社会学者の山岸俊男教授の「信頼の構造」に関する研究が面白い。
先生の問題意識を自分なりにまとめてみた。
まず、現代の日本は、ライフスタイルも大きく変化し価値観が転換した。それに伴い、コニュニケーションが希薄となり社会の一体感が失われた。お互いがお互いを信じられなくなり疑心暗鬼に陥っている。また、漠然とした将来への不安がある。これらが今、日本に生じている大きな問題である。
この原因について、「日本人の心の荒廃」や「モラル低下」に求め、もう一度、昔のような日本人の心を取り戻すべきとの主張がある。
しかし、すべての理由を心に求めるのは間違いである。また、道徳やモラルを教育するだけでは社会は変わらない。中国や旧ソ連は徹底的な思想教育、倫理教育をおこなったが、効果はなかった。最近の心理学や認知科学、そして脳科学の研究によれば、人間を意識的にコントロールできるのは、心の働きのほんの一部分にすぎないからだ。
では、「心の荒廃やモラルの低下」が理由でないとしたら、なぜ日本社会はこれほど揺らいでいるのか。
その理由は、社会構造が大きく変化しているためである。そして、その変化に私たちが対応できていないためである。この過渡期の混乱が主な理由である。
では、社会構造の変化とは、具体的にどういうものなのか。
それは、「安心社会」の崩壊にある。
では、「安心社会」とは何か。
具体的に、戦前、戦後すぐの農村の生活を、例にして考えてみよう。
貧しく、住民の数も少ない農村では、農作業は皆で協力しあっていた。住民は皆顔見知りで、戸締まりをしなくても泥棒に遭う心配はなかった。住民もわがままを主張せず、村全体の利益にそって動いた。
なぜ農村では鍵をかけなくても済むのだろうか。なぜ文句も言わず、協同作業に参加するのか。
その理由は、農村のような閉鎖的な社会では、悪事をすること、非協力的な態度は自分自身のマイナスになるからである。 つまり、泥棒に入ったことがばれれば、村で暮らしていけなくなるし、農作業に協力しなければ、自分の時に手伝ってもらえないからである。
ここで重要なのは、このような社会では、互いに監視し、制裁を加える仕組みが内部に組み込まれていることである。このメカニズムが社会の安心を保証しているのであって、個々のメンバーが信頼し合って社会の安心がもたらされているわけではない。社会の仕組みそのものが人々に安心を提供しているため、いちいち他人を信頼しなくていい。
このような社会を「安心社会」と呼ぶ。
このような閉鎖的な安心社会は、戦後の企業文化にもそのまま受け継がれる。
つまり、会社の成長のため、社員は残業や土日出勤もいとわず働き、その代わり、終身雇用と年功賃金といった形で恩恵をうける。
また、企業間にも同じことがいえる。取引関係ができれば、後は契約書を作る必要もないく、あうんの呼吸で取引を続けることができる。
このように、戦後の経済成長は、集団主義社会がもたらす「安心」をフル活用した結果である。
これに対して、欧米社会は他者への信頼で成り立つ「信頼社会」である。
日本人と米国人の他者に対する信頼感を調べた実験がある。
それによると、日本人は見知らぬ他者に対して、「自分のことを利用しようと考えているのではないか」「他の人々は自分のことしか考えていないのではないか」と疑心暗鬼になり、安心できるまで協力関係に入るのを避ける傾向がある。
これに対し、米国人は相手が誰だか分からない状況にあっても、他人に対する信頼感が総じて強いという結果が出た。
日本人は「人を見れば泥棒と思え」と考えているのに対し、米国人は「渡る世間に鬼はなし」と考える。
特に、日本人の他者に対する信頼感のなさは驚くはど低い。別の実験の結果によると、日本人の信頼の低さは、ソマリアやモルドバなど紛争をしている地域と変わらない。
さっきの例の農村の住民が、都会に出たらどうなるのだろうか。
農村では極端な話、「身内を信用し、外者は泥棒」と考えていればよかった。しかし、都会は開放的な社会で、身内といえる人いない。都会に順応するためには、相手が信頼できる人間なのか、頭で考える習慣をつける必要がある。誰を信頼し誰と協力行動を取るのかの人間関係を自分でつくらなくてはならない。開放的な社会であるが故に、互いの信頼関係が必要になるのである。
この十数年の動きを見ると、グローバル化が進み、国内でも地方と都会の違いがなくなってきている。閉鎖的な安心社会は崩壊し時代遅れになってきている。そして、米国のような開放的な信頼社会に移りつつある。
安心社会と信頼社会はどちらが優れているかは比較できないが、安心社会に戻るのは現実的ではない。
そこで、どのようにして信頼社会に移行していくかが、問題となる。
安心社会では他者の信頼は必要なかったが、信頼社会では知らない相手を信頼しまた自分を信頼してもらう必要がある。
日本人は社会実験の結果、「自分が相手を信頼している」というシグナルを相手に伝えることを重要と考えていない。つまり自分が信頼できる人間であると同時に、自分が相手を信頼しているということを、相手に発信することが大切とは思っていない。 だから、まず自分が正直で信頼に値する人間であることを発信していかなくてはならない。
安心社会では「正直さ」は重要ではない。閉鎖的な社会の安心は互いに監視し合うことで成立していた。正直であろうがなかろうが、和を乱す行動は取らない。それに対して、信頼社会では、その人が正直であるかどうかはとても重要な要素になる。
だから、正直に行動し、それをアピールすること。それが自分の利益になる。決して道徳やモラルを守るためではない。
たとえば、労働市場。日本企業では新卒からの終身雇用が中心であった。このように新卒から勤め続ける組織では、その人間が正直であるかどうかはそれほど重要ではない。社員がお互いに監視し合っているからである。ところが、終身雇用が壊れ、誰もが転職するような労働環境になると、正直さを身につけ、それをシグナルとして他者に発信できる人間が評価される。
ということは、よりオープンな労働市場になれば、正直者が得をする市場になる。
また、企業の不祥事は、企業や国民が信頼社会に対応できていないためである。
官僚組織や企業による不祥事が相次いで報じられた。
このような「企業の嘘」が、国民やメディアの関心を集めているのは、安心社会から信頼社会への移行がうまくできていないことと無関係ではない。
企業の不祥事を見ても分かるように、国民やメディアが不信感を持つのは企業が不祥事を隠そうとするためである。問題が起きたとしても、すぐに開示すれば、大したことはない。
しかし、不祥事を隠したことによって、違う何かを隠しているのではないか、と別の不信を呼ぶ。
だから、今のような情報開示が厳しくなった社会では、企業はまず正直になるべきである。それでも問題が生じることがある。その時はすぐに開示する。そのようにして、国民や消費者の信頼を勝ち取らなくてはならない。
隠そうとすればするほど、消費者の不信は高まり、気持ちが離れていく 。
正直に行動すること。そして、それをアピールすること。それは信頼社会で生き抜くやり方である。