「フードインク」とは、食品会社のこと。アメリカの巨大食品会社にかんするドキュメント映画のDVDを、たまたま見つけて借りてきました。
アメリカの食品会社の規模はすごい! たとえば精肉会社。日本に、どれくらいの規模でどれくらいの数があるのか知らないけれど、アメリカではほんのいくつかの会社がすっかり牛耳を取っているらしい。種苗会社そのほかいろんなジャンルの食品会社が、それぞれ実はほんの片手で数えられる数しかなく、そしてどれも、ものすごく大きな会社に成長しているようなのです。
わずかな数の会社しかないとなると、当然競争は減ります。競争が減れば、中身の質は会社の思うとおりのものになります。そういうことを取材し、実態を教えてくれる映画でした。
おおよその想像はついていたことなのですが、実際に具体的な映像や数値を見せられたので、けっこうな衝撃を覚えました。
たとえば、アメリカでは、ハンバーガーを食べて食中毒が起きる事件が最近続発しているらしいのですが、精肉工場が不衛生だからおきるのではなく、牛の餌の大半がトウモロコシになったせいで大腸菌が急増したためにおきるというのです。
もともと牛は草を食べる動物です。彼らの体にトウモロコシは栄養がありすぎるのでしょう。単純に考えると、栄養過多。でも、トウモロコシで育てた牛に、トウモロコシの飼料を与えるのを抑えて牧草だけ食べさせると、牛の体から大腸菌が80%も消えるのだそう。
そういうことがわかっていても、報道はいっさいせず、それどころか食中毒事件がおきても、当の会社は肉を何週間も回収せず、同じ事件を起こしているのだそうです。
栄養を過剰に摂取させれば病気には弱くなるけれど、体は大きくなってたくさんの肉が取れます。だからやめない。遺伝子組み換えトウモロコシのほうが、値段も安くて、放牧してのんびり草を食ませたり、牧草飼料を与えたりするよりずっと効率よく太らせることができるのでしょう。
ぎゅうづめの鶏舎で飼われているニワトリが、ちょっと立ったとたん、足が折れ、倒れる映像も見ました。でも、足の踏み場のないほどの鶏舎なので、倒れたニワトリは放置されたまま他のニワトリに踏みつけにされ、人間に発見されると、専用のゴミ箱に投げ捨てられます。
やわらかい胸肉をたくさんとるため、胸だけ大きくなる薬を投与し、短期間で急成長させ、従来の発育日数と同じ期間の間に、ほぼ2倍の大きさにしています。だからいっそう足は、大きな体を支えられず、立てないのです。その大きな鶏がベルトコンベアで運ばれてきて、端からどんどん吊るされ、簡単に首を切られ、ただの機械の部品のように扱われている様子には、胸が詰まりました。
牛肉のの様子も悲惨でした。そこでは、一般の工場労働者とまったく同じように、吊り下げられた牛を部位ごと切り分ける人たちがいて、終日まったく同じ仕事をし続けていました。
彼らの多くは中南米からやってきた不法滞在者で、会社は安く使える彼らを積極的に採用するくせに、年に一回ほど、警察と結託して、それまで自分の会社で働いていた不法滞在者の存在を通報し、逮捕に協力するのだといいます。
さらに驚くべきことに、アメリカでは、巨大食品会社の役員クラスの人が、司法省や農務省、果ては、食品や薬品の安全性に関わる法律を作る権限を持っているFDAの上層部に入り込んでいるのです。これなら、会社に都合のよいような国の方針を作り、都合の悪いことをする人たちや団体を法律で規制するのも簡単な仕事です。
全員が極度の肥満の、アメリカンネイティブか南米の移民らしい一家は、「ブロッコリー1個より、ハンバーガー2個買うほうが安いから」という理由で、ほとんど毎食ファーストフードですませています。一家の主人が糖尿病とわかっても、食餌療法するお金は捻出できず、結局高い薬を飲みながら、ファーストフードに依存する生活を続けていました。
こうした悲惨な映像が続く一方、昔ながらの循環農業を実践している農場主も登場しました。
ハーブと草が自生する彼の農場では、牛はのんびり草を食んでいます。ニワトリも、殺されるまでは元気に飛び回っているし、豚などは始終あちこちの土を掘り返していました。彼らの糞が農場の土を肥えさせるのは当然ですが、豚が掘り返すことで空気が入り、よりいい土になるのだそう。詳しいことは忘れましたが、彼らと人間がともに暮らす様子は、つくづく気持ちの和むものでした。とくに、精肉工場の殺伐とした光景を見たあとは。
このすばらしい農園の持ち主が、こんなことを言っていました。
「いまや、牧場でも鶏舎でも精肉工場でも、豚や牛やニワトリをモノとしてしか見なくなっている。家畜をモノとしてしか見ていない人たちは、いつしか、人間をもモノとして侮蔑した目でしか見なくなると思う。そうなると以前とは異なる文化に変わってしまう」
映画の後半で、身動きできない狭い場所に入れられて、四六時中食べることばかりさせられている豚の顔が、大写しになっていました。目はとろんとし、疲れたという顔でもなく、ただぼんやりして考えることをすっかりやめてしまった顔でした。一方、先の農場にいた放し飼いの豚は、始終餌を探したり、土を掘り返す楽しさに没頭したりしているらしく、顔も体も引き締まり、生き生きした表情を見せていました。
このブログを書きながら、昔見たイタリア映画「木靴の木」を思いだしました。20世紀初頭の、貧しい村の人たちの生活が描かれている作品なのですが、とくに興味ぶかかったのは、彼らが、自分たちの育てた家畜を殺したあとも丁寧に扱い、一滴の血も余さず利用していることでした。
肉食文化に育った人たちは家畜の扱いを心得ていて、彼らの生命を断ち切った分、きちんと責任を取って始末をつけているように思えました。ほんの何十年か前まで、家畜の内臓を「ほうるもん(捨てるもの)」としか思わなかった日本人には、やはり肉を食べる文化が育っていないのだな、と痛感したことでした。
でもこのヨーロッパの伝統は、いまの、少なくともアメリカには受け継がれていないようです。この先、どこまでこうした偏頗な文化が続くのだろうか、とおもうと背筋が寒くなります。この映画を見たあとしばらくの間、スーパーでアメリカ産の豚肉や牛肉を見ると、胸がむかむかするのを感じました。
アメリカの食品会社の規模はすごい! たとえば精肉会社。日本に、どれくらいの規模でどれくらいの数があるのか知らないけれど、アメリカではほんのいくつかの会社がすっかり牛耳を取っているらしい。種苗会社そのほかいろんなジャンルの食品会社が、それぞれ実はほんの片手で数えられる数しかなく、そしてどれも、ものすごく大きな会社に成長しているようなのです。
わずかな数の会社しかないとなると、当然競争は減ります。競争が減れば、中身の質は会社の思うとおりのものになります。そういうことを取材し、実態を教えてくれる映画でした。
おおよその想像はついていたことなのですが、実際に具体的な映像や数値を見せられたので、けっこうな衝撃を覚えました。
たとえば、アメリカでは、ハンバーガーを食べて食中毒が起きる事件が最近続発しているらしいのですが、精肉工場が不衛生だからおきるのではなく、牛の餌の大半がトウモロコシになったせいで大腸菌が急増したためにおきるというのです。
もともと牛は草を食べる動物です。彼らの体にトウモロコシは栄養がありすぎるのでしょう。単純に考えると、栄養過多。でも、トウモロコシで育てた牛に、トウモロコシの飼料を与えるのを抑えて牧草だけ食べさせると、牛の体から大腸菌が80%も消えるのだそう。
そういうことがわかっていても、報道はいっさいせず、それどころか食中毒事件がおきても、当の会社は肉を何週間も回収せず、同じ事件を起こしているのだそうです。
栄養を過剰に摂取させれば病気には弱くなるけれど、体は大きくなってたくさんの肉が取れます。だからやめない。遺伝子組み換えトウモロコシのほうが、値段も安くて、放牧してのんびり草を食ませたり、牧草飼料を与えたりするよりずっと効率よく太らせることができるのでしょう。
ぎゅうづめの鶏舎で飼われているニワトリが、ちょっと立ったとたん、足が折れ、倒れる映像も見ました。でも、足の踏み場のないほどの鶏舎なので、倒れたニワトリは放置されたまま他のニワトリに踏みつけにされ、人間に発見されると、専用のゴミ箱に投げ捨てられます。
やわらかい胸肉をたくさんとるため、胸だけ大きくなる薬を投与し、短期間で急成長させ、従来の発育日数と同じ期間の間に、ほぼ2倍の大きさにしています。だからいっそう足は、大きな体を支えられず、立てないのです。その大きな鶏がベルトコンベアで運ばれてきて、端からどんどん吊るされ、簡単に首を切られ、ただの機械の部品のように扱われている様子には、胸が詰まりました。
牛肉のの様子も悲惨でした。そこでは、一般の工場労働者とまったく同じように、吊り下げられた牛を部位ごと切り分ける人たちがいて、終日まったく同じ仕事をし続けていました。
彼らの多くは中南米からやってきた不法滞在者で、会社は安く使える彼らを積極的に採用するくせに、年に一回ほど、警察と結託して、それまで自分の会社で働いていた不法滞在者の存在を通報し、逮捕に協力するのだといいます。
さらに驚くべきことに、アメリカでは、巨大食品会社の役員クラスの人が、司法省や農務省、果ては、食品や薬品の安全性に関わる法律を作る権限を持っているFDAの上層部に入り込んでいるのです。これなら、会社に都合のよいような国の方針を作り、都合の悪いことをする人たちや団体を法律で規制するのも簡単な仕事です。
全員が極度の肥満の、アメリカンネイティブか南米の移民らしい一家は、「ブロッコリー1個より、ハンバーガー2個買うほうが安いから」という理由で、ほとんど毎食ファーストフードですませています。一家の主人が糖尿病とわかっても、食餌療法するお金は捻出できず、結局高い薬を飲みながら、ファーストフードに依存する生活を続けていました。
こうした悲惨な映像が続く一方、昔ながらの循環農業を実践している農場主も登場しました。
ハーブと草が自生する彼の農場では、牛はのんびり草を食んでいます。ニワトリも、殺されるまでは元気に飛び回っているし、豚などは始終あちこちの土を掘り返していました。彼らの糞が農場の土を肥えさせるのは当然ですが、豚が掘り返すことで空気が入り、よりいい土になるのだそう。詳しいことは忘れましたが、彼らと人間がともに暮らす様子は、つくづく気持ちの和むものでした。とくに、精肉工場の殺伐とした光景を見たあとは。
このすばらしい農園の持ち主が、こんなことを言っていました。
「いまや、牧場でも鶏舎でも精肉工場でも、豚や牛やニワトリをモノとしてしか見なくなっている。家畜をモノとしてしか見ていない人たちは、いつしか、人間をもモノとして侮蔑した目でしか見なくなると思う。そうなると以前とは異なる文化に変わってしまう」
映画の後半で、身動きできない狭い場所に入れられて、四六時中食べることばかりさせられている豚の顔が、大写しになっていました。目はとろんとし、疲れたという顔でもなく、ただぼんやりして考えることをすっかりやめてしまった顔でした。一方、先の農場にいた放し飼いの豚は、始終餌を探したり、土を掘り返す楽しさに没頭したりしているらしく、顔も体も引き締まり、生き生きした表情を見せていました。
このブログを書きながら、昔見たイタリア映画「木靴の木」を思いだしました。20世紀初頭の、貧しい村の人たちの生活が描かれている作品なのですが、とくに興味ぶかかったのは、彼らが、自分たちの育てた家畜を殺したあとも丁寧に扱い、一滴の血も余さず利用していることでした。
肉食文化に育った人たちは家畜の扱いを心得ていて、彼らの生命を断ち切った分、きちんと責任を取って始末をつけているように思えました。ほんの何十年か前まで、家畜の内臓を「ほうるもん(捨てるもの)」としか思わなかった日本人には、やはり肉を食べる文化が育っていないのだな、と痛感したことでした。
でもこのヨーロッパの伝統は、いまの、少なくともアメリカには受け継がれていないようです。この先、どこまでこうした偏頗な文化が続くのだろうか、とおもうと背筋が寒くなります。この映画を見たあとしばらくの間、スーパーでアメリカ産の豚肉や牛肉を見ると、胸がむかむかするのを感じました。