昨日、私が、真言密教による祈祷について、ブログにさらっと書いたためか、金鳳先生から祈祷・祈願の基礎知識を送ってきました。ホームページに掲載しますが、一足先に皆様へ。
真言宗阿闍梨の金鳳先生の護摩焚き祈祷は、10万円から。今のところ、たいてい10万円で引き受けてくれるので、お得です。
金鳳先生は、リストラ坊主ではありません。昨年末、坊主以外の活動で忙しかったので、一旦、寺勤めを辞めただけです。
本日も、営業用の携帯電話を渡そうとしたら、奈良で結婚式の仕事をしたあと、大阪で月参りと忙しいようです。
無職といっても、単に寺に勤務していないというだけで、仕事が多く、忙しいようです。
祈祷による相談は、reinou2@infoseek.jp
http://www.reinou.jp
祈祷・祈願の基礎知識
「私を嫌っているあの人を振り向かせてやる!」
そう思って祈祷のお願い、護摩の依頼などしたことはありませんか?実はそこまで来てしまうと、それはもはや「のろい」を相手にかけているのと同じです。「魔術」というものがありますが、仏教の一分野である密教の行者である私から見て、何が「魔術」であり、「のろい」をかけていることになるのか、まずお話ししたいと思います。
何事によらず、自然に時間が過ぎていく限り、そこには一定の法則があります。それは、原因があり、条件が揃って、結果が出る、ということです。キリスト教などで「奇跡」というものがありますが、あれは、原因もなければ、条件も揃ってないのに、ありえないはずの結果の部分だけが起こってしまうことを指します。なぜそれが奇跡として起こるかというと、原因・条件・結果の法則さえも神が設定したものであるから、神自身はそれを無視した現象を直ちに起こすことができる、と考えるのが「一神教」の特徴です。「一神教」における「魔術」というのは、神でも天使でもない人間が、原因・条件・結果の法則を飛び越えた現象を起こそうとする方法論のことなのです。
仏教的に「魔術」や「呪術」といえば、一つ上の文章から「神でも天使でもない人間が」という部分を削除すれば、表現できると思います。たとえ誰であろうと、自然の法則に逆らって何かの現象を起こす時、それは本尊を定めた祈りではなく、自分の念力=「魔力」を使った「魔術」にしかならない、ということです。何が「魔」なのかというと、大宇宙の普遍的な法則を無視するところが、「魔」の「魔」たる所以なのです。
さて、そのような前提のもとに、祈祷・祈願について、分類を行っていきたいと思います。密教では、四種法といって願い事の内容に大別して4種類あると言われています。それぞれの概略を申し述べます。
息災(そくさい)
無病息災という言葉がありますね。最近は一病息災、などという言葉もあるようですが、無病で、あるいは、一つだけ持病があるおかげで検査を定期的にするがために、大きな病気になることもなく、息災で、という意味です。では息災とはどういうことかというと、「災いをやすめる」という意味になります。つまり、マイナス要素を取り除く、という意味です。災いもなく、大病もせず、というところでしょうか。当病平癒祈願が代表的な例ですが、受験の合格祈願なども息災です。邪魔されずに自分の力が発揮できること、これ即ち息災というものです。
増益(そうやく)
文字通り、利益を増す、ということです。商売繁盛の祈願など、これにあたるでしょう。では、無一文の人が「お金を得られますように」と祈願することが増益かというと、それは少し違います。仏教が論理的であり、数学的であるのはまさにここです。利益を増す、というのは掛け算の世界です。ゼロに何を掛けたってゼロ。マイナスに掛けようものなら、さらなるマイナスが待っているだけです。まずは商売用なら商売用の通帳にいくらかでもプラスの預金をしてから増益の祈願をしましょう。そして、ここは大切なところですが、他者の財を奪って自分の利益が増えますように、とは努々思わないことです。いつか他人が自分にそういう祈願をかける日が来ます。自らの利益を願う時は、他者全員の利益も併せて願いましょう。ちなみに、増益から派生した祈願に、延命祈願があります。
敬愛(けいあい)
これも読んで字の如くですが、人間関係を向上させる祈願です。愛という文字を含むため、恋愛祈願のことだと思われがちですが、恋愛も含む、すべての人間関係に関する祈願が、この敬愛祈願です。敬われ、愛されるための祈願ですが、自分が何の魅力も持たぬまま、相手に敬われよう、愛されようとするのは、原因・条件・結果の法則を無視した願いというもので、それは相手を錯乱に陥れようとする呪詛、のろいに他なりません。一時的に願望成就しても、ある日錯乱から覚めた相手が、こちらをより一層嫌悪することくらい、誰にでもわかることではありませんか。まず、敬われ、愛されるに値する自分となることから、この祈願の第一歩を踏み出さなければなりません。ちなみに、この敬愛から派生した祈願に、鉤召(こうちょう)という祈願があります。必要な人、物、神仏を呼び寄せるという祈願です。
調伏(ちょうぶく)
伏せ、調える、という読み方が出来ますが、他に降伏(ごうぶく)という言い方があり、こちらは、伏せ、降す、という読み方が出来ます。呪詛と混同されることが多いこの種類の祈祷ですが、実際は大事な部分で違っています。「死ね」と思って祈祷すれば、それは明らかに呪詛です。呪詛は相手が望んでいない方向にむりやり捻じ曲げよう、という祈祷のことですから。しかし調伏は、対象は相手であったり、自分のであったりしますが、煩悩に対して行う祈祷です。確かに効果として、それしか解決法がない場合は、相手が死んでしまうこともあるでしょうが、それは目的ではないし、また行者が目的とすべきことでもありません。その目的を持ったが最後、文字通り「人を呪わば穴二つ」ということになります。ともあれ、慎重に取り扱われるべき祈願内容ですし、目的はどうあれ、相手に起こることは大抵マイナス方向のことです。
さて、最後にこれらの祈祷種別の関連性について述べたいと思います。増益は最終的に、
息災に集約されることになります。これは、息災がマイナスからゼロへ、増益がゼロより上からさらに上へ、という風に、どちらもプラスの発想の祈願である、という共通点がその理由です。そして、敬愛は意外なことに、正反対とも思える調伏に集約されます。これは、敬愛では相手の意識をこちらに奪い、調伏では相手の良くない方向に使われているエネルギーを奪う、という風に、何かを奪う祈願になるからです。
そして残った息災と調伏ですが、これは見方によって、どちらにも集約し得るものだと思います。その意味で私は、コインの裏表のような印象を受けます。実はどちらも、デメリットというものを扱っているのです。どちらも、デメリットがなくなりますように、という祈願であり、その終着点は、祈祷なんかしなくてよくなりますように、という祈願なのです。その昔、仏教の開祖であるお釈迦様が、呪術や祈祷を禁じたというのも無理のない話です。そこに終着点はない、ということを示されたのだと思います。
え?祈祷の需要がなくなってもいいのか、って?いいのです。一番最後の祈祷内容は、「もう祈祷しなくてよくなりますように」ですから。その成就は、祈祷師が祈祷の仕事をする必要さえなくなることで達成されるのです。そうなるように、渾身の力で祈祷したいと思っています。