紅葉は陽の光に透き通り
シビックは両側を山に挟まれた川沿いの道を走る。川の水は転げ落ちるように走り、岩にぶつかっては白い波を立てる。透き通る青い川床と涼しげな檜林のコントラストがきれいだ。泣いてすっきりしたのか、遥の表情はすっと落ち着いた。晴れた景色をまぶしそうに眺めている。
幹線道路を右に折れ、橋を渡った。車は再び山道へ入った。
緑のカーテンをすり抜けるようにして坂をのぼる。山へ分け入るごとに秋が深まる。紅《あか》や黄色のまだら模様が目立つようになった。
さっと視界が開け、目の前に秋の高原が広がった。牧草地や林が続くその向こうに神秘的な雰囲気を漂わせた山がどっしりそびえる。両側に優美な稜線を描き、真ん中に雪をいただいた峰がいつくも連なっていた。
「あれはなんていう山なの?」遥が訊く。
「御嶽山《おんたけさん》だね」
僕はカーナビの表示をちらりと見ていった。
「きれいな山ね」
遥は御嶽山に見とれた。
展望台で車をとめた。駐車場には観光バスや乗用車が並んでいて、見物客が大勢いた。手軽な撮影ポイントなのだろう、一眼レフのカメラを手にしたアマチュアカメラマンがそこかしこで山を撮っている。ガードレールの向こうの草地には、イーゼルを立てて油絵を描く人や、坐りながら水彩画の筆を執る人たちがいた。僕たちは見物客にお願いして、御嶽山をバックにふたりの写真を撮ってもらった。
観光客を引率したバスガイドがハンドマイクを片手に説明を始めた。お転婆そうなお姉さんだ。僕たちもそばへ行って彼女の話を聞いた。
「御嶽山は長野県と岐阜県にまたがる標高三〇六七メートルの火山でございます。四つの峰がございますが、あちらから、継子岳、摩利支天山、剣ヶ峰、継母岳の順に並んでおり、最高峰が剣ヶ峰となっております。長い間、死火山と思われていた御岳山ですが、第二次オイルショックのあった昭和五十四年、とつぜん水蒸気爆発を起こしまして、高さ約一千メートルまで噴煙をあげました。その後も小規模な噴気活動が断続的に続いております。
また、御嶽山は豊かな山の森と独特の容姿のために、古くから山岳信仰の対象となってきました。七世紀に開山されて以来、修験道の行場がいくつも開かれ、今日でも行者さんたちが修行にはげんでおられます。急峻な地形の御嶽山は滝の山といわれるほど滝が数多くあるため、かっこうの修行の場となっています。このほかにも、宗教登山が盛んでして、白装束姿の信者のかたがた、あるいは一般の服装をした信者のかたがたも、毎年、おおぜい登られております。――それではこちらに続いてください」
よどみなく解説を終えたバスガイドは、澄ました顔で観光客を連れて行った。
「登れるのね」
遥は、あごに指を当てながら興味深そうに御嶽山を眺める。
「登ってみたい?」
「うん。頂上から景色を眺めたら気持ちよさそうだもの」
「それじゃ、今度の夏にでも登りに行こうか」
「今じゃだめからしら」
「もう寒いよ。山小屋も閉まっているだろうし、この格好で登ったら凍えちゃうよ」
「あ、そうか。それじゃ、夏にしましょ」
「山開きしたら、いっしょに行こうよ」
「指切り」
遥は小指を差し出す。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本、飲おます、指切った」
遥は、嬉しそうにくすくす笑った。
道は一車線になったり、二車線に戻ったりする。森を走り、田畑が広がる狭い盆地を抜け、また山へ戻る。長いトンネルを抜けておだやかな水をたたえたダム湖に着いた。そこでもしばらく景色を眺め、また山道を走った。
途中、旧国道の入り口があったので、いたずら心を起こして入ってみることにした。道端の看板にはこの先行き止まりと表示が出ている。どこまで行けるかわからないけど、進めるだけ進んで引き返せばいい。
枯葉が道をおおっている。車はほとんど通らないようだ。もう長い間補修工事をしていないのだろう、アスファルトがひび割れていた。スリップしないように速度を落としてゆっくり走る。落ち葉を踏みしめる音がからから響く。
何度か急カーブを曲がり、切り立った崖の川沿いに出た。いい景色だ。
対岸の森は、赤や黄色やオレンジが入り乱れ、色あざやかに燃えている。紅葉はゆるやかな川の流れに照り映え、蜃気楼のように揺れる。たおやかでのびやかな日本の秋だった。遥はほっとしたため息をつく。わずらわしいことはすべて忘れて、この国に生まれてよかったと思える眺めだ。
旧道は崖の中腹を蛇行しながらのびる。ゆっくりと、できるだけゆっくりと、美しい景色を味わいながら徐行した。紅葉色が心に染みこむようでほんわりなごむ。ごつごつした素掘りの表面をコンクリートで固めただけの素朴なトンネルを二つくぐり、水色の鉄橋の前に出た。道はそこで行き止まりだった。一車線だけの狭い橋の入り口にコンクリートブロックを置いて通せんぼしている。ふたりは車を降りた。
森は風にそよぎ、川の流れだけが静かに響く。赤茶色したむき出しの岩と紅葉のコントラストが美しい。ここまで民家は一軒もなかった。手つかずの自然がそのまま残っているようだ。
真っ赤なナナカマドの木の脇に、背の高い紅葉《もみじ》が枝を広げていた。
「遥、こっちへおいでよ」
川を眺めていた遥を呼んで、幹に手をあてながらふたりでいっしょに紅葉の葉を見上げた。
こもれ陽が色づいた紅葉のあいだからきらきらとこぼれる。太陽の光に透き通った葉は、ステンドグラスのようだ。赤い葉脈が浮き上がっている。一つひとつの細い筋がまぶしさに脈打つようだった。
「このもみじはここちよさそうね。生きいきしているわね」
遥はぽつりとつぶやいた。
「そうだね。輝いているよね」
「命は輝くものなのね」
「お日さまの光をあびてね」
「もみじは光を求めて葉っぱを茂らせて、せいいっぱい生きようとするのね。それは許されることなのよね。わたしが生きていることも、もしかしたら許されているのかもしれない。お日さまは、毎日、私を照らしてくれるもの。神さまがそうしてくれているのよね」
遥の瞳から涙があふれる。そよ風が遥の髪を揺らし、あごの先から滴がしたたり落ちた。僕は遥を抱きしめ、頰ずりした。
「やっとわかってくれたんだね」
遥はきっかけを摑んでくれた。悲しみの涙ばかり流していた遥が、喜びの涙を流してくれた。駆け出したいくらい嬉しくてたまらなかった。遥の今までの苦しみがちょっぴり報われたんだ。そう思うと、僕まで泣きそうになった。
「ごめんなさい。なにも考えないって約束したのに」
「いいんだよ。なにも考えないでって言ったのは、自分を苦しめるようなことは考えないでっていう意味なんだから。今の気持ちを忘れないでね。もしこれから先、苦しくなったら、ここであったことを思い出そうね」
「ゆうちゃんの言うとおりにするわ」
遥は僕の胸にしがみついた。
遥は大切なことを心の底から実感した。それだけでも大きな収穫だ。
今感じ取ったことを実際の生活で実践するとなれば、たぶん、いろんなことがあると思う。また悲しみの涙を流すことがあるかもしれない。でも、今の気持ちさえしっかり心に刻んでいれば、きっと乗り越えられるだろう。必ず、倖せになれる。僕が倖せにしてみせる。
「ねえ、ゆうちゃん」
「なに」
「しゃぼん玉があったわよね」
オカマさんがボストンバッグに入れておいてくれたのだった。昔、遥はしゃぼん玉が好きだった。
「ひさしぶりに吹いてみたいな」
僕がしゃぼん玉セットを出すと、遥は待ちかねたようにさっそく遊び始める。
「遥、橋のうえで吹こうよ」
「だって、通行止めじゃない」
遥は目を丸くする。
「大丈夫だよ」
「落ちたらどうするの?」
「車は危ないかもしれないけど、人間がふたり渡ったくらいで簡単に壊れるものじゃないよ。それに、もし人が渡れないくらいおんぼろなら、フェンスを張って入れないようにするはずだよ」
「でも――」
遥がどうしても怖がるから、僕は一人で橋へ入った。
「ゆうちゃん、なにしてるのよ。危ないわよ」
「心配しなくていいから」
橋をすこし渡ったところで振り返り、準備体操をするように両手をぶらぶらさせてなんども跳んだ。
「ほら、平気だろ」
僕は両手を広げた。遥は不安そうに眉間にしわを寄せたまま、まだ納得しない。
「大丈夫だって」
僕は大声で言って、今度は思いっきりジャンプした。橋はびくともしない。長い間使われていないけど、昔は国道だったから、重いトラックが毎日走っていた。頑丈に造られている。
「わかったから、もうやめてよ」
遥はしぶしぶ橋に足を踏み入れ、あたりをきょろきょろ見回しながら歩いてくる。僕は橋の真ん中で遥を待った。
「なんともないだろ」
「心臓がとまるかと思ったわ」
「おおげさだよ。見てごらん。いい眺めだよ」
ふたりは断崖の下を流れる川を見つめた。陽光を照り返してきらきら光っている。両岸の紅葉はどこから見ても綺麗だ。澄んだ空気の向こうに遠く山なみが見える。
遥はしゃぼん玉を吹いた。
青空を映したしゃぼん玉は風に乗ってふわっと舞い上がる。紙吹雪のように空に散らばったかと思うと、薄くなって消えてしまう。
「ほら、あれ」
遥が指差す。一つだけ割れ残ったしゃぼん玉が、まるで糸でつりさげたように揺れている。
「がんばれ」
僕が声援を贈ると、遥は微笑む。なんの気負いも悲しみもなく、ただ自然に微笑んでいる。やさしい森の妖精のようだ。
僕たちはかわるがわるなんどもしゃぼん玉を飛ばしては、中学生の頃に流行った恋の歌をいっしょに口ずさんだ。
シビックは両側を山に挟まれた川沿いの道を走る。川の水は転げ落ちるように走り、岩にぶつかっては白い波を立てる。透き通る青い川床と涼しげな檜林のコントラストがきれいだ。泣いてすっきりしたのか、遥の表情はすっと落ち着いた。晴れた景色をまぶしそうに眺めている。
幹線道路を右に折れ、橋を渡った。車は再び山道へ入った。
緑のカーテンをすり抜けるようにして坂をのぼる。山へ分け入るごとに秋が深まる。紅《あか》や黄色のまだら模様が目立つようになった。
さっと視界が開け、目の前に秋の高原が広がった。牧草地や林が続くその向こうに神秘的な雰囲気を漂わせた山がどっしりそびえる。両側に優美な稜線を描き、真ん中に雪をいただいた峰がいつくも連なっていた。
「あれはなんていう山なの?」遥が訊く。
「御嶽山《おんたけさん》だね」
僕はカーナビの表示をちらりと見ていった。
「きれいな山ね」
遥は御嶽山に見とれた。
展望台で車をとめた。駐車場には観光バスや乗用車が並んでいて、見物客が大勢いた。手軽な撮影ポイントなのだろう、一眼レフのカメラを手にしたアマチュアカメラマンがそこかしこで山を撮っている。ガードレールの向こうの草地には、イーゼルを立てて油絵を描く人や、坐りながら水彩画の筆を執る人たちがいた。僕たちは見物客にお願いして、御嶽山をバックにふたりの写真を撮ってもらった。
観光客を引率したバスガイドがハンドマイクを片手に説明を始めた。お転婆そうなお姉さんだ。僕たちもそばへ行って彼女の話を聞いた。
「御嶽山は長野県と岐阜県にまたがる標高三〇六七メートルの火山でございます。四つの峰がございますが、あちらから、継子岳、摩利支天山、剣ヶ峰、継母岳の順に並んでおり、最高峰が剣ヶ峰となっております。長い間、死火山と思われていた御岳山ですが、第二次オイルショックのあった昭和五十四年、とつぜん水蒸気爆発を起こしまして、高さ約一千メートルまで噴煙をあげました。その後も小規模な噴気活動が断続的に続いております。
また、御嶽山は豊かな山の森と独特の容姿のために、古くから山岳信仰の対象となってきました。七世紀に開山されて以来、修験道の行場がいくつも開かれ、今日でも行者さんたちが修行にはげんでおられます。急峻な地形の御嶽山は滝の山といわれるほど滝が数多くあるため、かっこうの修行の場となっています。このほかにも、宗教登山が盛んでして、白装束姿の信者のかたがた、あるいは一般の服装をした信者のかたがたも、毎年、おおぜい登られております。――それではこちらに続いてください」
よどみなく解説を終えたバスガイドは、澄ました顔で観光客を連れて行った。
「登れるのね」
遥は、あごに指を当てながら興味深そうに御嶽山を眺める。
「登ってみたい?」
「うん。頂上から景色を眺めたら気持ちよさそうだもの」
「それじゃ、今度の夏にでも登りに行こうか」
「今じゃだめからしら」
「もう寒いよ。山小屋も閉まっているだろうし、この格好で登ったら凍えちゃうよ」
「あ、そうか。それじゃ、夏にしましょ」
「山開きしたら、いっしょに行こうよ」
「指切り」
遥は小指を差し出す。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本、飲おます、指切った」
遥は、嬉しそうにくすくす笑った。
道は一車線になったり、二車線に戻ったりする。森を走り、田畑が広がる狭い盆地を抜け、また山へ戻る。長いトンネルを抜けておだやかな水をたたえたダム湖に着いた。そこでもしばらく景色を眺め、また山道を走った。
途中、旧国道の入り口があったので、いたずら心を起こして入ってみることにした。道端の看板にはこの先行き止まりと表示が出ている。どこまで行けるかわからないけど、進めるだけ進んで引き返せばいい。
枯葉が道をおおっている。車はほとんど通らないようだ。もう長い間補修工事をしていないのだろう、アスファルトがひび割れていた。スリップしないように速度を落としてゆっくり走る。落ち葉を踏みしめる音がからから響く。
何度か急カーブを曲がり、切り立った崖の川沿いに出た。いい景色だ。
対岸の森は、赤や黄色やオレンジが入り乱れ、色あざやかに燃えている。紅葉はゆるやかな川の流れに照り映え、蜃気楼のように揺れる。たおやかでのびやかな日本の秋だった。遥はほっとしたため息をつく。わずらわしいことはすべて忘れて、この国に生まれてよかったと思える眺めだ。
旧道は崖の中腹を蛇行しながらのびる。ゆっくりと、できるだけゆっくりと、美しい景色を味わいながら徐行した。紅葉色が心に染みこむようでほんわりなごむ。ごつごつした素掘りの表面をコンクリートで固めただけの素朴なトンネルを二つくぐり、水色の鉄橋の前に出た。道はそこで行き止まりだった。一車線だけの狭い橋の入り口にコンクリートブロックを置いて通せんぼしている。ふたりは車を降りた。
森は風にそよぎ、川の流れだけが静かに響く。赤茶色したむき出しの岩と紅葉のコントラストが美しい。ここまで民家は一軒もなかった。手つかずの自然がそのまま残っているようだ。
真っ赤なナナカマドの木の脇に、背の高い紅葉《もみじ》が枝を広げていた。
「遥、こっちへおいでよ」
川を眺めていた遥を呼んで、幹に手をあてながらふたりでいっしょに紅葉の葉を見上げた。
こもれ陽が色づいた紅葉のあいだからきらきらとこぼれる。太陽の光に透き通った葉は、ステンドグラスのようだ。赤い葉脈が浮き上がっている。一つひとつの細い筋がまぶしさに脈打つようだった。
「このもみじはここちよさそうね。生きいきしているわね」
遥はぽつりとつぶやいた。
「そうだね。輝いているよね」
「命は輝くものなのね」
「お日さまの光をあびてね」
「もみじは光を求めて葉っぱを茂らせて、せいいっぱい生きようとするのね。それは許されることなのよね。わたしが生きていることも、もしかしたら許されているのかもしれない。お日さまは、毎日、私を照らしてくれるもの。神さまがそうしてくれているのよね」
遥の瞳から涙があふれる。そよ風が遥の髪を揺らし、あごの先から滴がしたたり落ちた。僕は遥を抱きしめ、頰ずりした。
「やっとわかってくれたんだね」
遥はきっかけを摑んでくれた。悲しみの涙ばかり流していた遥が、喜びの涙を流してくれた。駆け出したいくらい嬉しくてたまらなかった。遥の今までの苦しみがちょっぴり報われたんだ。そう思うと、僕まで泣きそうになった。
「ごめんなさい。なにも考えないって約束したのに」
「いいんだよ。なにも考えないでって言ったのは、自分を苦しめるようなことは考えないでっていう意味なんだから。今の気持ちを忘れないでね。もしこれから先、苦しくなったら、ここであったことを思い出そうね」
「ゆうちゃんの言うとおりにするわ」
遥は僕の胸にしがみついた。
遥は大切なことを心の底から実感した。それだけでも大きな収穫だ。
今感じ取ったことを実際の生活で実践するとなれば、たぶん、いろんなことがあると思う。また悲しみの涙を流すことがあるかもしれない。でも、今の気持ちさえしっかり心に刻んでいれば、きっと乗り越えられるだろう。必ず、倖せになれる。僕が倖せにしてみせる。
「ねえ、ゆうちゃん」
「なに」
「しゃぼん玉があったわよね」
オカマさんがボストンバッグに入れておいてくれたのだった。昔、遥はしゃぼん玉が好きだった。
「ひさしぶりに吹いてみたいな」
僕がしゃぼん玉セットを出すと、遥は待ちかねたようにさっそく遊び始める。
「遥、橋のうえで吹こうよ」
「だって、通行止めじゃない」
遥は目を丸くする。
「大丈夫だよ」
「落ちたらどうするの?」
「車は危ないかもしれないけど、人間がふたり渡ったくらいで簡単に壊れるものじゃないよ。それに、もし人が渡れないくらいおんぼろなら、フェンスを張って入れないようにするはずだよ」
「でも――」
遥がどうしても怖がるから、僕は一人で橋へ入った。
「ゆうちゃん、なにしてるのよ。危ないわよ」
「心配しなくていいから」
橋をすこし渡ったところで振り返り、準備体操をするように両手をぶらぶらさせてなんども跳んだ。
「ほら、平気だろ」
僕は両手を広げた。遥は不安そうに眉間にしわを寄せたまま、まだ納得しない。
「大丈夫だって」
僕は大声で言って、今度は思いっきりジャンプした。橋はびくともしない。長い間使われていないけど、昔は国道だったから、重いトラックが毎日走っていた。頑丈に造られている。
「わかったから、もうやめてよ」
遥はしぶしぶ橋に足を踏み入れ、あたりをきょろきょろ見回しながら歩いてくる。僕は橋の真ん中で遥を待った。
「なんともないだろ」
「心臓がとまるかと思ったわ」
「おおげさだよ。見てごらん。いい眺めだよ」
ふたりは断崖の下を流れる川を見つめた。陽光を照り返してきらきら光っている。両岸の紅葉はどこから見ても綺麗だ。澄んだ空気の向こうに遠く山なみが見える。
遥はしゃぼん玉を吹いた。
青空を映したしゃぼん玉は風に乗ってふわっと舞い上がる。紙吹雪のように空に散らばったかと思うと、薄くなって消えてしまう。
「ほら、あれ」
遥が指差す。一つだけ割れ残ったしゃぼん玉が、まるで糸でつりさげたように揺れている。
「がんばれ」
僕が声援を贈ると、遥は微笑む。なんの気負いも悲しみもなく、ただ自然に微笑んでいる。やさしい森の妖精のようだ。
僕たちはかわるがわるなんどもしゃぼん玉を飛ばしては、中学生の頃に流行った恋の歌をいっしょに口ずさんだ。