まっさらな心を思い出して
「ゆうちゃん、生理がこないの」
遥は蒼ざめた顔をしていた。夕飯の洗い物を終えたばかりの濡れた手をエプロンでぬぐう。
「どれくらい遅れてるの?」
「十日くらいかな。もうとっくにきてもいいはずなのに」
「ちょっと調べてみようか」
僕は、薬箱から妊娠検査薬キットを出した。
遥の生理が遅れたことは、前にも何度かあった。さすがに初めての時はあせったけど、もう慣れてしまった。安全日以外はきちんとコンドームをつけていたから、それほど心配することでもないだろう。女の子の体はデリケートだから、いつも周期ごとにくるとは限らない。遥は、キットを手にしたまましょんぼりとちゃぶ台の前に坐った。つけっぱなしのテレビのニュースは、失業率がまた上がったと伝えていた。
「三分経ったね。貸してごらん」
僕は検査薬キットを遥の手から取った。妊娠を示すラインは浮かんでいない。
「陰性だよ」
「ほんとうかしら?」
遥は眉の端をひっそりさせ、不安げに首を傾げる。
「説明書には念のために病院で検査してくださいって書いてあるけど、キットは九十九パーセントの確率で正確らしいから、大丈夫だよ思うよ。もし何日かしてまだ始まらなかったら、いっしょに病院へ行こうよ」
早くくるものがきて、遥が安心してくれないかと願ったけど、三日経っても遥の生理はこなかった。僕たちは近所の産婦人科の開業医へ行った。
古ぼけた診療所の待合室は満員だった。壁沿いに四つ並んだ黒いビニール張りの長椅子がすべて埋まっている。臨月間近の大きなお腹をした妊婦もいれば、ひどくやつれた顔をした中年の女性もいた。薬の臭いに混じってむせるような生温かい匂いがする。鼓動し始めたばかりの命の匂いなのだろうか。明治や大正の頃からあるようなアンティークな柱時計が壁際に据えてあって、時間になると鐘を鳴らし、くりっとした目の愛らしい鳩が飛び出してさえずった。
「どうしてくれるのよ。あんたのせいじゃん」
突然、若い女の甲高い声が静かな待合室に響く。向かいの長椅子に坐っていた僕たちと同い年くらいのカップルは、二人ともひどく不機嫌そうだ。彼氏をなじった女の子は唇を尖らす。怒っているせいかもしれないけど、整った顔立ちがかえって擦り切れた冷たさを感じさせた。
「知るかよ。ほかの男の子供じゃねえのか」
肩まで髪を伸ばした男はぶっきら棒にそっぽを向き、腕を組んで貧乏ゆすりした。
「浮気してるのはあんたでしょ」
女は声を押し殺す。
「よく言うよ。だったら訊くけどさ、ブログに書いてたことはなんなんだよ」
「だから、あれはあんたが温泉へ連れてってくれるって言ってたのに、ほかの女と行っちゃうから腹いせに書いただけだよ」
「女とふたりで行ったんじゃねえよ。キー坊とキー坊の彼女と、彼女の後輩と四人で行ったんだよ」
「彼女の後輩って女でしょ。それってダブルデートじゃん。布団のなかでなにをしたのさ。まさか四人でってことはないでしょうね」
「だからちげーよ。ただのお友達。指一本触れてません」
「大嘘つき。なんであたしを連れてってくれなかったんだよ」
「お前は、あそこは嫌だ、ここは嫌だって、こだわりすぎなんだよ。うるさいじゃん。めんどくさいから、キー坊とさっさと行くことにしただけだよ。お前の言うことを聞いてたら、どこへも行けないもん」
「お金出すんだから、ちゃんとしたところを選ぶのは当たり前でしょ」
「当たり前だけどさ、お前は文句が多すぎるんだよ」
男は投げやりだ。
「手術代はあんたが出すんだからね」
女は彼氏を肘でつついた。
「なんで俺が出さなきゃいけねえんだよ。お前がぼけっとしてるから、こんなことになったんだろ」
「楽しんだのはあんたじゃん。エッチさせてあげたぶん、お金を払ってほしいくらいだよ。今までのもまとめて全部ね」
「よがってたのは誰なんだよ。お前が人のことも考えないでしめつけすぎるから、こんなことになったんだろ」
二人の声はだんだん大きくなる。診察室から飛び出してきた看護婦が注意して、いったんは喧嘩もやんだのだけど、またしばらくして始まった。要するに、お金の問題だった。自分は損したくないと言い張って押し問答を繰り返している。耳障りだから、遥といっしょに庭へ出た。
外は小春日和のいい天気。風もあたたかい。ふたりは枯れかけた藤棚のしたのベンチに腰をおろした。雀が舞い降り、つつじの植え込みの陰で地面をつつきながら餌をあさっている。
若い母親が自転車を押しながら入ってきた。前の子供椅子に幼稚園の帽子を被った小さな男の子が乗っていて、楽しそうに腕を振り回して独り遊びをしている。大人には見えないアニメのキャラクターと戦っているようだ。庭の片隅の自転車置場にママチャリをとめた若い母親は楽しげな子供を睨み、きっと目をすえた。
「早く降りなさい。なにしてんのよ。ぐずぐずして」
いきり立った彼女は怒鳴りつけ、男の子の頭を手ひどくひっぱたく。男の子は火がついたように泣き始めた。若い母親は自分の子供にまた罵声を浴びせ、なにがそんなに腹立たしいのか、乱暴に抱えて子供椅子からひきずりおろした。男の子はどうしてよいのかわからず、泣き叫びながら同じところをぐるぐる走り回る。
「自転車の子供椅子から、自分ひとりで降りられるはずがないよね。降ろしてあげなかったらどうしようもないのに」
僕は、診療所のドアを開ける若い母親の姿を目で追った。
「死んだ愛が心のなかで腐っているんだわ」
遥は静かにつぶやく。
「最近、あっちこっちでヒステリックなお母さんを見かけるけど、貯金箱を壊すみたいに子供を叩くから怖いよね。僕が子供の頃だってみんなひっぱかたれていたけど、今のお母さんはなんか違うんだよな。愛情がない怒りかたって感じがする」
僕は自分の母親を思い出しながら言った。僕の小さい頃は、まだ愛情のある叱りかたをしていた。だけど、中学になってからはただヒステリックなだけになった。どうも世の中全体がどんどんヒステリックになっていくようだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「愛情がないのは、そのぶん欲望がふくれてるからなのよ」
「どういうこと?」
「愛情が大きくなったら、欲望はしぼんじゃうの。逆に、欲望がおおきくなったら、愛情はしぼんじゃうのよ」
「そうして、しぼんだ愛情が心のなかで死んで、心を蝕んでしまうんだね。最善の堕落は最悪、か。――ストレス社会だから、ヒステリックになるっていう人もいるけど」
「ストレスのもとは欲望よ」
「たしかにそうだね。欲しいものを手に入れるためにがまんしたり、逆に、欲しいものが手に入らないからいらいらしたりするわけだからね」
「世の中が世知辛いからってみんな言い訳するけど、わたしはそうじゃないと思う。欲望に流されるからそうなるのよ。欲望に従うことが当たり前だと思って、大切なことを見ないからよ。自分のわがままでいろんなことをだめにしておいて、それから言い訳するの。わたしのせいじゃない、わがままに生きたいだけだって。欲得ずくでなにがいけないの、みんなそうしているじゃないって」
遥はそう言って押し黙り、胸の内の不安と欲望と格闘するように眼を閉じる。
「ねえ、もし赤ちゃんができていたらどうする?」
遥の声はすこしばかり震えていた。
「決まってるだろ。いっしょに育てようよ。僕は仕事を探しに行く。最初は大変かもしれないけど、そのうち慣れるよ。遥は学校を続けなよ」
「ゆうちゃんはやめるの」
「そりゃ、稼がないといけないからね」
「だめよ、浪人までして入った大学じゃない。もったいないもの。わたしが学校をやめて働く。わたしひとりで育てるわ。それとも、堕ろそうかしら」
「ばかなことを言うなよ。僕たちの子供じゃないか。殺してどうするんだよ。一生後悔するよ」
僕は、遥が堕そうかと言うのを聞いてどきりとしてしまった。絶対にそんなことはさせられない。赤ちゃんがかわいそうというだけじゃない。もし堕胎なんかしたら、遥のことだから一生罪悪感に悩まされるのは目に見えている。不幸になるだけだ。
「もしできていたら、きちんと育てようよ。いいね?」
僕は駄目を押すように強く言った。
「わたしが子供を産んでもいいのかしら?」
遥は自信なさそうに顔を伏せ、軽く首を振って頰にかかった髪を払った。
「どうして?」
「そんな資格があるのかなって思ってしまうの」
「遥なら、きっといいお母さんになれるよ」
「家庭の味も知らないのに? さっきのお母さんみたいになってしまうかも」
「つらい家に生まれたから、自分の家族を大切にできるんだよ。たぶん、なんの問題もなく普通に育った人は、自分が家庭を壊すようなことをしても気づかないんだと思う」
「――わたしは怖いわ。自分の心のなかにどうしようもないものがあるの。それが動き出したら、とめられないかもしれない」
「それを知っているから、いいお母さんになれるんじゃないのかな。誰にでも、得体の知れないものが心の奥にあるんだよ。魔物が棲《す》んでいるっていえばいいのかな。――それに気づいている人はごくわずかだよね。わかっていたら気をつけることもできるけど、わかっていなかったら、心の闇にいいようにされてしまうだけになるんだよ。たぶん、僕の親も、遥の家族もそうだったんだと思う。でも、大丈夫。遥はそんなふうにはならないよ」
「そうだといいんだけど」
「もしそうなりかけたら、ふたりできちんと話をしようよ。僕がとめてあげる」
「ごめんね。わかっているのよ。いまでもじゅうぶん、わたしはしあわせなのよね。いつでもゆうちゃんがそばにいてくれるし。ゆうちゃんはいつでもわたしを受け容れてくれるんだもの。自分を受け容れてくれる人に出会える人はさいわいよ」
「遥だって、僕を受け容れてくれているんだよ」
看護婦が遥の名前を呼んだ。僕は遥の手を牽いていっしょに診察室へ入った。
検査の結果、遥は妊娠していないことがわかった。老医師の見立てはストレスのせいだろうとのことだった。ストレスを溜めこんで生理不順になる女性が増え続けているらしい。医師の説明を遥のそばで聞いていて、遥の葛藤は僕が考えている以上にすさまじいものだと思い知らされた。
「気を楽にしなさい」
老医師は微笑みを浮かべ、肩をほぐす仕草をしながら言ってくれたのだけど、遥は浮かない顔のままだ。
「お嬢さん、生きることは悩むことですよ。私はこの歳になっても、まだ悩み続けている。棺桶に片足をつっこんでいるのだから、もうそろそろ、いつお迎えがきてもいいように心の準備をしておかないといけない歳なのにね。若いあなたがいろいろ悩むのもむりはない」
厳しく優しく澄んだ瞳をした老人は、冗談めかして言った。遥は膝のうえでぎゅっと拳を握る。まぶたが怯えたように打ち震えた。
「あなたがたもお忙しいかもしれないが、すこしだけ話をさせてください」
老医師は笑顔をやめ、ふっと真顔になった。
「私が高校生だった頃、もう半世紀以上前のことですが、身重の姉が崖から海へ身を投げてしまいました。自殺する二日前、思いつめた顔をした姉が私と話したそうにしていたのですが、受験のことで頭がいっぱいだった私は冷たくあしらってしまいました。そのことが、今でも心の底に重く沈んでいます。あの時、きちんと話を聞いてあげれば、あるいはあんなことにはならなかったのではないかと思うと、悔やんでも悔やみきれません。姉と姉の子の死がきっかけになって、私はこの道を選びました。
産婦人科医になってから、これまで数万人の赤ん坊を取り上げました。どの赤子もまっさきにすることは、泣くことです。人は、泣きながらこの世に生をうけます。医学的には泣かなければ呼吸できないわけですが、ひょっとしたら、赤子にとって誕生は死なのではないかと思わないでもありません。それまで母親の子宮のなかでゆったりと羊水に漂って楽しく過ごしていたのに、抵抗できない力でいきなり見ず知らずの外界へ引きずり出されるわけですから、見方を変えれば恐ろしい死なのかもしれません。死というのが言い過ぎなら、エデンの園を追放されて荒野へ出たアダムとイブのようなものでしょうか。
とはいえ、赤ん坊はすぐにこの世界に順応します。それどころか、好奇心に胸を弾ませて毎日わくわく過ごします。ありがたいことに、私の取り上げた赤子を連れて挨拶しにこられるお母さんがおられますが、彼女たちの幸せそうな姿を見るのが、いちばん楽しい。生きていてよかったと思える瞬間です。赤ん坊はつぶらな瞳を輝かせながら、笑って、泣いて、はしゃいで、むずかって、心を全開にして生きています。それは、あなたにもかつてあったことなのですよ。
赤子の時の記憶を思い出すことはできませんが、一度、想像してみてはどうでしょうか。なんでも不思議がって、なんでも面白がっていた赤子の時代を。まっさらな心で思いっきり生きていた時のことを。
あなたがなにをそんなに悩んでいるのか、私にはわかりませんが、悩み事はリュックのようなものだとお思いなさい。それを担いで歩くのが人生です。肩が痛くなったら、歩くのをやめて、そのリュックをかたわらにおろして休憩なさい。太陽の光を浴びて、草の匂いをかいで、なにもない青空のようなまっさらな心を思い出したら、またそのリュックを担いで行きなさい。私の言いたいことはこれだけです」
老医師は、やさしいまなざしを遥へ注ぐ。
「はい」
遥は小さくうなずいた。遥の瞳にはいくぶん輝きが戻っている。僕はほっと息をついた。
「大切なのはまっさらな心です。悩むのもほどほどにして、気を楽になさい」
老医師は目尻に笑い皺を作り、ゆっくり両肩を回す。僕たちはお礼を言って診察室を出た。
駅前まで行って、スーパーへ寄った。
「いいお医者さんだったね」
僕は、しいたけのパックを籠に入れながら言った。
「そうね。わたしもまっさらな心で生きていた時があったのよね。それから、誰にでもいろいろあって、みんなリュックを担いでいるのね」
遥は普段と同じ表情で白葱を見比べている。僕は、張りこんですき焼きの材料を買った。おいしいものを食べて、もっと元気になって欲しかった。
緊張がほどけたせいか、その晩から遥の月経が始まった。用意周到な遥が珍しく生理用ナプキンを切らしていたから、僕はあわててコンビニへ買いに行った。コンビニ袋に入れたナプキンをぶらさげて走りながら、子供ができたらどうなるのだろうと考えた。今度は、紙おむつを買いにコンビニへ走ることになるのだろうか。それも悪くない。むしろ、待ち遠しい気がする。秋の夜風が快い。
あと二年半で卒業だ。
とにかく、内定だけは取れるようにがんばろう。
仕事さえ決まれば、僕たちの未来は開ける。
ふたりでしっかり生きていこう。
僕たちが欲しくてもどうしても得られなかったもの――倖せな家庭を築こう。
将来のふたりの姿を想い描いて、三人になった家庭を空想して、僕はどきどきしながらワンルームマンションの階段を一段飛ばしに駆け上った。
だけど、息を切らせてドアの前に立った僕は、突然、頭のてっぺんからつまさきまで鳥肌が立つのを覚えた。なにかに摑まれたように心臓がぎゅっと締まる。嫌な予感がして、胸騒ぎがどうにもとまらない。僕は急いで鍵を開けた。
冷たい部屋にくぐもったうめき声が響いている。遥の姿は見当たらない。ユニットバスの扉が開いて、明かりがもれていた。
「どうしたの?」
遥は、ユニットバスの便器にかがみこんで吐いていた。プラスチックの床には血が流れ、なんともいえない臭いがこもっている。僕は換気扇のスイッチを入れ、遥の背中をさすった。
「遥、大丈夫?」
そう呼びかけても、顔をしかめた遥は苦しそうに首を振るのが精一杯だった。
せっかく、すこしは元気を取り戻してくれたものだと思っていたのに。
今晩のすき焼きだって、おいしそうに食べてくれていたのに。
遥の顔からすっかり血の気が引いている。遥は、激しい嘔吐を繰り返す。
走りながら想い描いていたふたりの未来図が音を立てて崩れるようで、僕は薄暗い不安に駆られた。
「ゆうちゃん、生理がこないの」
遥は蒼ざめた顔をしていた。夕飯の洗い物を終えたばかりの濡れた手をエプロンでぬぐう。
「どれくらい遅れてるの?」
「十日くらいかな。もうとっくにきてもいいはずなのに」
「ちょっと調べてみようか」
僕は、薬箱から妊娠検査薬キットを出した。
遥の生理が遅れたことは、前にも何度かあった。さすがに初めての時はあせったけど、もう慣れてしまった。安全日以外はきちんとコンドームをつけていたから、それほど心配することでもないだろう。女の子の体はデリケートだから、いつも周期ごとにくるとは限らない。遥は、キットを手にしたまましょんぼりとちゃぶ台の前に坐った。つけっぱなしのテレビのニュースは、失業率がまた上がったと伝えていた。
「三分経ったね。貸してごらん」
僕は検査薬キットを遥の手から取った。妊娠を示すラインは浮かんでいない。
「陰性だよ」
「ほんとうかしら?」
遥は眉の端をひっそりさせ、不安げに首を傾げる。
「説明書には念のために病院で検査してくださいって書いてあるけど、キットは九十九パーセントの確率で正確らしいから、大丈夫だよ思うよ。もし何日かしてまだ始まらなかったら、いっしょに病院へ行こうよ」
早くくるものがきて、遥が安心してくれないかと願ったけど、三日経っても遥の生理はこなかった。僕たちは近所の産婦人科の開業医へ行った。
古ぼけた診療所の待合室は満員だった。壁沿いに四つ並んだ黒いビニール張りの長椅子がすべて埋まっている。臨月間近の大きなお腹をした妊婦もいれば、ひどくやつれた顔をした中年の女性もいた。薬の臭いに混じってむせるような生温かい匂いがする。鼓動し始めたばかりの命の匂いなのだろうか。明治や大正の頃からあるようなアンティークな柱時計が壁際に据えてあって、時間になると鐘を鳴らし、くりっとした目の愛らしい鳩が飛び出してさえずった。
「どうしてくれるのよ。あんたのせいじゃん」
突然、若い女の甲高い声が静かな待合室に響く。向かいの長椅子に坐っていた僕たちと同い年くらいのカップルは、二人ともひどく不機嫌そうだ。彼氏をなじった女の子は唇を尖らす。怒っているせいかもしれないけど、整った顔立ちがかえって擦り切れた冷たさを感じさせた。
「知るかよ。ほかの男の子供じゃねえのか」
肩まで髪を伸ばした男はぶっきら棒にそっぽを向き、腕を組んで貧乏ゆすりした。
「浮気してるのはあんたでしょ」
女は声を押し殺す。
「よく言うよ。だったら訊くけどさ、ブログに書いてたことはなんなんだよ」
「だから、あれはあんたが温泉へ連れてってくれるって言ってたのに、ほかの女と行っちゃうから腹いせに書いただけだよ」
「女とふたりで行ったんじゃねえよ。キー坊とキー坊の彼女と、彼女の後輩と四人で行ったんだよ」
「彼女の後輩って女でしょ。それってダブルデートじゃん。布団のなかでなにをしたのさ。まさか四人でってことはないでしょうね」
「だからちげーよ。ただのお友達。指一本触れてません」
「大嘘つき。なんであたしを連れてってくれなかったんだよ」
「お前は、あそこは嫌だ、ここは嫌だって、こだわりすぎなんだよ。うるさいじゃん。めんどくさいから、キー坊とさっさと行くことにしただけだよ。お前の言うことを聞いてたら、どこへも行けないもん」
「お金出すんだから、ちゃんとしたところを選ぶのは当たり前でしょ」
「当たり前だけどさ、お前は文句が多すぎるんだよ」
男は投げやりだ。
「手術代はあんたが出すんだからね」
女は彼氏を肘でつついた。
「なんで俺が出さなきゃいけねえんだよ。お前がぼけっとしてるから、こんなことになったんだろ」
「楽しんだのはあんたじゃん。エッチさせてあげたぶん、お金を払ってほしいくらいだよ。今までのもまとめて全部ね」
「よがってたのは誰なんだよ。お前が人のことも考えないでしめつけすぎるから、こんなことになったんだろ」
二人の声はだんだん大きくなる。診察室から飛び出してきた看護婦が注意して、いったんは喧嘩もやんだのだけど、またしばらくして始まった。要するに、お金の問題だった。自分は損したくないと言い張って押し問答を繰り返している。耳障りだから、遥といっしょに庭へ出た。
外は小春日和のいい天気。風もあたたかい。ふたりは枯れかけた藤棚のしたのベンチに腰をおろした。雀が舞い降り、つつじの植え込みの陰で地面をつつきながら餌をあさっている。
若い母親が自転車を押しながら入ってきた。前の子供椅子に幼稚園の帽子を被った小さな男の子が乗っていて、楽しそうに腕を振り回して独り遊びをしている。大人には見えないアニメのキャラクターと戦っているようだ。庭の片隅の自転車置場にママチャリをとめた若い母親は楽しげな子供を睨み、きっと目をすえた。
「早く降りなさい。なにしてんのよ。ぐずぐずして」
いきり立った彼女は怒鳴りつけ、男の子の頭を手ひどくひっぱたく。男の子は火がついたように泣き始めた。若い母親は自分の子供にまた罵声を浴びせ、なにがそんなに腹立たしいのか、乱暴に抱えて子供椅子からひきずりおろした。男の子はどうしてよいのかわからず、泣き叫びながら同じところをぐるぐる走り回る。
「自転車の子供椅子から、自分ひとりで降りられるはずがないよね。降ろしてあげなかったらどうしようもないのに」
僕は、診療所のドアを開ける若い母親の姿を目で追った。
「死んだ愛が心のなかで腐っているんだわ」
遥は静かにつぶやく。
「最近、あっちこっちでヒステリックなお母さんを見かけるけど、貯金箱を壊すみたいに子供を叩くから怖いよね。僕が子供の頃だってみんなひっぱかたれていたけど、今のお母さんはなんか違うんだよな。愛情がない怒りかたって感じがする」
僕は自分の母親を思い出しながら言った。僕の小さい頃は、まだ愛情のある叱りかたをしていた。だけど、中学になってからはただヒステリックなだけになった。どうも世の中全体がどんどんヒステリックになっていくようだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「愛情がないのは、そのぶん欲望がふくれてるからなのよ」
「どういうこと?」
「愛情が大きくなったら、欲望はしぼんじゃうの。逆に、欲望がおおきくなったら、愛情はしぼんじゃうのよ」
「そうして、しぼんだ愛情が心のなかで死んで、心を蝕んでしまうんだね。最善の堕落は最悪、か。――ストレス社会だから、ヒステリックになるっていう人もいるけど」
「ストレスのもとは欲望よ」
「たしかにそうだね。欲しいものを手に入れるためにがまんしたり、逆に、欲しいものが手に入らないからいらいらしたりするわけだからね」
「世の中が世知辛いからってみんな言い訳するけど、わたしはそうじゃないと思う。欲望に流されるからそうなるのよ。欲望に従うことが当たり前だと思って、大切なことを見ないからよ。自分のわがままでいろんなことをだめにしておいて、それから言い訳するの。わたしのせいじゃない、わがままに生きたいだけだって。欲得ずくでなにがいけないの、みんなそうしているじゃないって」
遥はそう言って押し黙り、胸の内の不安と欲望と格闘するように眼を閉じる。
「ねえ、もし赤ちゃんができていたらどうする?」
遥の声はすこしばかり震えていた。
「決まってるだろ。いっしょに育てようよ。僕は仕事を探しに行く。最初は大変かもしれないけど、そのうち慣れるよ。遥は学校を続けなよ」
「ゆうちゃんはやめるの」
「そりゃ、稼がないといけないからね」
「だめよ、浪人までして入った大学じゃない。もったいないもの。わたしが学校をやめて働く。わたしひとりで育てるわ。それとも、堕ろそうかしら」
「ばかなことを言うなよ。僕たちの子供じゃないか。殺してどうするんだよ。一生後悔するよ」
僕は、遥が堕そうかと言うのを聞いてどきりとしてしまった。絶対にそんなことはさせられない。赤ちゃんがかわいそうというだけじゃない。もし堕胎なんかしたら、遥のことだから一生罪悪感に悩まされるのは目に見えている。不幸になるだけだ。
「もしできていたら、きちんと育てようよ。いいね?」
僕は駄目を押すように強く言った。
「わたしが子供を産んでもいいのかしら?」
遥は自信なさそうに顔を伏せ、軽く首を振って頰にかかった髪を払った。
「どうして?」
「そんな資格があるのかなって思ってしまうの」
「遥なら、きっといいお母さんになれるよ」
「家庭の味も知らないのに? さっきのお母さんみたいになってしまうかも」
「つらい家に生まれたから、自分の家族を大切にできるんだよ。たぶん、なんの問題もなく普通に育った人は、自分が家庭を壊すようなことをしても気づかないんだと思う」
「――わたしは怖いわ。自分の心のなかにどうしようもないものがあるの。それが動き出したら、とめられないかもしれない」
「それを知っているから、いいお母さんになれるんじゃないのかな。誰にでも、得体の知れないものが心の奥にあるんだよ。魔物が棲《す》んでいるっていえばいいのかな。――それに気づいている人はごくわずかだよね。わかっていたら気をつけることもできるけど、わかっていなかったら、心の闇にいいようにされてしまうだけになるんだよ。たぶん、僕の親も、遥の家族もそうだったんだと思う。でも、大丈夫。遥はそんなふうにはならないよ」
「そうだといいんだけど」
「もしそうなりかけたら、ふたりできちんと話をしようよ。僕がとめてあげる」
「ごめんね。わかっているのよ。いまでもじゅうぶん、わたしはしあわせなのよね。いつでもゆうちゃんがそばにいてくれるし。ゆうちゃんはいつでもわたしを受け容れてくれるんだもの。自分を受け容れてくれる人に出会える人はさいわいよ」
「遥だって、僕を受け容れてくれているんだよ」
看護婦が遥の名前を呼んだ。僕は遥の手を牽いていっしょに診察室へ入った。
検査の結果、遥は妊娠していないことがわかった。老医師の見立てはストレスのせいだろうとのことだった。ストレスを溜めこんで生理不順になる女性が増え続けているらしい。医師の説明を遥のそばで聞いていて、遥の葛藤は僕が考えている以上にすさまじいものだと思い知らされた。
「気を楽にしなさい」
老医師は微笑みを浮かべ、肩をほぐす仕草をしながら言ってくれたのだけど、遥は浮かない顔のままだ。
「お嬢さん、生きることは悩むことですよ。私はこの歳になっても、まだ悩み続けている。棺桶に片足をつっこんでいるのだから、もうそろそろ、いつお迎えがきてもいいように心の準備をしておかないといけない歳なのにね。若いあなたがいろいろ悩むのもむりはない」
厳しく優しく澄んだ瞳をした老人は、冗談めかして言った。遥は膝のうえでぎゅっと拳を握る。まぶたが怯えたように打ち震えた。
「あなたがたもお忙しいかもしれないが、すこしだけ話をさせてください」
老医師は笑顔をやめ、ふっと真顔になった。
「私が高校生だった頃、もう半世紀以上前のことですが、身重の姉が崖から海へ身を投げてしまいました。自殺する二日前、思いつめた顔をした姉が私と話したそうにしていたのですが、受験のことで頭がいっぱいだった私は冷たくあしらってしまいました。そのことが、今でも心の底に重く沈んでいます。あの時、きちんと話を聞いてあげれば、あるいはあんなことにはならなかったのではないかと思うと、悔やんでも悔やみきれません。姉と姉の子の死がきっかけになって、私はこの道を選びました。
産婦人科医になってから、これまで数万人の赤ん坊を取り上げました。どの赤子もまっさきにすることは、泣くことです。人は、泣きながらこの世に生をうけます。医学的には泣かなければ呼吸できないわけですが、ひょっとしたら、赤子にとって誕生は死なのではないかと思わないでもありません。それまで母親の子宮のなかでゆったりと羊水に漂って楽しく過ごしていたのに、抵抗できない力でいきなり見ず知らずの外界へ引きずり出されるわけですから、見方を変えれば恐ろしい死なのかもしれません。死というのが言い過ぎなら、エデンの園を追放されて荒野へ出たアダムとイブのようなものでしょうか。
とはいえ、赤ん坊はすぐにこの世界に順応します。それどころか、好奇心に胸を弾ませて毎日わくわく過ごします。ありがたいことに、私の取り上げた赤子を連れて挨拶しにこられるお母さんがおられますが、彼女たちの幸せそうな姿を見るのが、いちばん楽しい。生きていてよかったと思える瞬間です。赤ん坊はつぶらな瞳を輝かせながら、笑って、泣いて、はしゃいで、むずかって、心を全開にして生きています。それは、あなたにもかつてあったことなのですよ。
赤子の時の記憶を思い出すことはできませんが、一度、想像してみてはどうでしょうか。なんでも不思議がって、なんでも面白がっていた赤子の時代を。まっさらな心で思いっきり生きていた時のことを。
あなたがなにをそんなに悩んでいるのか、私にはわかりませんが、悩み事はリュックのようなものだとお思いなさい。それを担いで歩くのが人生です。肩が痛くなったら、歩くのをやめて、そのリュックをかたわらにおろして休憩なさい。太陽の光を浴びて、草の匂いをかいで、なにもない青空のようなまっさらな心を思い出したら、またそのリュックを担いで行きなさい。私の言いたいことはこれだけです」
老医師は、やさしいまなざしを遥へ注ぐ。
「はい」
遥は小さくうなずいた。遥の瞳にはいくぶん輝きが戻っている。僕はほっと息をついた。
「大切なのはまっさらな心です。悩むのもほどほどにして、気を楽になさい」
老医師は目尻に笑い皺を作り、ゆっくり両肩を回す。僕たちはお礼を言って診察室を出た。
駅前まで行って、スーパーへ寄った。
「いいお医者さんだったね」
僕は、しいたけのパックを籠に入れながら言った。
「そうね。わたしもまっさらな心で生きていた時があったのよね。それから、誰にでもいろいろあって、みんなリュックを担いでいるのね」
遥は普段と同じ表情で白葱を見比べている。僕は、張りこんですき焼きの材料を買った。おいしいものを食べて、もっと元気になって欲しかった。
緊張がほどけたせいか、その晩から遥の月経が始まった。用意周到な遥が珍しく生理用ナプキンを切らしていたから、僕はあわててコンビニへ買いに行った。コンビニ袋に入れたナプキンをぶらさげて走りながら、子供ができたらどうなるのだろうと考えた。今度は、紙おむつを買いにコンビニへ走ることになるのだろうか。それも悪くない。むしろ、待ち遠しい気がする。秋の夜風が快い。
あと二年半で卒業だ。
とにかく、内定だけは取れるようにがんばろう。
仕事さえ決まれば、僕たちの未来は開ける。
ふたりでしっかり生きていこう。
僕たちが欲しくてもどうしても得られなかったもの――倖せな家庭を築こう。
将来のふたりの姿を想い描いて、三人になった家庭を空想して、僕はどきどきしながらワンルームマンションの階段を一段飛ばしに駆け上った。
だけど、息を切らせてドアの前に立った僕は、突然、頭のてっぺんからつまさきまで鳥肌が立つのを覚えた。なにかに摑まれたように心臓がぎゅっと締まる。嫌な予感がして、胸騒ぎがどうにもとまらない。僕は急いで鍵を開けた。
冷たい部屋にくぐもったうめき声が響いている。遥の姿は見当たらない。ユニットバスの扉が開いて、明かりがもれていた。
「どうしたの?」
遥は、ユニットバスの便器にかがみこんで吐いていた。プラスチックの床には血が流れ、なんともいえない臭いがこもっている。僕は換気扇のスイッチを入れ、遥の背中をさすった。
「遥、大丈夫?」
そう呼びかけても、顔をしかめた遥は苦しそうに首を振るのが精一杯だった。
せっかく、すこしは元気を取り戻してくれたものだと思っていたのに。
今晩のすき焼きだって、おいしそうに食べてくれていたのに。
遥の顔からすっかり血の気が引いている。遥は、激しい嘔吐を繰り返す。
走りながら想い描いていたふたりの未来図が音を立てて崩れるようで、僕は薄暗い不安に駆られた。