タイトル長すぎ?(笑)
さてさて、今回お初の永谷宗円生家にようやく到着です。
石段に日本遺産のマークの看板が。
左側の緑色が気になります。
あらまあ、可愛い。苔の上に小さい家の焼き物が・・・
竹の戸を通り抜け、左手を見ると・・・なるほど~これが生家なんですね!
なんと可愛らしい・・・って、ちゃうやん!
後ろに見えているのが・・・
永谷宗円の生家でした。
それほど大きくはなく、藁ぶきの小ぢんまりしたおうちです。
近づいてみました。
入り口わきの水盤にお花が・・・
陶器のおうちと言い、お花と言い、管理されている方のセンスと気配りを感じました。
お茶の心なのでしょうか。
(ちなみに、緑色はオトコエシの実でした)
入館料をどこで払うのかとキョロキョロしていたら、お掃除をされていた女性に、どうぞおはいりくださいと声を掛けられました。
中に入ると、こんな感じで、見学者はビデオを見ながら説明を聞き、お茶をいただけるというシステムでした。
こちらでいただいた緑茶は、40℃くらいの低温でじっくりと入れてくださるので、アミノ酸が沢山出て甘かったです。
水で6,7時間ゆっくり抽出しても夏向きでとても美味しくいただけるとのこと。
販売もされているので、1袋いただきました。
ちなみに、入館は無料です。
永谷宗円さんですが、日本緑茶の祖と呼ばれています。
案内の方の説明によると、それまでお茶と言えば、上流階級の飲む抹茶と、庶民が飲む茶色いお茶しかなかったそうです。
抹茶の原料となる碾茶を作るには、前にご紹介したように、茶畑の上に寒冷紗やよしずなどをかけて日差しを遮る必要がありますが、江戸時代、宇治以外でこの覆いをかけることは許可されていませんでした。
やんたんでは当然露地栽培しか許されていなかったため、宗円は何とかして、ここで採れた茶葉を抹茶のように美味しいお茶に加工し、村の暮らし向きをよくできないかと15年もの間、工夫に工夫を重ねました。
そして編み出したのが、緑茶製法、つまり、「茶葉を蒸してから手もみで乾燥させる」方法です。
この緑茶、最初から売れに売れた・・・というわけにはいかなかったようです。
保守的な京都での販路は諦め、単身花のお江戸に乗り込みました。
しかしながら、あちこち回っても見慣れない緑のお茶は見向きもされない中で、唯一、茶商の山本屋がその美味しさに感動し、購入を約束してくれました。そしてその後、江戸では緑茶が大人気を博したそうです。
山本屋は現在の海苔の山本山だそうで、出身は宇治の山本という集落だそうですから、元々京都とは縁があったんですね。
ところで、なんで永谷宗円と関係が深いのは山本山で、永谷園じゃないの?と思われた方もおられるのでは。
実際、永谷園の創始者は、永谷宗円の縁者だったそうですが、当時宗円の作った緑茶を販売していたわけではないようです。
この現在でも有名な2社は、今でもやんたんの支援をされているとのことでした。
・・・説明が長くなってしまいましたね。
こちらが実際宗円が色々試行錯誤を繰り返していた作業台や焙炉なんだそうです。
建物は当時のものではなく、忠実に復元したもののようです。
前にはお茶の木が植えられ、もう花を付けていました。
お茶の花が飾られていました。
実を付けている木もありました。
夏ごろにも咲いていたようで、ほったらかしにすると、花や実が沢山付くのだそうです。
ということで、お茶の京都特集の第3回、緑茶の祖宗円についてお届けしました。
この後、山を越えて大滝に行くという話をすると、案内の方から「ヒルが出るからやめなさい」と散々脅かされました。
湿った草地を歩くと、必ずと言っていいほど、ヤマビルがくっつくらしいです。
「山越えはやめて、駐車場まで戻って車で行きますから」と言って、宗円生家を後にしました。
【撮影:2021/10/3 宇治田原町】