フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

トリックスターの効用

2009年05月11日 18時57分23秒 | 社会・政治・思想哲学
 トリックスター とは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のことをいう。
 サザエさんでいうと、カツオみたいな子供である。
 トリックスターは、まじめな空気をくだらないイタズラによってぶち壊す。

 国家が成熟し、管理が行き届いた社会は、安全で最低限の衣食住は困らないが、変化に乏しく閉塞感が漂う。
 国家が横暴なら民衆は怒り、革命が起こるであろう。怒りは人間のパワーの源になる。
 しかし、国家が命を懸けて戦うほど横暴ではなく、マスコミに少し叩かれるとへなへなしてしまう程度のものなら、革命を起こして転覆する気にもならない。
 そうすると人は平和で安全ではあるものの、変化がないため、無気力になっていく。
 このような状態になるとトリックスターがいきてくる。このトリックスターが閉塞感を打ち破っていく。
 カツオがイタズラをすると、波平さんという権力が動揺する。その感じが、いいのである。
 波平さんが、コラーと怒る姿は、なんとなく面白い。
 
 ビートたけしのようなコメディアンでも、大御所で有名な映画監督になってしまうと、権威のかたまりになってしまう。
 そこで、たまに変なことを言ったりアホな衣装を着たりする。それは、自分自身の中にあるトリックスター的な部分を大事にしているからである。
 彼は「
赤信号皆で渡れば怖くない」と言った。
 そもそも、彼は秩序を壊してきた側の人間であり、自分が権威や秩序になることを本能的に嫌がっているのだろう。

 イタズラは遊びの中で育まれる。本来的に人を傷つけるものではない(結果的にそうなることはあっても)。
 むしろ、好意から発せられるのである。
だから、あのくそガキと言いながら、結局許してしまう。トリックスターがいたら大事にすべきである。
 彼らは、組織の閉塞感を打ち破ってくれる。まじめだけだとつまらないし、なんの進展もない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間違った文章と脳の機能

2009年05月11日 12時34分24秒 | 身体・健康・筋トレ

 こにんちは。

 きょうはてきんよもく、あたたいかですね。

 あせをたさくんかくので、さっきらか、おちゃばりかのんでます


 イギリスのケンブリッジ大学の研究。

 文字の順序が入れ替わっても、最初と最後があってれば読める。

 脳が間違ったところを修正して読む。

 その修正がよく働くこともあるし、わるく働くこともある。

 ただ、その性質を知っていること自体は悪くない。 

 どうですか、読める?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うさぎやのどらやき

2009年05月04日 14時47分15秒 | 日々の出来事・雑記


 友人の家であの有名なうさぎやのどらやきをご馳走になった。

 しっとりしてやわらかく、すごくうまかった。一個190円。

 今日、神楽坂の日高屋で390円のラーメンを試しに食べてみた。結構うまかった。
 
 どらやき2個と大体同じ値段だ。 

 
 うーん、異種のものを並べて、値段の価値をくらべてみると、いろいろ考えさせられるね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江原啓之さんに遭遇

2009年05月04日 13時46分48秒 | 日々の出来事・雑記


 神楽坂の神社で江原さんにあった。

 スタッフに撮影はご遠慮くださいといわれたが、そーっと撮った。すいません。

 左側のほうに小さく写っている。少し見えづらいかも知れない。

 クリックした人に幸せがあればいいが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安心社会から信頼社会へ

2009年05月04日 00時58分38秒 | 社会・政治・思想哲学

 社会学者の山岸俊男教授の「信頼の構造」に関する研究が面白い。
 先生の問題意識を自分なりにまとめてみた。

 まず、現代の日本は、ライフスタイルも大きく変化し価値観が転換した。それに伴い、コニュニケーションが希薄となり社会の一体感が失われた。お互いがお互いを信じられなくなり疑心暗鬼に陥っている。また、漠然とした将来への不安がある。これらが今、日本に生じている大きな問題である。
 この原因について、「日本人の心の荒廃」や「モラル低下」に求め、もう一度、昔のような日本人の心を取り戻すべきとの主張がある。
 しかし、すべての理由を心に求めるのは間違いである。また、道徳やモラルを教育するだけでは社会は変わらない。中国や旧ソ連は徹底的な思想教育、倫理教育をおこなったが、効果はなかった。最近の心理学や認知科学、そして脳科学の研究によれば、人間を意識的にコントロールできるのは、心の働きのほんの一部分にすぎないからだ。
 
 では、「心の荒廃やモラルの低下」が理由でないとしたら、なぜ日本社会はこれほど揺らいでいるのか。
 その理由は、社会構造が大きく変化しているためである。そして、その変化に私たちが対応できていないためである。この過渡期の混乱が主な理由である。
 では、社会構造の変化とは、具体的にどういうものなのか。
 それは、「安心社会」の崩壊にある。
 では、「安心社会」とは何か。
 具体的に、戦前、戦後すぐの農村の生活を、例にして考えてみよう。
 貧しく、住民の数も少ない農村では、農作業は皆で協力しあっていた。住民は皆顔見知りで、戸締まりをしなくても泥棒に遭う心配はなかった。住民もわがままを主張せず、村全体の利益にそって動いた。
 なぜ農村では鍵をかけなくても済むのだろうか。なぜ文句も言わず、協同作業に参加するのか。
 その理由は、農村のような閉鎖的な社会では、悪事をすること、非協力的な態度は自分自身のマイナスになるからである。 つまり、泥棒に入ったことがばれれば、村で暮らしていけなくなるし、農作業に協力しなければ、自分の時に手伝ってもらえないからである。
 ここで重要なのは、このような社会では、互いに監視し、制裁を加える仕組みが内部に組み込まれていることである。
このメカニズムが社会の安心を保証しているのであって、個々のメンバーが信頼し合って社会の安心がもたらされているわけではない。社会の仕組みそのものが人々に安心を提供しているため、いちいち他人を信頼しなくていい。
 このような社会を「安心社会」と呼ぶ。 
このような閉鎖的な安心社会は、戦後の企業文化にもそのまま受け継がれる。
 つまり、会社の成長のため、社員は残業や土日出勤もいとわず働き、その代わり、終身雇用と年功賃金といった形で恩恵をうける。 
 また、企業間にも同じことがいえる。取引関係ができれば、後は契約書を作る必要もないく、あうんの呼吸で取引を続けることができる。
 このように、戦後の経済成長は、集団主義社会がもたらす「安心」をフル活用した結果である。

 これに対して、欧米社会は他者への信頼で成り立つ「信頼社会」である。
 日本人
と米国人の他者に対する信頼感を調べた実験がある。
 それによると、
日本人は見知らぬ他者に対して、「自分のことを利用しようと考えているのではないか」「他の人々は自分のことしか考えていないのではないか」と疑心暗鬼になり、安心できるまで協力関係に入るのを避ける傾向がある。
 これに対し
、米国人は相手が誰だか分からない状況にあっても、他人に対する信頼感が総じて強いという結果が出た。
 日本人は「人を見れば泥棒と思え」と考えているのに対し、米国人は「渡る世間に鬼はなし」と考える。
  
特に、日本人の他者に対する信頼感のなさは驚くはど低い。別の実験の結果によると、日本人の信頼の低さは、ソマリアやモルドバなど紛争をしている地域と変わらない。

 さっきの例の農村の住民が、都会に出たらどうなるのだろうか。
 農村では極端な話、「身内を信用し、外者は泥棒」と考えていればよかった。しかし、都会は開放的な社会で、身内といえる人いない。都会に順応するためには、相手が信頼できる人間なのか、頭で考える習慣をつける必要がある。誰を信頼し誰と協力行動を取るのかの人間関係を自分でつくらなくてはならない。開放的な社会であるが故に、互いの信頼関係が必要になるのである。

 この十数年の動きを見ると、グローバル化が進み、国内でも地方と都会の違いがなくなってきている。閉鎖的な安心社会は崩壊し時代遅れになってきている。そして、米国のような開放的な信頼社会に移りつつある。
 安心社会と信頼社会はどちらが優れているかは比較できないが、安心社会に戻るのは現実的ではない。
 
 そこで、どのようにして信頼社会に移行していくかが、問題となる。 
 安心社会では他者の信頼は必要なかったが、信頼社会では知らない相手を信頼しまた自分を信頼してもらう必要がある。
 日本人は社会実験の結果、「自分が相手を信頼している」というシグナルを相手に伝えることを重要と考えていない。つまり自分が信頼できる人間であると同時に、自分が相手を信頼しているということを、相手に発信することが大切とは思っていない。 だから、まず自分が正直で信頼に値する人間であることを発信していかなくてはならない。
 安心社会では「正直さ」は重要ではない。閉鎖的な社会の安心は互いに監視し合うことで成立していた。正直であろうがなかろうが、和を乱す行動は取らない。それに対して、信頼社会では、その人が正直であるかどうかはとても重要な要素になる。
 だから、正直に行動し、それをアピールすること。それが自分の利益になる。決して道徳やモラルを守るためではない。

 
 たとえば、
労働市場。日本企業では新卒からの終身雇用が中心であった。このように新卒から勤め続ける組織では、その人間が正直であるかどうかはそれほど重要ではない。社員がお互いに監視し合っているからである。ところが、終身雇用が壊れ、誰もが転職するような労働環境になると、正直さを身につけ、それをシグナルとして他者に発信できる人間が評価される。
 ということは、よりオープンな労働市場になれば、正直者が得をする市場になる。

 また、企業の不祥事は、企業や国民が信頼社会に対応できていないためである。
 官僚組織や企業による不祥事が相次いで報じられた。
 このような「企業の嘘」が、国民やメディアの関心を集めているのは、安心社会から信頼社会への移行がうまくできていないことと無関係ではない。 

  企業の不祥事を見ても分かるように、国民やメディアが不信感を持つのは企業が不祥事を隠そうとするためである。問題が起きたとしても、すぐに開示すれば、大したことはない。
 しかし、不祥事を隠したことによって、違う何かを隠しているのではないか、と別の不信を呼ぶ。
 だから、今のような情報開示が厳しくなった社会では、企業はまず正直になるべきである。それでも問題が生じることがある。その時はすぐに開示する。そのようにして、国民や消費者の信頼を勝ち取らなくてはならない。
 隠そうとすればするほど、消費者の不信は高まり、気持ちが離れていく 。
 
 正直に行動すること。そして、それをアピールすること。それは信頼社会で生き抜くやり方である。 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗い飲み会

2009年05月03日 17時38分57秒 | 日々の出来事・雑記

 古い友人知人に飲みに誘われた。
 基本的に飲みに誘われてもやんわり断る。
 酒があんまり好きじゃないからだ。しらふの方がきちんをしゃべれるし、だらだらと食事するのも好きではない。
 よく酒がないと話できないという人がいるが、私は逆に酒を飲むと話ができなくなるタイプだ。だから、わたしにアルコールはいらない。

 
 だが、今回は、久しぶりに広島から友人が来るということなので、行くことにした。

 懐かしい人が何人かいた。話し自体は盛り上がったと思う。
 ただ、内容は暗い感じだった。その暗さについて話そうと思う。

 まず、会社の悪口が多い。労働時間が長く不満があるのだが、かといって辞めることもできない。そこで、悪口を言って憂さ晴らしをする。
 あと、不安である。不安からくる苛立ち。経済的なこと、体が弱くなってきたこと、家族との不和など。

 この暗い感じに負けそうになるが、私は元気いっぱいで活力があるので、そう簡単には負けない。
 私に言わせれば、労働時間が長いという点を除いては、幸せを感じてもいいくらいなのに、元気がない。
 よほど会社に精力を奪われているのだろう。 

 日本のサラリーマンは欧米人にくらべ会社がきらいだそうだ。そして、今の会社に入ったことを後悔している人が多い。
 
 その原因のひとつに、日本は労働の流動性が乏しく、会社をやめて転職することがむずかしいからだ。

 だけど、会社や誰かの悪口をばかりいっても何も変わらない。
 
 どうすれば一人一人がハッピーになれるかを、自分自身で真剣に考えないといけないだろう。
 
 最近話題になっているベーシックインカムを導入し、生活の最低限を保障することで、会社に依存しない生き方ができるようにすることも、ひとつの方法ではないだろうか。

 いろいろ考えさせられる飲み会だった。 

 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京ミッドタウン

2009年05月02日 13時39分12秒 | 日々の出来事・雑記

 青山通りを渋谷方面に向かっていって、表参道を原宿方面じゃなくて左に曲がった。

 その辺ですこし迷子になってしまった。

 青山霊園を突き抜けてると、きれいな公園があった。

 檜町公園で、その近くにビルが東京ミッドタウンだった。

 別に東京ミッドタウンに行く予定はなかったのだが、中に入っていろいろのぞいて見た。
 
 なかなかおしゃれだ。ちょっと時間が遅かったから店は半分くらい閉まっていた。それでも、楽しかった。

 
 ウィンドウショッピングも意外と楽しいし勉強になる。

 たとえば、人気のあるブランドには、明確なコンセプトがある。

 シンプルとか非日常とか伝統とかいろいろ。

 写真は、東京ミッドタウンから撮った東京タワー。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善悪の彼岸

2009年05月01日 01時28分22秒 | 社会・政治・思想哲学

 妻のことだって愛してる。本当に愛しているんです。今でも。

 でもアメに最初に会った時、彼女にどうしようもなく引き寄せられたんです。渦のようにです。抵抗のしようもなかったんです。

 僕には分かったんです。これは一生に一度のことなんだって。

 で僕は思いました。この人と一緒になったらたぶん僕はいつか後悔することになるだろう。

 でも一緒にならなかったら、僕の存在そのものが意味を失うことになるって。

 ダンスダンスダンス 村上春樹

 

 この小説のように自分の存在が脅かされるほどの激しい感情を経験したことがあるだろうか。
 
 と、自分自身に問うてみれば、ここまで激しいのは、あったような気もするし、ないような気もする。
 
 ただ、このような感じはよくわかる。

 石田純一が「不倫は文化だ」といってブーイングを受けていたことがあった。彼の名誉のために、それを意訳してみると、こういうことだろう。
 
 社会的にいろいろな立場の人間がいて、道徳的に恋愛するのが不適切な場合がある。にもかかわらず恋愛に落ちるのが人間であって、その時の葛藤や苦悩が文学、演劇、映画(文化)を生み出すのだ。別に不倫を肯定しているわけではない。
 どうしようもなく恋に落ちてしまうのだ。

 「愛から為されることは、常に善悪の彼岸で起こる」とニーチェは言った。

 美しい言葉だ。

 ニーチェは道徳を激しく攻撃する。

 ただしい道徳は、生命の躍動感を失わせるからだ。
 
 人間が道義的に反することをするのは、愛から為されるときが一番多い。
 
 もちろん、ここにいう愛は恋愛のみならず家族愛、友情も含む。

 
 父親は自分の娘が襲われそうになっていたら、その暴漢を殴りつけるだろう。
 
 そのときのその行為は善悪を超越している。

 愛情は私たちを善悪の彼岸まで連れて行く。


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする