動物同士だから相性が良い。
 人類はホモ・サピエンスに進化するずっと以前、猿人や原人の時代から群居生活を続けていた。単独でも生きられるゴリラとは違って人類は余りにも弱かったから群居生活をしなければ食料を得ることさえできなかった。当初は「必要」であった群居生活がやがて「本能」に組み込まれた。農業を知って他の動物のテリトリーに入る必要が無くなって初めて独居も可能な動物になった。
 群居動物の変種が独居動物であり、独居動物が集まって群居動物になった訳ではない。海の一部が波飛沫であって波飛沫が集まって海になった訳ではない。
 元々群居動物である人類は社会を作るために契約などしない。本能的に群居するだけだ。人が犯罪者を憎むのは契約を破ったからではない。快適な群居生活を脅かすからだ。群居生活を一層快適にするためであれば自己を縛ることさえ厭わないのは本質的に群居動物だからだ。群の中では価値観が共有されており、契約が必要になるのは群の外と繋がらねばならない場合だけだ。
 人が道徳を好むのは快適に群居することが第一原理として潜在しているからだ。群居するために好ましいことを人は善と呼んで高く評価する。人間にとっての第一原理は、自分の欲望を満たすことではなく、快適な群居生活を営みたい、ということではないだろうか。だからこそ他人のために自分の欲望を制御できる。性愛においてさえ人は自分だけの快楽を求める訳ではない。相手が悦ぶことによってその快感は増加する。
 江戸時代までの日本人は典型的な群居動物だった。我よりも先に我々があった。だからこそ明治時代には西洋的な自我の確立が国民的課題となった。
 猫や象は死期を悟ると仲間から離れて秘かに死を迎えると言う。人類は徹頭徹尾群居動物だから死ぬ時でさえ仲間と一緒に迎えようとする。
 ホッブズからロックを経てルソーへと至る社会契約論に日本人の大半が違和感を覚えるのではないだろうか。これはキリスト教文化が生んだ妄想だろう。神は群の外にいるから神と繋がるためには契約が必要だった。神と人との契約という神話の延長として社会との契約や黙約という虚構が作られたのではないだろうか。人類とは契約する動物ではなく単に本能的に群居を好む動物に過ぎない。哲学者は群居が苦手な人が大半だったから社会性を特異なものと考えたが、共感や連帯は自然な感情であり、個別化こそ本能に背く特殊なあり方なのではないだろうか。

身長

2015-04-18 10:29:25 | Weblog
 動物の体の大きさを決める要因は様々だ。一夫多妻制の動物であれば雌雄の差が大きい。これはオス同士で喧嘩をして勝ったほうがメスを独占するため、オスの体だけが極端に大きくなったからだ。ゴリラやゾウアザラシなどが典型例だ。
 ゴリラと近縁の種でありながらチンパンジーの性差は小さくオス同士の体格差も小さい。これは乱婚制で、オス同士がメスを巡って争わないからだ。しかしとんでもない方法で繁殖競争が行われている。精子がメスの子宮内で授精競争をする。どの精子が卵子に辿り着けるかは殆んど運任せだ。だから多くの精子を放出できるオスのほうが子孫を残せる可能性が高くなる。チンパンジーが他の動物と比べて異様に大きな睾丸を持っているのはこんな事情があるからだ。
 体の大きさは気温によっても左右される。恒温動物の体は一般に寒冷地ほど大きくなり、これをベルクマンの法則と言う。表面積は長さの二乗に比例し、体積は三乗に比例するから、大きいほど体積に対する表面積が小さくなる。表面積が小さければ熱を奪われにくいので寒さに強いという訳だ。
 ベルクマンの法則は人類にも当て嵌まる。男性の平均身長が最も高いのはオランダ人で何と183.8㎝だ。以下はデンマーク、アイスランド、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、オーストリアと北部ヨーロッパ諸国が上位に並ぶ。
 実は世界一大きなオランダ人と、当時は今よりもずっと小さかった日本人が戦ったことがある。蘭領印度つまり現代のインドネシアが主戦場だった。大きなオランダ人はまさかちっぽけな日本人に負けるとは思わなかっただろう。オランダが惨敗したことを象と蟻の戦いのようなものだったと喩えれば当時の日本人に失礼だろうか。
 国内でも気温による身長差はあるようだ。17歳男子の身長は高い順に①青森②鳥取③秋田④山形⑤石川⑥北海道となっている。北海道がトップでない理由は2つ考えられる。1つは弥生人よりも小柄だった縄文人の末裔であるアイヌ民族の血を引いていることで、もう1つは他の地域から移住した開拓民の子孫が多いので淘汰による選別を受ける期間としては短か過ぎるからだろう。
 逆に背が低いのは①沖縄②広島③高知④鹿児島⑤岡山⑥山口と、見事に南方に偏る。沖縄の場合、縄文系の人が多くしかも最南端に位置し、背が低くなるための理想的な条件を満たしている。
 背の高低は優劣ではない。しかし大半のスポーツにおいては背が高いほうが有利だ。背が低いという理由だけでスポーツエリートから外されることは明らかに理不尽であり、身長差で不利にならないようにルールを改めるべきだと私は常々考えている。
 

2015-04-18 09:42:38 | Weblog
 「雀の学校」の歌詞に違和感を覚えないだろうか。「♪ちいちいぱっぱちいぱっぱ 雀の学校の先生は ムチを振り振りちいぱっぱ♪」。「ちいちいぱっぱ」は雀の囀りを表現しているのだろう。しかし猛獣の調教師ではあるまいし、なぜ教師が鞭を振り回すのだろうか。戦前の教育が幾ら威圧的であっても学校で鞭を使っていたとは思えない。
 まず考えられるのは「愛の鞭」だ。しかし全体の流れと整合しないし、根性を養う場ではない和気藹々の授業に愛の鞭は似つかわしくない。
 本を読んでいてたまたま「教鞭を執る」という表現に出会って疑問は一気に氷解した。ムチとは教鞭のことだろう。現代風に言えば指示棒だ。多分、教師は教鞭をタクトのように振って「さあ、声を合わせて囀りましょう」と言っているのだろう。
 考えれば奇妙な話だ。この歌を初めて知ってから60年近く、意味も分からないまま歌っていたということだ。歌うだけならまだマシだ。意味を理解せずに語っていることが余りにも多いのではないだろうか。
 初期の戦後民主主義教育では「封建的」という言葉が非常に強力な否定語だった。つまり戦前の封建的な価値観を捨てて民主的になれ、という意味で使われていた。民主的が善で封建的が悪という単純な価値評価だった。
 今改めて「民主的」が問われるべきではないだろうか。中でも最悪なのは多数決万能主義だ。最近、住民投票によって解決すべきだ、という主張が目立つ。私にはこれは「多数者のために少数者を犠牲にせよ」という主張のようにしか思えない。 
 もし市内のどこかに産業廃棄物処理場を作らねばならない時に市民投票によって決めれば、候補地の近隣に住む少数の人がどんなに強硬に反対しても、それ以外の人の賛成多数によって決められてしまうだろう。こんな手続きは全く民主的ではない。NIMBY(Not In My Back-Yard)は集団と集団との利害対決だ。逆説的な言い方だが、住民つまり当事者は決定に関与すべきではない。被害者と加害者だけによる裁判はリンチのようなものだ。中立の立場の裁判官がいて初めて裁判が成立する。裁判官のような、直接的な利害関係の無い第三者に決定を委ねるべきではないだろうか。
 「民意を問え」という掛け声の元でとんでもないことが決定されることは決して少なくない。ヒットラーがドイツ国民の圧倒的な支持を得て総統に選ばれたという悪しき歴史的教訓を忘れるべきではない。

悪女

2015-04-16 10:32:19 | Weblog
 悪女には元々、醜女(しこめ)という意味があるが、現代では「男を堕落させる美女」つまり傾城(けいせい)の意味で使われることが多い。ではなぜ美女が男を堕落させるのか。
 美女の虜になった男は狭視眼になる。彼女らは時折思わせぶりな態度を示して気を引くから、仕事や学問を放り出して彼女のことばかりを考えるようになる。恋愛は成就するまでが一番楽しいと言うが振り回されれば楽しくない。中にはストーカーになってしまう人もいる。
 悪女はしばしば物語の主人公にもなる。「椿姫」や「マノン・レスコー」など娼婦を主人公にした小説は少なくない。1969年に公開された「悪女のたわむれ」という映画は余り有名な作品ではないが妙に私の印象には残った。リー・テイラー・ヤングの扮する悪女に翻弄される青年を演じたライアン・オニールは翌年に公開された「ある愛の詩」で大ブレイクした。
 悪妻という言葉もある。最も有名な悪妻はソクラテスの妻のクサンティッペだろう。ソクラテスは結婚について「良い妻を得れば幸せになれるし、悪い妻を得れば哲学者になれる」と語った。しかしクサンティッペは夫を駄目な人間にした訳ではないのだから悪妻とは言い難い。本物の悪妻とは七夕伝説の織女のような妻だろう。
 機織りが得意な織女と牛飼いの牽牛が晴れて夫婦になった。ところが二人共働かなくなった。昼夜を問わずセックスに励むからだ。セックス三昧で働かない二人に怒った天帝は二人の仲を引き裂き、一年に一度しか会えないようにした。二人は年に一度の逢瀬を楽しみにして仕事に励むようになった。
 これは七夕伝説に対する私の解釈だが、私がこの話をすると皆大笑いをするが納得する。子供向けのお伽話の中にはとんでもない話も含まれている。
 新婚の夫婦であれば毎日セックスに励む人もいるだろう。当然、睡眠時間が足りなくなって仕事に支障を来す。肉体的魅力だけではなく夜伽の技まで兼ね備えた魅力的過ぎる妻こそ、夫を堕落させる悪妻だろう。セックスレス夫婦が多いからこそ日本人はよく働くのか、はたまた忙し過ぎるからセックスレスになるのかは分からないが、セックスレスと草食化が少子化の原因であることは間違いあるまい。もし本当に日本人が世界一セックスに淡白であるならこのことに対する対策こそ必要だろう。性に対する蔑視や不潔視を温存したままで出産を奨励することは片手落ちではないだろうか。

衆愚

2015-04-16 09:49:43 | Weblog
 親日的と言われる台湾(中華民国)が日本製食品の輸入規制を強化した。台湾では福島第一原発の事故以降、東北・関東の5県の食品を輸入禁止にしており、日本からの輸入品に産地偽装があったことが原因らしい。5県の食品の輸入禁止でさえ過剰対応であり更に強化をするとは不可解とも思えるが、これは消費者団体の要求に応えた対応らしい。国としては当座の安全を確保するために暫定的に定めた禁止措置だがこの規制が一人歩きした。つまり千葉県産の食品=危険な食品という誤解を作ってしまったから、危険な食品の輸入許すまじ、ということになってしまったのだろう。
 世論はしばしば過剰反応をする。日本でも何度も同じようなことが起こった。アメリカで狂牛病(BSE)が発生すれば無条件に輸入禁止にしたし、その後も科学的には全く無意味な全頭検査が延々と続けられた。もし日本の規制が正しかったなら、日本に輸出できない危険な牛肉を大量に食べていたアメリカでは大勢の狂牛病患者が発生していた筈だがそんな話は聞いたことが無い。過剰で無意味な規制だったと言えよう。
 危険かも知れないという情報はすぐに拡大解釈される。農薬であれ合成保存料であれ多く摂取すれば危険だが、危険性を上回る有効性があるからこそ使われている。ところがまるで毒物であるかのように騒ぐ。本来ならこれらはメリットとデメリットを秤に掛けて評価すべきなのだがそんな冷静な視点は失われてマイナス面だけが指摘される。マスコミも下手にこれらを擁護すれば非難の矛先にされる恐れがあるから糾弾する側に回る。こうして集団ヒステリー現象が起こる。
 ダイオキシン騒動は忘れられない。ダイオキシンは猛毒だと騒がれて、ダイオキシンを発生するという理由で焚火をしただけで警察に通報されるような異常事態にまで至った。確かにダイオキシン類の中には有毒物がある。しかし焚火や焼き鳥で発生するダイオキシンの毒性など殆んど無い。これは塩素化合物の中には猛毒の化合物があるという理由だけで食塩(NaCl)まで猛毒と思い込むような錯覚だ。化学に対する無知が招いた非科学的な騒動だ。
 こんな集団ヒステリーにおいては政府とマスコミが鎮静する方向で努力しなければならないのだがそうならない。台湾での輸入規制にも見られるように政府は大衆に迎合する。マスコミも騒動のネタがあれば正義の味方面をして騒動を煽る。集団ヒステリーにお墨付きが与えられるからデタラメが世論になる。誠に情けない衆愚社会だ。
 韓国で親日的な発言をすれば袋叩きに会う。実際に殴り殺された人までいる。だから誰もがそんな発言をしようとはしない。心情的には親日的な人が発言しないからマスコミも政治家も反日一色に染まる。集団ヒステリーによる同調のほうが権力者による言論統制よりも恐ろしい。

孤独死

2015-04-14 10:18:58 | Weblog
 孤独死という言葉は奇妙だ。人はどうせ一人で死ぬのであって家族に看取られようとアパートの一室で野垂れ死のうと同じことだ。私は無神論者だから、死ぬ時や死んだ後については関心が無い。自分の死体などゴミとして処分して貰いたいとさえ考えている。大切なことは死ぬまでに充分に楽しむことであり、不自由な生活を強いられたサラリーマン時代の埋め合わせをすることだ。とは言え、これは私個人の価値観であり、親にまでそれを押し付けることはできない。
 私は田舎で一人暮らしをしていた母を孤独死させないために、住み慣れた大阪を離れて田舎に移り住んだ。母が死ぬまで世話をしてそれから自由に生きようと思っていた。ところがここに落とし穴があった。自由になる頃には自分自身が不自由になっている。不自由になってからの自由など有難味が乏しい。
 大阪に住んでいた頃は100mを2分30秒のペースで毎日2㎞以上泳いでいたが今では3分のペースで1㎞泳ぐだけだ。視力の衰えも実感しつつある。老化は刻一刻進み、遅らせることは可能でも止めることはできない。多分、本人が気付かない内に脳も老化し続けていることだろう。
 友人との交流も途絶えつつある。大阪で築いていた関係は希薄になる一方であり、田舎での新しい繋がりは乏しい。そもそも優秀な同級生は悉く東京圏・大阪圏・名古屋圏に流出し、地元に残っているのは教師を含めた公務員と医者と銀行員ぐらいだ。深い交友は望み難い。不便な土地で不自由な生活を強いられ不愉快な思いをして暮らしている。
 近頃は「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌の「もうすぐ17歳」の歌詞`♪I am 16, going on 17♪'が`♪I am 60's, going on 70's♪’に聞こえる。60代とは辛いものだ。
 今のところ特に大きな病気を抱えてはいない。しかしいつそうなるか分からない。そうなるまでに「老春」を楽しみたい。サラリーマンという不自由な立場から解放されて自由を楽しめる時間は残り少ない。母の死後、大阪に戻っても、憧れの「我儘老後」を楽しめる期間は余りにも短く、身寄りの無い老人として孤独死を迎えることになるだろう。現役時代からの憧れだったhappy retirementは不本意な形で終わりそうだ。

相対性

2015-04-14 09:39:59 | Weblog
 国民年金の未納率が4割ほどあるそうだ。年金に対する不信感が背景にあるようだが、こんな有利な金融商品を利用しない人は気の毒であり、それを煽るマスコミの責任は重大だ。
 「若い世代ほど損をする」とマスコミは報じるが本当に損をするのだろうか。一番損をする筈の世代でも納付額の2倍以上を受け取れるのが現在の年金制度だ。こんな有利な金融商品になるのは年金の半分が税金によって賄われているからだ。
 ではなぜマスコミは「損をする」と騒ぎ立てるのか?現在の受給者が納付額の6倍ほどを受給しており、2倍程度しか受け取れない若い世代が不利になっていると言う。この世代間格差を指して「損をする」と囃し立てているのだがこれを「損」と言っていいのだろうか。デフレ状態が長く続いた現代とは違って、以前の日本では長くインフレ状態だった。現在の高齢者が納付していた頃の金銭の価値は今の10倍ぐらいあっただろう。だから6倍であっても決して不当とは思えない。実際には高齢者も若年層も得をする仕組みになっているのに、倍率が小さいことだけを根拠にして「損」と表現することは正確ではない。世代間対立を煽るだけだ。
 例えば現在の金利は0.1%程度だ。0.1%でも金利が無い訳ではないのだから預金しても損をしない。それを、かつて年利が10%あったことと比べて「損をしている」と批判するようなものだ。絶対的な損得と相対的な損得を混同すべきではない。
 年金で本当に損をするのは早く死んだ人だ。子や配偶者があれば遺族年金が支給されるが独身のままで死ねば掛け捨てになる。それ以外の人は納付額よりも遥かに多くを受け取れるということをマスコミは報じない。批判することは必要だが正しい情報を伝えることはもっと大切だ。
 医療保険は制度に大きな欠陥があり殆んどの人が損をする酷い仕組みになっている。この酷い制度を世界に誇る国民皆保険制度と持ち上げて、殆んどの人が得をする年金制度を目の敵にする。マスコミの姿勢は理解し難い。多分、大衆の思いこみに迎合しているだけだろう。一旦誤った知識が広がるとそれを正そうとはせず偏見を助長するのがマスコミの常套手段だ。正しい知識を持たなければ損をするのは自分自身だ。
 ダイオキシン類や環境ホルモンやコレステロール有害説などで馬鹿騒ぎをして旗色が悪くなれば頬かむりをするのがマスコミの狡いやり方だ。人騒がせなだけの情報を拡散しておいてそれが間違いと分かっても訂正しない無責任なマスコミに騙されっ放しでいてはいけない。

天国

2015-04-12 09:59:51 | Weblog
 昨日(11日)あるテレビ番組を見ていて大笑いした。優秀な警察犬の死を悼む内容なのだがこう締め括っていた。「彼(犬)は天国でも悪人を捕えて大活躍をしているだろう。」
 この発言者は矛盾に気付いていない。番組の関係者もこの矛盾に気付かなかったからこんなブラックジョークのような発言で締め括ったのだろう。天国に悪人がいる筈が無いからこの警察犬は大活躍する機会が無いので絶望するだろう。警察犬だけではなくポワロも金田一耕助や明智小五郎も暇を持て余すだろう。
 なぜ天国には悪人がいないのか?悪人は天国に行けないからだ。しかし仮に悪人であっても天国にいれば悪事を働く必要が無いから悪いことはしないしできないだろう。生活は満たされており競争する必要も無い。原始共産制のような理想社会であれば犯罪はあり得ない。多分事故も発生しないだろう。
 芥川龍之介は「侏儒の言葉」で「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。」と書いているが、私は「天国こそ地獄的だ」と言いたい。満たされて変化の無い生活は退屈極まりなく、退屈を紛らすために罪を犯してしまうかも知れない。
 善意しか無い社会など全然面白くない。予定調和が約束された世界など何の魅力も無い。結果が分かっているゲームを楽しめないのと同じように善意しか無い世界は不愉快だ。
 総てが満たされた筈の天国に欠けているのは「悪」だ。この世は悪というスパイスがある分だけ天国よりも魅力的だ。曖昧で不確実だからこそ楽しい。天国という妄想を作った人々は不確実性を楽しむことができない可哀想な人なのだろう。不確実性と矛盾こそこの世の醍醐味だ。