俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

未来

2015-09-22 09:38:30 | Weblog
 「未来の人々を含めた多数決」という奇妙なルールを私が考えるのは「未来を犠牲にした現代人による多数決」が実際に行われているからだ。問題を先送りにすれば未来を犠牲にして現在の幸福を享受できる。
 国の借金は次世代への負の遺産だ。現在の有権者に大盤振る舞いをしてその支払は次世代に任せる。ポピュリズム政治はそんなことを繰り返す。日本でもタイでもギリシャでも全く同じ構造だ。
 シルバー民主主義は老人による現役世代に対する搾取だ。老人は年金を1円でも増やせと主張する。老人の特権を奪おうとする者は誰であろうとも容赦しない。あの橋下市長でさえ過剰優遇の「敬老パス」を見直したばかりに葬り去られた。
 ウナギやマグロを食べ尽くすことも将来の世代からの収奪だ。絶滅した生物が蘇ることは絶対に無い。
 中国共産党のやり口は未来を犠牲にした独裁政治だ。権力を維持するためなら何でもする。経済をバブル化させ株や為替にまで介入するのは国民のためではない。自らの権力を守るためだ。将来にツケを回す愚劣で恥知らずな政策だ。
 大気汚染もツケ回しだ。現在の繁栄のためなら、将来、中国に人間が住めなくなっても構わないという未来を犠牲にする刹那主義だ。
 会社にも未来を犠牲にする人がいる。収入の前倒しや支出の繰り下げなどを使って見せ掛けの収益性を改善する。彼が去った跡にはペンペン草しか残らない。
 もし返済期限が100年後という貸金制度があれば誰もが借金をして踏倒すように、借金の返済義務が他人に移るのであれば借り放題・使い放題だ。これが次世代へのツケ回しだ。
 政治家は有権者しか見ない。票にならないことなどやろうとしない。だから「パンとサーカス」によって有権者の歓心を買おうとする。ツケを払わされるのは今、有権者ではない世代、あるいは未だ生まれてさえいない人々だ。
 「最大多数の最大幸福」は現在の安逸を目論む。そうではなく将来生まれるであろう1億人の日本人の幸福まで考慮すべきだろう。しかし社会の常識はそうではない。未だ生まれていない人々の人権など全く考慮されない。
 未来の人々は今の有権者ではない。だから現代人は未来の人々から搾取しようとする。多数決という仕組みは参加者による独裁制だ。生まれていない人々に参政権は無い。これは著しく不合理な制度だ。投票権どころか未だ生まれてさえいない人々にツケ回しをする権利が我々にあるとは到底考えられない。

採決(2)

2015-09-20 10:24:43 | Weblog
 私が大学生の頃、誰もが反体制派だった。反体制のほうが進歩的であり格好良いと無邪気に信じていた。ところが反体制派は内部分裂を繰り返した。まず代々木系と反代々木系、つまり日共系と非日共系に分かれ、新左翼の側では「革命的共産主義者同盟(通称『革共同』)」が「革マル派」と「中核派」に分かれて凄惨な内ゲバを繰り返した。これが後の「連合赤軍」事件と共に、学生を政治活動から離反させる大きな要因となった。
 「反○○」は易しい。完璧な制度などあり得ないのだから、欠点を針小棒大に騒ぎ立てるだけで簡単に否定できる。「反○○」は小学生程度の知的レベルでもそれなりに主張できる。難しいのは何を肯定するか、だ。「反○○」で集まっても建設的な案が欠けていれば烏合の衆に過ぎず、結局内部分裂を繰り返すことになる。
 私は子供の頃から多数決という仕組みに大きな不満を持っている。これだけは何とかして克服したいと思うのだが、「未来の人も含めた多数決」以外にこれといった代案も無く、これを支持してくれる人も殆んど皆無だ。だから取り敢えず多数決に従わざるを得ない。
 それだけに多数決を支持する立場に立つべき政治家が多数決を否定する行動を取ることを容認できない。「強行採決」という言葉は日本にしか無いらしく外国人はこの言葉を理解できないそうだ。採決とは民主的な手法であり採決を否定することこそ反民主的と考えるのだろう。実際の話、多数決を否定すれば民主主義は機能しなくなる。
 「憲法違反の安保関連法案は何としても阻止する」と一部の政治家は主張する。しかしこれは越権行為だ。憲法違反かどうかを決める権限は政党や政治家には無く、司法が握る重要な権限だ。勝手に違憲と決め付けて審議や採決の妨害をすることは、容疑者に対するリンチのようなものであって許容できない。暴力やセクハラ行為を誘導するような姑息な手段など使わずに紳士的に粛々と採決を終えたほうが、自民党のの悪辣さを浮き彫りにできただろう。そうすればその後の参院選や法廷闘争においても国民の賛同を集められただろう。法案の是非はともかく、与党の議会運営は概ね民主主義のルールを尊重して謙虚であり、野党の形振り構わずいじめや子供っぽい嫌がらせのような採決妨害のほうが遥かに見苦しかった。「どっちもどっち」と言われるような闘い方は下策だろう。
 採決の否定は民主主義の否定だ。一部の学者が違憲として訴訟を起こす準備を始めているようだが、これは政治家が中心となってやるべきことだろう。足尾鉱毒事件における田中正造氏のように法廷闘争を通じて歴史に名を残した政治家もいる。民主主義の国に民主主義を否定する政治家は要らない。

事実

2015-09-20 09:35:42 | Weblog
 事実は価値が高く理念は価値が低い。なぜなら事実は存在するが理念は実在しない。事実には事象性(現実性)があるが理念には可能性しか無い。こんな「現実主義」にはうんざりする。彼らが偶然に基づく事実と必然的な事実を区別しないからだ。
 宝くじで3億円当てた人がいる。アガリクスで癌から快復した人もいる。株で大儲けした人もいる。これらは総て偶然だ。奇跡ではない。
 圧倒的に多くの人は宝くじで損をし、アガリクスで癌は治らず、株では儲けたり損をしたりする。こちらのほうが圧倒的に多い。
 稀にしか起こらないことを根拠にして「これこそ真実だ」と騒ぎ立てる人は「可能性」の意味を理解していない。起こったことは総て必然であり起こっていないことは総て空想だと考える人は誠実性を欠いている。こんな人が例外的事例を根拠にして騒ぎ立てる。起こる筈の無いことも起こり得るし、起こるべきことが起こらないこともあり得る。
 起こったことは事実であることが証明されていると言う人は、多数の事実から都合の良い事実だけを抽出している。確かに宝くじで3億円当たった人はいる。しかし当たらなかった人のほうが圧倒的に多い。当たった少数派に目を向けるのと同等に外れた多数者にも注目すべきだろう。沢山の当たりくじを売った売場は同時に沢山の空くじ(多・空くじ)を売った売場でもある。当りにばかり注目するから評価が歪められる。
 火傷をした子供は火を怖がる。確かに火は怖い。しかし必要なことは適切に怖がることだ。過剰に怖がるなら恐怖症という病気であって治療が必要だろう。
 人は様々な経験をする。その経験に対する評価に基づいて価値観が作られる。稀な事実が過大評価された時、歪んだ価値体系が築かれる。人は皆嘘つきだ・・・何人中何人が嘘つきだったのか。悪人しか出世しない・・・何人中何人が悪人で、そもそも悪人の定義は何か。
 日米戦争の原因は様々に解釈できる。軍部の暴走、帝国主義の激突、領土拡張主義、白人支配の否定、マスコミと国民の好戦気分など無数にある。私はルーズベルト大統領による挑発を第一と考えるが、どれにせよ好き勝手に価値評価をしているだけだ。事実の分析の前に結論があることも少なくない。
 既に起こった事実は無数にある。その総てが等価値である訳ではないし、稀な事実が高価値とも思えない。「人が犬を噛んだ」という事実が「犬が人を噛んだ」という事実よりも重大とは到底考えられない。そんな歪んだ評価をするのはマスコミだけだ。情報の価値は重要性×可能性によって評価されるべきだろう。

秀才

2015-09-19 10:22:58 | Weblog
 医師はエリートだろう。私立医大に裏口入学した人以外はそれなりに学力があった人だ。そんな人がなぜ低レベルな仕事しかできないのだろうか。日本の教育制度の欠陥が露呈しているように思える。
 ①白と黒・・・・学校では、正解は1つと教える。試験の正解は常に1つだけであり、正解が2つ以上あれば設問が間違いとされる。こんな教育を受けたから何もかも白と黒に分けてグレーの存在を認めなくなる。教科書に書かれていることは絶対に正しく疑うことは許されない。だから通説が否定されてもそれに対応できない。20代で教わったことを60歳になっても改めようとしない。コレステロールを目の敵にする内科医が今もいるし、傷口を消毒しなければ気が済まない外科医もいる。
 ②結果主義・・・・試験では結果が総てでありプロセスは問われない。だから結果にばかり注意を向ける欠陥人間になる。これが2つの悪弊へと繋がる。対症療法と検査数値の過大評価だ。
 対症療法を治療だと思い込むのは原因を考えることが習慣付けられていないからだ。下痢を訴える患者には下痢止めが処方される。和歌山の砒素カレー事件や堺市でのО-157集団食中毒事件などでは、下痢止めを処方された患者の死亡率が有意に高かったそうだ。なぜかを考えずに対処するから却って悪化させてしまう。
 検査数値はあくまで目安だ。数値だけでは何も分からない。ところが高得点を得ることを目標にした勉強しかしなかった受験秀才崩れにとっては、検査数値を下げることが目標になる。高血圧症の原因など放置したまま検査数値を下げることに躍起になる。受験生時代の誤った考え方から卒業できていない。学力を高めるための勉強ではなく試験で高得点を取るための勉強しかしなかったから、検査数値が結果に過ぎず原因を治療しなければ治らないということが理解できない。生活習慣病の治療のためには食生活を含めた生活全般の改善が必要なのに薬で数値を下げるだけで満足してしまう。困ったことに医師の多くは栄養学の知識を欠いている。だから食生活の改善を無視して、自らの乏しい知識で対応できしかも儲けに繋がる薬やサプリメントに頼ることになる。
 受験テクニックの弊害もあるだろう。試験では難しい問題には手を付けず易しい問題で手堅く稼ぐというテクニックが奨励されている。治療などといった難しいことなど放棄して、目の前にある「科学的な」数値だけを下げていれば患者も医師も満足できる。勿論これは幻想であり、治療されずに薬漬けにされた患者は一生薬を飲み続けることによって医原病患者にされてしまう。教育制度の不備だけが現在の歪んだ医療の原因ではあるまいが、今の教育が「考えない人」を大量生産していることは間違いあるまい。

偶然

2015-09-19 09:41:34 | Weblog
 偶然が最良を生む、などと言えば馬鹿にされるだろう。最高の知恵によって導かれなければ最高の結果に結び付く筈が無い、と誰もが考える。これを否定したのが進化論であり、だからこそ今でも進化論を否定しようとする人が少なくない。そんな馬鹿なことなどあり得ないと考えるからだ。
 生命の精妙さは人智を超える。人類は未だ微生物さえ作れていない。こんな偉業は万能の創造者にしか不可能だと長く信じられた。
 進化論が画期的なのは、偶然の変異が偶然環境に適応すれば最良の生物に進化し得るとしたことだ。こんな馬鹿げた理論が袋叩きに会うのは当然のことだろう。偶然に偶然を重ねていれば支離滅裂になって混沌へと至ると誰もが考えた。これを淘汰というたった1つのキーワードによって覆したところにダーウィンの偉大さがある。個体はそれぞれが微妙に異なる。その個体差が環境に適応していればその変異は保存され、不適応であれば淘汰される。これが数十億年に亘って繰り返されたから生物は人智を超えた能力を獲得した。
 ダーウィン以前にも進化論的な考え方はあった。例えばラマルクは、生存のために必要な器官が発達すると考えた。つまり生物の目的に従って進化が方向付けられると考えた。ダーウィンはこれを否定し、単にたまたまその時の環境に適応した者が繁栄するとした。生存と繁殖に適した個体がいかなる目的も持たずに増殖して徐々に強い生存力を獲得する。これが適者生存だ。
 これこそ「コペルニクス的転回」だろう。ダーウィンほど偶然性を重視した人はいなかった。世界が偶然によって秩序付けられるなどとはそれまで誰も考えなかった。
 何が最善策であるかなど当事者には分からない。後になってから初めて分かることだ。世界とは不確実性の塊りだ。ノーベル文学賞の受賞者でもあるフランスの哲学者のベルクソンは、将来の文学の可能性について尋ねられてこう答えた。「後になってからそれが可能だったと分かるだけで、現時点では何が可能なのか分からない。」(「思想と動くもの」の「可能性と事象性」より)これが進化論的な考え方だ。無数の選択肢があっても現時点ではどれが最良であるかなど分からない。可能性が高い選択肢を選べば成功する可能性が高いとしか言えない。偶然訪れるチャンスを逃さないことが大切だ。成功者とは挑戦することの労を厭わずに挑戦し続けて上手く運を掴んだ人だろう。挑戦し続けたからこそ運を掴むことができたと言える。

採決

2015-09-17 14:02:09 | Weblog
 国会議事堂が「採決堂」になっていることは嘆かわしいが、採決さえできないのであれば国会そのものの存在価値さえ無くなるのではないだろうか。
 安保関連法案は多分違憲だろう。しかし採決さえさせないということは憲法以前の問題であり、民主主義の根幹に対する造反だ。どうせ可決されることが分かっているのだから愚かなパフォーマンスなどに終始せずさっさと可決させて法廷闘争に切り替えたらどうなのだろうか。司法には法案の審査権は無く、法として成立して初めて違憲立法審査権を行使できる。力尽くで阻止するような野蛮な方法ではなく、憲法に基づいて合法的に廃案にすべきだと私は考える。
 司法が違憲と判断するとは限らないから力尽くで阻止しなければならない、という理屈は通らない。法の番人は司法であり、与党であれ野党であれ立法府は司法判断に従う義務がある。司法の権威を無視して自分達の主張を正当化することなどできない。それは驕り以外の何物でもなかろう。
 多数決は不完全なシステムだ。しかし幾ら不完全で不合理な仕組みであろうと、代替案が無い以上これに従わざるを得ない。選挙という制度があってこれで選ばれた議員だけが議決権を持つ。これを否定することは選挙制度の否定であり民主主義の否定でもある。彼らはデモ隊同士で殴り合って決めろとでも言いたいのだろうか。
 その点、橋下市長は潔かった。「いやぁ~、負けちゃいました」とは言わなかったものの、政治生命を掛けた大勝負で惜敗しても一言も文句を言わなかった。それどころか自らの主張を否定した民主主義を絶賛した。
 日本の政治家は民主主義とは何であるかを1から学び直すべきではないだろうか。維新の党の議員も含めて、採決阻止に血眼になっている野党の議員全員に、橋下市長の爪の垢を煎じて飲ませたいものだ。

信頼

2015-09-17 10:33:17 | Weblog
 北関東で大洪水が発生した原因は線上降水帯だが、ここまで被害が拡大した原因は何だろうか。2つあると思う。1つは特別警報の発令が遅かったことであり、もう1つは住民も市役所も特別警報を軽視したということだろう。特別警報が遅れただけではなく、それを受けて発令すべき避難勧告も避難指示も後手に回った。特別警報はこれまでに5度出されたがどれも大した被害は無かった。2014年8月に三重県に出された時も空振りだった。私は伊勢市の住民だが、元々騒ぐほどの雨ではなかったし、雨が止んでからしばらくたっても特別警報は解除されなかった。空騒ぎに終わったから不信感が残った。
 これまでに5度も空振りをしたことから住民は特別警報を警戒しないし、気象庁はこれ以上失敗を繰り返したくないと考える。だからこそもっと早く発令すべき特別警報が遅れたのではないだろうか。間違いを反省することは重要だが告知する勇気もそれに劣らず重要だ。
 もしかしたらデタラメな地震予知を繰り返して反省しない地震学者と同列にされたくないという思いもあったのかも知れない。こんなことでまともな研究者が萎縮するなら、贋学者や彼らの無責任な発表を垂れ流し続けたマスコミの罪は重い。
 イソップ寓話の狼少年の話は余りにも有名だが、偽物の本場・中国の歴史にはそれを地で行ったスケールの大きな実話がある。
 古代中国の周には褒似(ほうじ。正しい字はニンベンではなくオンナヘン)という絶世の美女がいた。夫の幽王は滅多に笑わない王妃の笑顔を見たいと願っていた。ある日、手違いで狼煙が上がった。諸侯は「すわ、一大事」と我先に駆け付けたが都には何事も無く平穏だった。この時、褒似は美しく微笑んだ。それを見た幽王は褒似の笑顔を見るために不必要な狼煙を上げ続けた。しばらくの間、諸侯は真に受けて駆け付けたが、褒似を笑わせるために集められていると分かって段々集まらなくなった。そんな時、蛮族の犬戎に攻め込まれた。ところが合図の狼煙を上げても諸侯は集まらなかった。こうして周は滅んだ。
 信頼を失えば国でさえ滅ぶ。関係者の信頼を得ることはどんな組織・個人にとっても重要だ。しかし信頼を得ようとして慎重になり過ぎればそのために信頼を失うということもあり得る。空振りを恐れてスイングを小さくしても打率が上がるとは限らない。

肯定

2015-09-17 09:52:27 | Weblog
 先日「還付」という記事で珍しく肯定する立場で書いたが、やはり肯定は否定よりも難しいと痛感した。生半可な知識でも否定はできるが、肯定するためには豊富な知識が必要だ。執筆するための準備時間は他の記事の何倍も要した。還付制度やマイナンバー制度の仕組みを充分に理解しなければこの記事は書けなかった。
 8%への増税は退職後のことだったが、初めての導入時でも5%への増税時でも、私は仕事上かなり積極的に取り組んだ。だから消費税の裏も表もかなり詳しく知っていると思っている。
 否定することは易しい。完璧な制度など無いのだから小さな不備を針小棒大に騒ぎ立てるだけで可能だ。合成保存料の有害性を騒ぐ人の大半は明らかに勉強不足だ。碌に調べもせずに誤った知識に基づいて批判する人が少なくない。
 私は代案無しに反対する人を信じない。反対する人こそ建設的であるべきだ。文句を言うだけではなくどうすれば良いかを具体的に提示してそれよりも劣るということを根拠にして反対すべきだろう。
 具体案に入る前に公明党の反対で廃案になりそうな雲行きになって来たが、消費税の還付という仕組みは帳簿方式を採用している日本型消費税制の元では最も合理的な軽減税制度だと思う。これを簡略化した定額還付制でも良いと思う。これを否定するなら代替案を提示すべきだ。どんな貧しい人にも「平等に」課税する悪税である消費税の廃止を考慮しなければ、多分2種類の案しかあるまい。軽減税を諦めるか、ヨーロッパのようなインボイス(伝票)制への変更か、だ。この3択でどれが一番マシかを議論すべきであって、代替案も無いままに完全な制度ではないからと否定するのは駄々っ子のようなものだ。財務省案の還付上限額4,000円に問題があれば5,000円や6,000円の案と比較すれば済むことだ。マイナンバーカードとの連動も必ずしも必須ではあるまい。これらは根本的な問題点ではない。ぶっ壊せばあとは何とかなるという考え方は余りにも楽天的かつ無責任だ。
 たまたまニュージーランドの国旗変更の是非を問う国民投票が2度に分けて行われることを知ってその仕組みに感心した。1度目では新国旗の案の人気を問い、2度目で初めて現行国旗との優劣を競うとのことだ。まず対案を決め、それから初めて変更の是非を問うところに成熟した民主主義を感じた。日本なら、現行の国旗の是非を問うか、複数の案のままいきなり多数決に持ち込んでしまうだろう。賛否の前に対案を一本化することは理に適っている。
 オリンピックの開催地の決定方法も単純な多数決ではない。最下位だった候補地から順番に外してどこかが過半数を獲得するまで投票を繰り返す。単純な多数決ではなく工夫が加えられている。
 日本における言論の自由は責任免除とセットにされている。この長所を否定する気は無いが、このために言論が無責任になって暴言・放言が横行している。反対することが愚痴であってはならない。建設的でない反対意見など有害無益なだけだ。
 

2015-09-15 10:26:00 | Weblog
 先日のバンコクでの爆破テロ事件について12日の朝日新聞は「ウイグル続関与か」という見出しで報じた。私は朝日新聞は中国贔屓だと思っているがこの見出しは酷い。まるでウイグル族がテロリスト集団であるかのように誤解させかねない表現だ。
 新疆ウイグル地区の住民は中国共産党によって支配されており自由な政治活動は困難だ。だからダライ・ラマ14世を精神的指導者と仰ぐ人が少なくないチベット族とは違ってウイグル族としての意思表示は難しい。
 バンコクでのテロに参加したのは一部の跳ね返りだけであり民族の総意である筈が無い。この記事は見出しだけではなく記事においても「ウイグル族がテロに関与した可能性が高まった」と書いており、ウイグル族が組織的に犯罪に加担したかのような表現だ。こんな見出しは「中国関与か」と同じようなものだ。勿論正確には「中国人関与か」だが、国を持たないウイグル人にとって「ウイグル族」は全体を意味する。もし「クルド族参戦」という表現があればそれは決して「一人のクルド人」ではなく「共通の政治的目的を持った多数のクルド人」という意味だろう。同様に「ウイグル族」は「ウイグル人」とは違ってそれなりの集団か全体を指す。国を持たない民族に対する配慮が欠けている。
 私は朝日新聞を定期購読している。散々非難している新聞を購読しているのは決してアラ探しをしたいからではなく読み易いからだ。朝日新聞は特定の情報についてのみ歪んでいるから、そのことさえ知っていれば補正することは易しい。夜に起こった事件であれば、朝日ならこう書くだろうと予想して、翌朝そのとおりであることに大笑いすることもある。
 朝日新聞の記事は概ね正確だ。多分、他紙以上だろう。憲法9条と中国と韓国と北朝鮮と橋下市長など以外では妙なバイアスが掛かっていないと思っていたが、ウイグル族などを含むムスリム(イスラム教徒)にも偏見を持っているのだろうか。
 7日の朝日新聞名古屋本社版の朝刊には少なからず驚かされた。どうでも良い作り置き記事がトップだったからだ。官公庁が休みの日曜・祝日明けの朝刊は作り置き記事が少なくないが、この日の「政党交付金 人件費で飲食」という記事は酷かった。事件性も新鮮さも全く無く、匿名の元秘書やら元議員やらの談話が羅列されているだけだ。到底トップを飾れるレベルではない。多分当初予定していた記事がボツになったために急遽穴埋めに使われたのだろうが、どんな記事がボツにされたのかのほうが興味深い。こんなolds≠newsで誤魔化すよりは真っ当なニュースで埋めて貰いたいものだ。

決壊

2015-09-15 09:44:37 | Weblog
 今回の北関東の大水害で、線上降水帯という言葉を初めて知った。2つの低気圧が左右を通過すればラッキーと思うところだがそうではなかった。両側を低気圧に挟まれれば線上降水帯が発生する。低気圧は左回りの渦だ。2つの渦に挟まれれば大気の衝突が生じる。2つの独楽がぶつかれば接点でエネルギーが生じるが低気圧は個体ではなく渦だから接点ではなく接線になる。これが線上降水帯だ。
 堤防の決壊がこれほど恐ろしいものだとも思っていなかった。何もかも飲み込む濁流を見てあの東日本大震災の大津波を思い出して恐怖を感じた。
 こんな時にふと不謹慎なことを考えた。今回は東側が決壊したからこそ西側は無事だったのではないだろうか。つまり川岸の両側では利害が対立すると思える。対岸が決壊すれば自分の側は安全になる。両岸を守れるならそれがベストだろうが、両岸の決壊という最悪のケースもあり得る。どちらかを意図的に決壊させるという選択は可能だろうか。
 福島第一原発での事故時のベントについてこんな噂がある。東京を守るために南風が吹くのを待っていたという噂だ。東京を守るために東北を犠牲にすることは許されるだろうか。
 10人を守るために一人を犠牲にすることは通常許されない。犯罪における緊急時だけが例外だ。人質を取った凶悪犯に対する狙撃は認められている。それ以外であれば11人全員を守ろうとしてそのためにたとえ10人が犠牲になってもやむを得ないとされている。つまり成行き任せが是とされ積極的な行動は奨励されていない。
 倫理学ではこんなことが問われている。人通りの多い交差点の直前で自動車のブレーキが利かないことに気付いた。直進すれば大惨事になるが、左折すれば歩道の歩行者に、右折すれば他の自動車にぶつかる。運転者はどうすべきだろうか?
 直進して大勢の歩行者を跳ね飛ばすことが最も安易な選択だ。事故の原因はブレーキの故障であると、自分も他人も納得する。逆にハンドルを切ったほうが責任を問われることになりかねない。仮に横断中の10人を救ったことになってもそのために数人を「殺した」ということになるからだ。更に悪いことには、救われた10人には救われたという自覚が無いから感謝されることも無い。加害だけがクローズアップされる。
 こういった究極の選択は議論が回避され勝ちだが予め考えていなければいざという時に最悪の選択をしてしまいかねない。
 利害が対立する時に全員が納得できる解決策はあり得ない。多数決で決めるべきとも思えない。しかし放置して最悪の結果を招くことだけは避けるべきだろう。一般論は難しいが、究極の選択を回避して成行き任せにすべきとは思えない。