毎回そうなのだけど、小説を書いている間は夢中だ。
頭のなかにあるもやもやしたイメージのかたまりと格闘して、イメージを言葉の明るみへ引きずりだし、なんとかしてそれを言葉で象《かたど》ろうとする。
小説を書く前に創作ノートを作って、テーマ、主要登場人物のキャラクター、舞台、問題提起すべきことなどなどをざっと書いておくのだけど、それだけではやはり曖昧なままだから、書いては推敲を重ね、何度も書き直しながら作品にする。
書いている間にいちばん気をつけないといけないことは、ディテールを考えすぎるばかりにモチーフを見失ってしまうことだ。たとえて言えば、画家がキャンバスに向かって絵を描いている時、キャンバスばかりを見つめて風景や人物や静物といった描くべき対象物を見なくなってしまうようなものだろうか。もちろん、ディテールのしっかりしていない小説は読んでいてもつまらないから、細部をしっかり仕上げることは重要なことなのだけど、僕は主題を大切にしたい。僕がなりよりも格闘すべきなのは、ままならないこの世の現実やままならない自分自身だ。その格闘の成果として作品が生まれる、とそんな風に考えている。僕が尊敬しているドストエフスキー、夏目漱石、芥川龍之介、中島敦、太宰治はそういった作家だった。
ようやく書き上げた後は、険しい峠の頂きにたどり着いたようだ。見晴らしがいい。気だるい疲労が心地いい。
書き上げた直後は頭に血がのぼっているから、のぼせあがって興奮していたりするものなのだけど、何日か経つとそれもおさまって心に平静さが戻る。
気持ちの落ち着いたところで、書き上げた作品をつらつらと反省してみる。勝負を終えた棋士が駒を動かして初手からトレースしてみるように、自作の軌跡を振り返ってみる。毎回、ここはこうすればよかったとか、あそこはああすればよかったとか、反省しきりだ。
とはいえ、もやもやしたイメージが一個の作品として形になったのを見ると、自分の書きたかったことがよくわかる。自分はこんなことを考えていたんだといまさらながら発見したりする。
たぶん、これが小説を書くことの一番の収穫なのだろう。もしかしたら、小説を書くということは、自分を知るための作業なのかもしれない。自分の知らない自分に出会うための修行なのかもしれない。
心のもやもやが晴れて、すっきりした気分。なにはともあれ、一歩前進できた。迷宮のように混沌とした自分の心にすこしばかりまとまりがつく。
人生は旅。
書くことでしか自分の存在を証明できないのだから、書き続けるよりほかにない。
ひと休みしたらまた続きを歩こうと思いながら、山並みの向こうに見える次の峠をぼんやり眺めてみる。人の命は泡沫《うたかた》のようなものだからいつまで生きられるかはわからないけど、歩けるうちにできるだけ歩いておこうと思う。
(2011年1月23日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第74話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/