希望はすぐそばにあるから自分を信じて
渓谷に湯煙があがっている。
シビックは急な坂を登る。
谷間の細い山道だけど、シビックは賢くてしっかり者の車だから無難にこなしてくれた。ハンドルを切るたびにイグニッションキーのコロポックル人形が振り子のように揺れる。傾きかけた陽射しが檜林をやわらかく照らす。ひなびた温泉街に着いた。
急斜面の狭い峡谷の中腹に木造の温泉宿が五つほど軒を連ねていた。僕は、そのなかの山月館という名の宿に車をとめた。のんびりしたいのならここがいいとオカマさんが勧めてくれた宿だった。黒い木板と白い漆喰が古めかしい。時代劇に出てくる陣屋のような建物だ。
玄関へ入ると湯の花の香りがかすかに鼻をくすぐった。黒光りする柱や床のなかで、すのこだけが真新しい。すのこのそばには泊り客用の白い鼻緒の草履が並び、下駄箱の上にはきれいに色づいた紅葉《もみじ》の盆栽が置いてあった。海老茶色の和服を着た女将《おかみ》さんが迎えてくれる。僕の母と同い年くらいだろうか。いささか厚化粧だけどしっとりと目の濡れた美人だった。物腰がやわらかい。
記帳を済ませた後、僕たちは二階の川沿いの和室へ通された。
障子を開け、ガラス窓を開けると、すぐ向かいの山の稜線と川のせせらぎが飛びこんでくる。宿の真下は蒼い崖になっていて、狭い川が流れていた。虫取り網を手にした子供たちが石ころだらけの河原で遊んでいる。
備え付けの浴衣に着替え、下着とタオルを入れたふろしきを持って宿を出た。温泉街を抜け、檜の匂いが漂う坂をぶらぶら歩く。
「やっぱり、空気がおいしいわね。檜の香りもいいわ」
遥は気持ちよさそうだ。
「さっぱりした匂いだね」
そんなたわいもないことを話しているうちにこじんまりとした町営の公衆温泉に着いた。宿にも大浴場があるけど、残念なことに露天風呂がなかった。陽のあるうちに町営温泉の露天風呂に入っておきたかった。
さきに体と髪を洗って、誰もいない岩造りの風呂につかった。
なにもかもがぽかぽか温まる。なんともいえないため息が自然と口からもれる。体中の疲れと毒素が出ていくようだ。山がきれいに見えるから、景色もいい。湯加減もちょうどいい。空が広くてのんびりできる。首を回して、骨をぽきぽき鳴らした。ずっと運転を続けてこわばった体がほぐれた。
「ゆうちゃん。聞こえる?」
遥が仕切りの竹垣越しに僕を呼んだ。
「聞こえるよ。大丈夫? ほかに人はいない?」
「わたしだけ」
「いくよ」
僕は、シャンプーのふたがしまっているかを確認してから放り投げた。山なりに飛んだシャンプーが竹垣の向こうの女湯へ消える。
「うわっ、すごい」
遥がはしゃいでいる。
「どうしたの?」
「やったー。ちゃんと捕ったわよ」
「ナイスキャッチ」
僕は笑った。
ふと視線を感じて振り返ると、いつのまにか湯につかっていた老人と目があった。髪の毛のすっかり薄くなった彼は、ひょうきんそうな雰囲気を顔に漂わせている。まるで狂言師のようだ。僕は、照れながらどうもと言って湯池に体を沈めた。
「これはこれは」
老人は、ユーモラスな笑顔を浮かべる。目尻に寄ったしわが人懐っこくて、素朴であたたかい人柄を感じさせる。東京ではあまり見かけないけど、僕の田舎では似たような感じのおじいさんがいたものだった。人を信用するところから、他者との出会いをはじめるタイプのようだ。
「彼女といっしょにきたの?」
老人は両手ですくった湯を顔にかけ、気持ちよさそうに拭う。
「ええまあ」
「若い人はいいねえ。わしもばあさんときてるんだけど。やっぱり若いほうがいいなあ。女房と畳はなんとかってね。お兄さんはどこからきたの?」
「東京からです」
「そう。旅行かい」
「そうなんです。いい温泉ですね」
「ここはいいねえ。わしはこの近所に住んでいるもんだから、毎日きてるんだわ」
「いいですねえ。羨ましいですよ」
「いやまあ、湯治なのよ。ほら、ここに傷があるでしょう」
老人は、自分の右胸に残る手術の痕をなぞった。
「ご病気されたんですか」
「癌なのよ。肝臓にできちゃってね。医者に余命一年って言われたんだわ」
「たいへんですね――」
その後をどう言えばいいのかわからない。だけど、老人はさばさばした表情でただ温泉を楽しんでいる。つらそうな様子も、悲しんでいる気配も見受けられない。
「まあね。しょうがないわね。歳をとれば、体にがたがくるもんだわ。でもね、医者にそう言われてからもう五年も生きているんだよ」
老人は、狂言の翁のように嬉しそうに笑った。
「治ったんですね」
「いやあ、治りはしないけどねえ。癌といっしょに生きてるのよ」
老人は、自分の病気について語り始めた。
「かみさんがうるさいもんだからさ、人間ドックへ入ったのよ。そしたら、見つかっちゃったのよ、癌が。あんなもんに行かなかったら、知らないままですんだのにねえ、まったく。それで総合病院へ行って精密検査を受けたんだけど、手術して抗癌剤《こうがんざい》の治療を受ければだいたい余命一年ちょっと、うまくいったら数年生きられるかもしれないけど、なんにもしなかったら半年もつかもたないって言われちゃったのよ。
その検査の結果を聞いた時、もめちゃってねえ。えらいことになったのよ。かみさんのいとこが内科の医者をやっていて、それでいっしょについてきてくれたんだけど、そいつが頑固なやつでさ、主治医と大喧嘩をおっぱじめちゃった。あいつは怒ってねえ。『馬鹿言うな。治りもしない手術や治療をやってなにがあと一年だ。威張るんじゃない』って主治医の先生を怒鳴りつけるんだよ。
あいつに言わせたら、抗癌剤を使ったら死ぬのは当たり前だってことなんだな。ほら、抗癌剤って劇薬じゃない。副作用が激しいしねえ。癌細胞をやっつけてくれるかもしれないけど、正常な細胞まで破壊しちゃうわけよ。あいつは『抗癌剤なんて使ったら、逆に体を痛めつけてぼろぼろにして、命を縮めるだけだ。抗癌剤はぼったくりの人殺しの毒でしかない。あんたは医療行為に名を借りて、患者の体を利用して抗癌剤のデータ収集とぼろ儲けを狙っているだけなんだ。製薬会社にいいように使われているだけなんだ。それがわからないのか。恥ずかしいと思わないのか』って、そこまで言うんだね。先生を犯罪者扱いよ。
先生はむっとしちゃって、患者を見捨てろって言うのかって怒り出す始末でさ、わしは立場がなかったねえ、ほんとに。お世話になっている主治医にそんなことを言われたら困るじゃない。参ったよ。とはいっても、あいつだって悪いやつじゃないんだよ。むしろ、いいやつだよな。子供の頃はいじめられた友達をしょっちゅうかばってたし、今だって医者のいない山村をまわって往診しているのよ。身寄りのないじいさんばあさんからは治療代も受け取らないしね。飛騨の赤ひげ先生ってとこよ。
ふたりとも顔を真っ赤にしてさ、もめにもめて大激論。主治医の先生は、世界の医学界で認められたまともな手術と治療をするだけだって主張するのよ。わしだって先生の意見のほうが正しいって思ったもん。ごくオーソドックスだしねえ。ところが、あいつはそれを認めないのよ。『あんたは製薬会社に洗脳されているだけだ。治せもしない高価な抗癌剤を使っていちばん喜ぶのは誰だ? 製薬会社だろう。儲かってしょうがないから、笑いがとまらないだろうよ。でもな、そんなものを使われる患者の身にもなってみろ。病気は治らない。苦労して稼いだお金はぼったくられる。踏んだり蹴ったりじゃないか。治せもしないのは治療じゃない。あんたは医療の本質がわかってない』って譲らないわけさ。先生に言わせたら、あいつはでたらめをいうばかよ。あいつにしてみれば、先生はペテン師よ。もう、しっちゃかめっちゃかよ」
老人は子供の頃の喧嘩でも思い出すようになつかしそうに微笑み、眉のあたりまで沈んだ。老人は、湯から顔を出していい湯だとつぶやく。
「それでどうなったのですか?」
僕は訊いた。
「結局、手術して癌は切り取るけど、抗癌剤や放射線治療はいっさいしないってことで話がついたのよ。先生は放置したら全身へ転移するって言うし、わしだって体のなかに癌のかたまりがあったんじゃあ、気持ち悪いものね」
「それだけで五年も元気にしていらっしゃるんですか?」
以前、僕の親戚が癌にかかったのだけど、次から次へと転移して、手術と抗癌剤治療を繰り返した。最後は管だらけの生ける屍になってしまった。気の毒だった。
「いやいや、手術だけじゃよくはならないわね。酒もたばこもきっぱりやめて、食餌《しょくじ》療法をして漢方薬を飲んでいるのよ。あいつがそうしなさいって言うからね。でも、正解だったね。主治医の先生の言うとおりにしてたら、とっくにお陀仏だもんな。同じ病室にいた癌の人たちは、病状の重い人が集まってたこともあるんだけど、みんな死んじゃった。わしより症状が軽かった人も、あの世へ逝《い》ってしまった。みんな抗癌剤を使っていたからねえ。副作用に耐えられずに死んじゃったのよ。あの人たちを殺したのは癌じゃない。じつは抗癌剤なのよ。生き残ったのは抗癌剤を使わなかったわし一人だけ。
癌細胞ってね、どんな人にもけっこうできちゃうものらしいんだよ。だけど、人間には免疫系ってやつがあって、そいつが癌細胞をぱくぱく食べてくれるんだな。だから、おどかすわけじゃないけど、お兄さんの体にも何個かあるかもしれないのよ。心配しなくても大丈夫だよ。免疫系が箒とちり取りで掃除してくれるから。ところが、なんかの拍子で癌細胞が異常に増殖することがあって、それがぱあっと広がると癌になっちゃうんだね。
それでわしみたいになったらどうしたらいいんだって話なんだけど、あいつは『人間には自然治癒力ってやつが本来備わっている。だからそれを引き出してやればいい。それこそが医療の本質だ』って言うんだ。医療の本質なんて言われても、こっちは素人なんだからちんぷんかんぷんだけどさ、でも、むずかしいことはなんにもないのよ。要するに、規則正しい生活をして、体にいいものを食べて、刺激物はできるだけ控えて体に悪いものは食べない。漢方薬で五臓六腑の調子を整えて、軽く運動して、温泉でリラックス。これだけよ。わけのわからない名前のついた高価な薬なんて、なんも要らないの。ただひたすら全身のバランスを整えるように心がけるだけ。そうしたら、癌が消えるわけじゃないけど、そこそこ大人しくしてくれるもんなのよ。副作用で苦しむこともないし、痛みもまったくないしねえ。だから、わしは癌といっしょに生きているのよ。もうこの歳だから、あと何年生きられるかわからないけど、死ぬまでいっしょ。うちのかみさんみたいなもんだ」
老人は愉快な笑い声をあげた。それからいろいろ話をした。酒を飲めないのがつらいところだけど、日常生活にはなんの差し障りもないし、囲碁のサークルへ入って隠居暮らしを楽しんでいるそうだ。老人はお先にと言って湯を出た。
僕は湯池の縁に腰かけ、老人がさっき話してくれたことを考えた。
人間の体には自然治癒力が備わっているそうだけど、心にも同じようにそんな大いなる力があるのだろう。
遥がいつも気にしている欲望は、言ってみれば癌細胞みたいなものだ。人間の心にはかならず欲望が芽生える。だけど、心の健康な人は心の免疫系がそれを摘み取ってくれる。遥がむりに欲望を抑えこもうとしたのは、抗癌剤を使おうとしたようなものなのかもしれない。それで欲望が小さくなったとしても、正常な心の細胞まで傷つけてしまう。それでは心がもつはずもない。
「遥の心の自然治癒力を引き出すようにしてあげればいいんだな。それが僕の仕事なんだ」
僕はひとりごちた。
「ゆうちゃん、いつまでつかってるの?」
遥が女湯から呼びかけてきた。
「ごめん、もう出ようか」
出る時は合図すると言っておいて、忘れていた。
道すがら、遥は道端に生えているすすきの穂を手折って髪に挿した。すすきの穂は楽しそうにゆらゆら揺れる。湯上りの頰は赤味がさして艶やかだった。僕たちは手を繋いで宿へ帰った。
部屋へ運んでもらった川魚のお膳をいただきながら、地酒の熱燗《あつかん》を飲んだ。塩焼きのヤマメと胡麻豆腐がおいしい。
ふだんの遥はお酒を飲まないし、居酒屋へ行ってもほんの付き合い程度口にするだけだけど、今晩はわりあいよく飲む。さしつさされつするうち、僕はほろ酔い加減になった。遥の耳たぶが赤くなり、白いうなじまで真っ赤に染まる。
「はい、ゆうちゃん」
徳利を傾ける遥の手つきが妙に色っぽい。
お膳はさげて、お酒だけ残してもらった。仲居が布団を敷いてくれた。
部屋の灯りを消して、ガラス窓を閉めたまま障子だけ開けてみた。向かいの山に白い半月がかかっている。月がきれいに見えるから山月館なんだな、といまさらのことをぼんやり思った。しんと冷えた川のせせらぎが耳に心地良い。僕は遥の膝枕に頭をもたせかけた。
「ゆうちゃん、今日はありがとう」
遥はしんみり微笑む。
「なにが?」
「つかれたでしょ」
遥は僕の頭をなでた。
「ちょっとね」
「寝ちゃっていいのよ」
「眠くはないよ。いい気分なだけだから」
僕は目を瞬いた。月光が遥の顔を半分照らしている。きれいな切り絵のようだ。
「僕のかぐや姫」
「なにそれ?」
「遥のこと」
「中学生の時、なんだか遥は月からきたみたいだなって思っていたんだ」
「ざんねん。地球生まれの地球育ちよ。お月さま育ちだったらいいんだけど。悲しいことだって、そんなになかったかもしれないわね。でも、地球に生まれて、ゆうちゃんと出会えてよかった」
「僕もだよ」
「わたしのお母さんは、わたしの物心がついた頃からずっと、自分はもうだめだって一日になんどもため息をつきながら繰り返し言っていたの。それを聞くたびに、わたしはいつもしょんぼりしてしまったわ。悲しかった。そのうち、わたしもだめなんだって思うようになってしまったの。両親が離婚したとき、わたしの人生にいいことはぜったい起こらないって、そう思いこんでしまったわ。ほら、やっぱりだめだったじゃないって。もともとだめで、このさきもっとだめになるだけなんだって。神さまにお祈りして、神さまにすがって、そんな気持ちにじっと耐えていたのよ。
でも、中三の時、ゆうちゃんと出会って、すこし変わったわ。希望をもってもいいのかなって思いはじめたの。聖書に『今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる』って書いてあるんだけど、ほんとうかもしれないって信じはじめたわ。いろいろあったけど、今は希望をもたなくちゃいけないんだってちょっと思ってる。そんなふうに思えるようになったのは、ゆうちゃんのおかげよ」
「自分のことをだめだなんて思ったらいけないよ。希望はいつでもすぐそばにあるんだよ。それに気づくか気づかないかだけなんだよ」
「わかったわ。今の言葉をこころにきざんでおくわ」
遥はこっくりうなずく。
僕は、露天風呂で出会った老人のことを話した。
「そのおじいさんが言っていたんだよ。人間には知らない力がいっぱい眠っているから、自分の力を信じて生きることが大切なんだって。自然治癒力っていうのは生きようとする力だとも言ってたよ。ただ、知らないうちに自分でそれを邪魔してしまうから、おかしなことになってしまうんだって。遥のなかにだって生きようとする力があるんだから、心配しなくても大丈夫だよ。希望をもたなくちゃ」
「そうね。わたしはこんなふうにも思うの。ゆうちゃんがわたしの前に現れたとき、無意識だけど希望に気づいていたのもしれないって」
「僕もそうなんだと思う。初めて遥と机を並べた時にね」
僕は、制服姿の遥をふと思い出した。あの日から、恋と、夢と、僕の人生そのものが始まったような、そんな気がする。僕の人生は遥との出会いがすべてだ。
「ゆうちゃん、もう悪いことなんて起こらないわよね」
遥は僕の目をじっと見つめる。祈りを捧げるような、救いを求めるような、せつないまなざしだった。遥はこんなふうに、隣のお兄ちゃんに助けを求めるようにして、神さまにお祈りしていたのだろう。
「起こらないよ」
僕は手を伸ばし、遥の頰をやさしくさすった。
「ぜったい?」
「約束する」
これからどんどんよくなる。僕もそう信じたかった。未来は僕たちのものだと。
「遥、酔いは醒めた?」
「もう平気よ」
「ここの温泉に入ろうか。体を流そうよ」
「そうね」
遥は穏やかに微笑んだ。川のせせらぎがふと高まる。
僕たちは起き上がり、一階の奥にある大浴場へ行った。
(続く)