命はよみがえるから
遥の状態はよくならない。
たまに機嫌がよくなったかなと思ったら、すぐに塞ぎこんでしまう。
心療内科へ行こうと勧めたけど、
「病院へ行っても気休めにしかならないわ。お母さんが鬱病だったから、わかるの。心療内科のお医者さんは結局のところ世間一般の人で世間の価値観にとらわれているから、ほんとうにたいせつなことがわからないのよ。心の奥深くは治せないのよ。だから、自力で治すしかないの。薬でごまかしたら、あとでもっとつらくなるだけ。わたしのお母さんはお医者さんと薬に頼ってばかりだから、病院と家を一生行ったりきたりするはめになるのよ」
と、遥は首を振るばかりだった。
遥はやつれた。
僕と暮らし始めてからすこしばかりふくよかになったのだけど、一時期はきつくなったブラジャーがゆるくなった。顔全体が痩せ、大きな目が力なく浮き上がる。そんな遥を見るたびに、胸が傷《いた》んだ。
僕はどうすればいいのかわからなくなって、ヘアサロンのオカマさんに電話をかけた。オカマさんは仕事の後、喫茶店まできてくれた。
「あたしもね、気になってたのよ。すごくしょんぼりした顔をしたり、うつむいたまま顔を上げなかったりするから――。携帯でメールを送っても、気のない返事ばかり返ってくるのよね」
オカマさんはいつものように顔をにこにこさせながら言った。彼の笑顔はふかしたての肉まんのようにほっこりしている。僕はほっと心がなごみ、救われた気がした。遥からなにか相談を受けてないかと訊いてみたけど、オカマさんは遥ちゃんは自分のことを話さないからと言い、
「まだ、ほんとうの意味であたしに心を開いてくれてないのよね。あたしは自分の妹のように思ってるんだけど」
と、ため息をつくだけだった。
僕は遥の最近の様子や生い立ちをざっと話した。オカマさんの言うとおり、遥は僕以外の人に自分のことを知られるのを極度に避けていたけど、彼にだったら許してくれるだろう。
「やっぱりね。そんな感じがしてたんだけど。――子供の頃に大切なものを壊された人は、どうしてもそうなってしまうのよ。自分を守ろうとしすぎて、しゃちほこばっちゃうのよね」
「遥は、話しかけても申し訳なさそうに顔を背けたりするんですよ。ちょっとした言葉を交わすのもつらいみたいで、怯えた顔をしてうつむくこともあるし。もしかしたら遥が自殺しちゃうんじゃないかって、はらはらするんです」
「自分の殻に閉じこもっちゃってるのね。周りの人の力を借りないとどうしようもないのにねえ。つらさを乗り越えるのは遥ちゃんの言うように自分の力でやらなくちゃいけないんだけど、誰か杖になってくれる人が必要なのよ。誰かに手伝ってもらわなくちゃ、人生の問題なんて乗り越えられるものじゃないわよ」
「僕がいくらでも杖になってあげるのに」
「純粋に人を愛したいっていう遥ちゃんの気持ちはよくわかるわ。できるんだったら、あたしもそうしたいもの。素晴らしい愛よね。でも、遥ちゃんは一途すぎるのよ。急ぎするぎって言えばいいのかしら」
「なにかいい方法はないでしょうか」
「あればいいんだけどねえ。あたしの頭じゃ思いつかないわ。焦らないでとか、もっとリラックスしていいのよとか、月並みなことしか思い浮かばないもの。――いちばん大事なことは、大切な人に愛されてるって心の底から実感できることね。それがわかれば、気持ちがずいぶん落ち着くものなのよ」
「愛しているつもりなんですけど、わかってくれてないのかな」
思わず、僕は弱音を吐いてしまった。
「あら、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。佑弥君が遥ちゃんをほんとうに大切にしてることはすっごく感じるわ。はたから見ていて羨ましいもの。あたしだって、遥ちゃんみたいに愛されてみたいし、いつかそんな彼氏に出会いたいって思うわ。でもね、よくあるじゃない。人が親身になっていいアドバイスをくれてるのに、ぜんぜん耳に入らないことって。落ちこんじゃって、自分を見失ってることって」
「そうなんですよね。遥は自分を見失っているんですよね。――どうやったら自分を取り戻してくれるんだろう」
僕はため息をついた。
「佑弥君、ちょっと気分転換でもしてきたら。あなたが煮詰まったら、遥ちゃんはどうなるのよ」
「ほんとうにそうですよね。遥が頼れるのは僕しかいないから。――旅行にでもふらりと出かけたいんですけど」
「行ってくればいいじゃない」
「でも、遥が心配だからほっとけないですよ」
「それじゃあ、ふたりで行ってきたら。ふたりでいっしょに気分を入れ替えたらいいじゃない」
「この間、遥に旅行しようって言ったんだけど、黙って返事もしてくれなかったんです」
「八方手詰まりなのね」
オカマさんは頰杖をつく。
「そうなんです。――こんなことを話してすみません」
「あら、どうしてそんなことを言うのよ。あたしたちは友達じゃない。そうでしょ」
「ありがとうございます」
「他人行儀ね。頭を下げるほどのことじゃないわよ。こんな時のために友達がいるんじゃない」
「女の子って、こんな時どうすれば気分転換できるんですか? 僕は遥しか知らないから、よくわからないんですよ。甘いものを食べたり、髪を切ったりした時に遥の気分がよくなるのはわかるんですけど」
「そう、それがあるじゃない」
オカマさんは嬉しそうに両手を叩き、
「あのね――」
と、思いついたアイデアをこっそり話してくれた。
その週末、オカマさんは遥を呼び出してくれた。遥は気分がすぐれないことを理由にして断ろうとしたのだけど、
「せっかく、言ってくれてるんだからさ」
と、僕は遥を引っ張ってヘアサロンへ行った。夕暮れた駅前の大通りは、金曜日とあって賑やかだった。
「遥ちゃん、よく来てくれたわね。待ってたのよ」
オカマさんはいつもの笑顔で遥を迎えてくれた。白いモノトーンの内装で整えた店に『くるみ割り人形』が流れている。有線放送のバレエやオペラの曲ばかりかけているのがこの店の特徴だった。オカマさんはそれを気に入って勤めることにしたらしい。
「なに?」
遥はきょとんとしている。
「さあ坐ってよ」
オカマさんは美容椅子を足でさっと回転させた。
「予約を入れてないけど」
「あたしが入れたのよ。プレゼントよ」
「どうして? 誕生日でもないのに」
「誕生日じゃなくてもいいじゃない。プレゼントしたいから、プレゼントするの。いけないかしら」
「そんなことないけど」
遥はまだとまどっている。
「遥、人の好意は素直に受け取るもんだよ。坐りなよ」
「でも――」
「いいから」
僕は遥の背中を押して、遥を椅子に坐らせた。
「遥ちゃん、どんなふうにしようかしら」
慣れた仕草で椅子を鏡へ向けたオカマさんは遥に訊く。
「いつもとおなじでいいわ」
「あら、それだったらプレゼントした甲斐がないじゃない。ちょっとさ、気分が明るくなるような感じにしない」
「いいけど」
「それじゃあね、あたしは前から遥ちゃんに似合うヘアスタイルを考えてたから、今日はそれを試してもいいかしら」
「おまかせするわ」
「よかった」
オカマさんと僕は目を合わせてうなずいた。僕はよろしくお願いしますと言って、待合のソファーに腰かけた。
オカマさんは遥の髪を洗い、さらさらとカットする。僕は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読みながら、二人の様子をちらちら見た。初めは暗い面持ちだった遥もカットが進むにつれて、薄皮をはぐように表情が落ち着いた。オカマさんがなにくれとなく遥に話しかける。遥は、鏡に映る自分を見ては二言三言《ふたことみこと》話して気持ちよさそうに目を閉じるようになった。
カットの後、オカマさんはパーマを勧めた。
「当てたことがないから、いいわ」
と、遥はしぶったのだけど、
「あたしに任せて。遥ちゃんのパーマデビューを担当させてもらえるなんて光栄だわ」
と、オカマさんはそう言って無難にことを運んでくれた。
僕のお腹が空いて耐えられそうになくなった頃、新しい遥ができあがった。いつものように生真面目そうな感じではなく、活発で楽しそうな髪形に仕上がった。なんという名前のヘアスタイルかは知らないけど、髪のすそがぴょんと跳ねていてかわいらしい。
「わたしはこんなふうにもなるのね」
遥は手鏡を見ながらつぶやいた。まんざらでもなさそうだった。
「どう?」
オカマさんが遥の肩にやさしく手をかける。
「いいわね。なんだか違う自分になったみたい」
ようやく、遥は明るい笑顔をみせてくれた。
「そうでしょ。女は変わることができるのよ。いつでも新しい自分になれるの」
セットを終えてから、三人近くにある魚料理専門のレストランへ行った。普通の食堂にくらべていささか値は張るけど、品のある味付けで料理はどれもおいしい。遥はハマチの刺身定食、オカマさんはブリの照り焼き定食、僕は日替わり定食を頼んだ。日替わりの中身はカレイの煮付けだった。
オカマさんは小熊のような丸顔をにこにこさせて、遥の髪を何度も眺める。オカマさんとしても自信作のようだった。
「話は変わるけど、にわとりちゃんってすごいのよ」
小鉢に入っているかぼちゃの煮物を食べながらオカマさんが言う。
「どうしてですか?」
遥はちょうどハマチの刺身を口に入れたところだったので、僕がかわりに訊いた。
「廃鶏《はいけい》って聞いたことあるかしら」
「ないですけど」
僕は首を振った。
「卵を産むにわとりちゃんが役に立たなくなると廃棄処分になっちゃうんだけど、それが廃鶏なの。狭い鶏舎のなかで二十四時間、強いライトを当てられてむりやり卵を産まさせられるでしょ。そうすると、体がぼろぼろになって卵を産めなくなっちゃうのよ。もうみてられないの。羽はぱさぱさだし、ぜんぜん艶がないのね。いくらトリートメントしても、毛染めしてもだめかなあって感じなのよ。おまけに、羽が抜け落ちて骨が見えるにわとりちゃんもいるのよ」
「かわいそうね」
刺身を食べ終えた遥がようやく会話に参加した。新しい髪型がいい影響を与えているのか、今晩の遥はわりあいよく話す。
「ほんとにそうよね。でも、そんなにわとりちゃんたちのおかげであたしたちは安い値段で卵をいっぱい食べられるんだけどね。にわとりちゃんをこきつかってあたしたちは生きてるのよ。それはともかく、うちのお父さんが廃鶏を何羽かもらってきて飼うことにしたの。実家は農家だし、庭に放し飼いにしておけばいいから、手間もかからないのよ。
去年のお盆に田舎へ帰った時にちょうど飼い始めたんだけど、いつまでもつのかしらって不安だったわ。死なせたら申し訳ないじゃない。でも、今年の夏に帰ったら、にわとりちゃんはまた卵を産むようになったの。すごいでしょ。毛も抜けて、おじいさんみたいによたよた歩いて、もうほとんど死にかけてたのに、ちいさな庭で暮らしているうちに元気になったのよ。一度は要らないって言われて捨てられたにわとりちゃんなのにね」
「すごいわね」
遥は箸をとめ、感心したように言った。
「そうよ。命ってすごいのよ。リラックスして、気ままに庭を走り回って、そんなふうにふつうの暮らしをしてるだけで、ふつうに元気になるの。鶏舎にいた時より、ずっと元気なんじゃないかしら。それでね、にわとりちゃんが産んでくれた卵を食べたんだけど、それが甘くておいしいのよ。このあたりのスーパーでも地卵なんか売ってるけど、あんなの目じゃないわよ。ずっとずっとおいしいの。卵かけご飯なんかにしたら最高よ」
話し終えたオカマさんは、おいしそうにブリの照り焼きをほおばる。僕はなぜ彼がそんな話をしたのかわかった。彼は廃鶏のことを語りながら、遥を励ましてくれている。僕は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
オカマさんは、地鶏の話をあれこれとしてくれた。
農家で飼っている食肉用の鶏はむりやり成長させるための合成飼料を使わずに、粟や稗《ひえ》といった自然の雑穀を食べさせるから、味がとても濃いのだそうだ。毎日、庭先で運動をしているから、肉も引き締まって歯ごたえがある。オカマさんが実家へ帰ると、お父さんが必ず地鶏を一羽潰して鶏鍋を作ってくれるので、家族で鍋をつつくのがとても楽しみなのだとか。今度ふたりで遊びにいらっしゃいと誘ってくれた。
「腹ごなしに散歩しましょうよ。遥もいいだろ」
店を出た後、僕は二人を散歩に誘った。
街灯がともった住宅街へ入る。しんとして静かだ。遥はなんにも疑わずについてくる。やがて、目的地のタイムパーキングに着いた。
「二人でドライブへ行ってらっしゃい」
オカマさんは車のキーを差し出す。彼のシビックを貸してもらうことになっていた。受け取ったキーホルダーにはアイヌ人形のコロポックルがついていた。
「いっしょにいかないの?」
遥がオカマさんに訊くと、
「あたしは明日も仕事だから。早番だし。それじゃ」
と、彼は小さくしなを作り、こまかくかわいらしく手を振る。
「今日はありがとうございました」
僕は頭を下げた。
「楽しんできてね」
にこにこしたオカマさんは振り向き、そのまま住宅街の角を曲がった。
「いいのかしら」
遥は、まだ彼が消えたブロック塀のあたりを眺めている。
「旅行に連れてってあげて言って、貸してくれたんだよ」
「そうなの」
遥はうつむいた。目の縁がにじんでいる。オカマさんの気持ちが通じたようだった。
調布から夜の中央高速に乗った。
「どこへ行くの?」
助手席の遥が言う。カーナビは西へ表示を出している。オカマさんがあらかじめセットしておいてくれていた。
「飛騨高山のあたりだよ。紅葉《もみじ》を観に行こう。ネットで調べたんだけど、今が見頃なんだって。明日の晩は温泉宿を予約してあるんだ」
「わたしはなにも持ってきてないわ」
「荷物はトランクに入っているよ。着替えもちゃんとあるから」
「いつ準備したの?」
「昼のあいだにね」
「知らなかった」
「遥が学校へ行っているうちに、全部用意したんだ」
「そうなの。ありがとう」
「お礼なら、篠山《ささやま》さんに言わなくっちゃ。彼がお膳立てしてくれたんだよ。帰ったら、お礼になにかご馳走しようね」
「わたしの作ったコロッケが好きだっていってたわ」
「そういえば、いつかそんな話をしてたね」
「あまったコロッケでサンドイッチを作って、いっしょに食べたことがあったの。ささちゃんはすごく喜んでくれて、また食べさせてちょうだいって言ってたんだけど、まだ作ってないのよ。でも、カットしてパーマまでかけてくれたのに、コロッケじゃ、つりあわないわね」
「コロッケとほかにご馳走を用意して、篠山さんをうちに招待しようよ」
遥はなにも答えない。助手席を見ると、遥はもう眠っていた。
心なしか、いつもより安らかな寝顔だ。愛されているということを実感してくれたからだろうか。もしそうなら、ほんとうにいいのだけど。
相模湖を抜けて、大月ジャンクションをまっすぐ走る。先へ進めば進むほど乗用車が減ってトラックが増える。数珠繋ぎに走るトラックを何回も追い越した。
イグニッションキーについたコロポックルがゆらゆら揺れる。民族衣装を着て細い目を微笑ませた小人だった。妖精とも、アイヌ民族が暮らしている地域の先住民族ともいわれている。コロポックルの笑顔はとてもやさしい。野仏のようにただ微笑んでいた。
黒い山影のうえに月が見えるだけで、星はひとつも見えない。長いトンネルをずっと走っているようだ。FMから静かな音楽が流れる。車の風切音だけが響いている。
遥のことを考えると、せつなくなってしまう。
いつまでたっても晴れない暗い霧のなかで少女時代を過ごした遥は、平凡な倖せを手に入れることすらできない。ありふれた倖せのなかで育ち、そのまま平穏な人生を送る人もいるというのに、純粋すぎるほど純粋な遥には次から次へと不幸が降りかかってしまう。たぶん、遥の心には、まるで時限爆弾のようななにかとんでもないものが埋め込まれていて、それを解除しない限り、倖せになれないのだろう。それは憎しみの種、あるいは恨みの種と呼ぶべきものなのかもしれない。遥の言っていた堕落した愛情が心のなかで腐ったものなのかもしれない。それがわかっているから、心の桎梏《しっこく》になっているものを外そうとして、遥はひたすら純粋な愛を追い求めてしまうのだ。それさえ手に入ればすべてが解決するはずなのだけど、簡単には手に入らないものだから、いつも挫折感にさいなまれてしまう。自分の影に怯えてしまう。
僕は、そんな遥に寄り添ってあげることしかできない。
無力なんだとつくづく思う。
どうしてあげればいいのかはわからないけど、今はただ、ぐっすり眠って欲しかった。オカマさんが話してくれたように、リラックスして普通に暮らせば、いつか悲しみの長いトンネルを突き抜けて、コロポックルのように穏やかな笑顔を浮かべながら暮らせる日がくると信じたかった。命を取り戻した鶏のように、元気になってくれると思いたかった。
途中のサービスエリアで車をとめて二時間ばかり仮眠を取った。夜が冷たく白む頃、高速道路を降りた。
遥の状態はよくならない。
たまに機嫌がよくなったかなと思ったら、すぐに塞ぎこんでしまう。
心療内科へ行こうと勧めたけど、
「病院へ行っても気休めにしかならないわ。お母さんが鬱病だったから、わかるの。心療内科のお医者さんは結局のところ世間一般の人で世間の価値観にとらわれているから、ほんとうにたいせつなことがわからないのよ。心の奥深くは治せないのよ。だから、自力で治すしかないの。薬でごまかしたら、あとでもっとつらくなるだけ。わたしのお母さんはお医者さんと薬に頼ってばかりだから、病院と家を一生行ったりきたりするはめになるのよ」
と、遥は首を振るばかりだった。
遥はやつれた。
僕と暮らし始めてからすこしばかりふくよかになったのだけど、一時期はきつくなったブラジャーがゆるくなった。顔全体が痩せ、大きな目が力なく浮き上がる。そんな遥を見るたびに、胸が傷《いた》んだ。
僕はどうすればいいのかわからなくなって、ヘアサロンのオカマさんに電話をかけた。オカマさんは仕事の後、喫茶店まできてくれた。
「あたしもね、気になってたのよ。すごくしょんぼりした顔をしたり、うつむいたまま顔を上げなかったりするから――。携帯でメールを送っても、気のない返事ばかり返ってくるのよね」
オカマさんはいつものように顔をにこにこさせながら言った。彼の笑顔はふかしたての肉まんのようにほっこりしている。僕はほっと心がなごみ、救われた気がした。遥からなにか相談を受けてないかと訊いてみたけど、オカマさんは遥ちゃんは自分のことを話さないからと言い、
「まだ、ほんとうの意味であたしに心を開いてくれてないのよね。あたしは自分の妹のように思ってるんだけど」
と、ため息をつくだけだった。
僕は遥の最近の様子や生い立ちをざっと話した。オカマさんの言うとおり、遥は僕以外の人に自分のことを知られるのを極度に避けていたけど、彼にだったら許してくれるだろう。
「やっぱりね。そんな感じがしてたんだけど。――子供の頃に大切なものを壊された人は、どうしてもそうなってしまうのよ。自分を守ろうとしすぎて、しゃちほこばっちゃうのよね」
「遥は、話しかけても申し訳なさそうに顔を背けたりするんですよ。ちょっとした言葉を交わすのもつらいみたいで、怯えた顔をしてうつむくこともあるし。もしかしたら遥が自殺しちゃうんじゃないかって、はらはらするんです」
「自分の殻に閉じこもっちゃってるのね。周りの人の力を借りないとどうしようもないのにねえ。つらさを乗り越えるのは遥ちゃんの言うように自分の力でやらなくちゃいけないんだけど、誰か杖になってくれる人が必要なのよ。誰かに手伝ってもらわなくちゃ、人生の問題なんて乗り越えられるものじゃないわよ」
「僕がいくらでも杖になってあげるのに」
「純粋に人を愛したいっていう遥ちゃんの気持ちはよくわかるわ。できるんだったら、あたしもそうしたいもの。素晴らしい愛よね。でも、遥ちゃんは一途すぎるのよ。急ぎするぎって言えばいいのかしら」
「なにかいい方法はないでしょうか」
「あればいいんだけどねえ。あたしの頭じゃ思いつかないわ。焦らないでとか、もっとリラックスしていいのよとか、月並みなことしか思い浮かばないもの。――いちばん大事なことは、大切な人に愛されてるって心の底から実感できることね。それがわかれば、気持ちがずいぶん落ち着くものなのよ」
「愛しているつもりなんですけど、わかってくれてないのかな」
思わず、僕は弱音を吐いてしまった。
「あら、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。佑弥君が遥ちゃんをほんとうに大切にしてることはすっごく感じるわ。はたから見ていて羨ましいもの。あたしだって、遥ちゃんみたいに愛されてみたいし、いつかそんな彼氏に出会いたいって思うわ。でもね、よくあるじゃない。人が親身になっていいアドバイスをくれてるのに、ぜんぜん耳に入らないことって。落ちこんじゃって、自分を見失ってることって」
「そうなんですよね。遥は自分を見失っているんですよね。――どうやったら自分を取り戻してくれるんだろう」
僕はため息をついた。
「佑弥君、ちょっと気分転換でもしてきたら。あなたが煮詰まったら、遥ちゃんはどうなるのよ」
「ほんとうにそうですよね。遥が頼れるのは僕しかいないから。――旅行にでもふらりと出かけたいんですけど」
「行ってくればいいじゃない」
「でも、遥が心配だからほっとけないですよ」
「それじゃあ、ふたりで行ってきたら。ふたりでいっしょに気分を入れ替えたらいいじゃない」
「この間、遥に旅行しようって言ったんだけど、黙って返事もしてくれなかったんです」
「八方手詰まりなのね」
オカマさんは頰杖をつく。
「そうなんです。――こんなことを話してすみません」
「あら、どうしてそんなことを言うのよ。あたしたちは友達じゃない。そうでしょ」
「ありがとうございます」
「他人行儀ね。頭を下げるほどのことじゃないわよ。こんな時のために友達がいるんじゃない」
「女の子って、こんな時どうすれば気分転換できるんですか? 僕は遥しか知らないから、よくわからないんですよ。甘いものを食べたり、髪を切ったりした時に遥の気分がよくなるのはわかるんですけど」
「そう、それがあるじゃない」
オカマさんは嬉しそうに両手を叩き、
「あのね――」
と、思いついたアイデアをこっそり話してくれた。
その週末、オカマさんは遥を呼び出してくれた。遥は気分がすぐれないことを理由にして断ろうとしたのだけど、
「せっかく、言ってくれてるんだからさ」
と、僕は遥を引っ張ってヘアサロンへ行った。夕暮れた駅前の大通りは、金曜日とあって賑やかだった。
「遥ちゃん、よく来てくれたわね。待ってたのよ」
オカマさんはいつもの笑顔で遥を迎えてくれた。白いモノトーンの内装で整えた店に『くるみ割り人形』が流れている。有線放送のバレエやオペラの曲ばかりかけているのがこの店の特徴だった。オカマさんはそれを気に入って勤めることにしたらしい。
「なに?」
遥はきょとんとしている。
「さあ坐ってよ」
オカマさんは美容椅子を足でさっと回転させた。
「予約を入れてないけど」
「あたしが入れたのよ。プレゼントよ」
「どうして? 誕生日でもないのに」
「誕生日じゃなくてもいいじゃない。プレゼントしたいから、プレゼントするの。いけないかしら」
「そんなことないけど」
遥はまだとまどっている。
「遥、人の好意は素直に受け取るもんだよ。坐りなよ」
「でも――」
「いいから」
僕は遥の背中を押して、遥を椅子に坐らせた。
「遥ちゃん、どんなふうにしようかしら」
慣れた仕草で椅子を鏡へ向けたオカマさんは遥に訊く。
「いつもとおなじでいいわ」
「あら、それだったらプレゼントした甲斐がないじゃない。ちょっとさ、気分が明るくなるような感じにしない」
「いいけど」
「それじゃあね、あたしは前から遥ちゃんに似合うヘアスタイルを考えてたから、今日はそれを試してもいいかしら」
「おまかせするわ」
「よかった」
オカマさんと僕は目を合わせてうなずいた。僕はよろしくお願いしますと言って、待合のソファーに腰かけた。
オカマさんは遥の髪を洗い、さらさらとカットする。僕は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読みながら、二人の様子をちらちら見た。初めは暗い面持ちだった遥もカットが進むにつれて、薄皮をはぐように表情が落ち着いた。オカマさんがなにくれとなく遥に話しかける。遥は、鏡に映る自分を見ては二言三言《ふたことみこと》話して気持ちよさそうに目を閉じるようになった。
カットの後、オカマさんはパーマを勧めた。
「当てたことがないから、いいわ」
と、遥はしぶったのだけど、
「あたしに任せて。遥ちゃんのパーマデビューを担当させてもらえるなんて光栄だわ」
と、オカマさんはそう言って無難にことを運んでくれた。
僕のお腹が空いて耐えられそうになくなった頃、新しい遥ができあがった。いつものように生真面目そうな感じではなく、活発で楽しそうな髪形に仕上がった。なんという名前のヘアスタイルかは知らないけど、髪のすそがぴょんと跳ねていてかわいらしい。
「わたしはこんなふうにもなるのね」
遥は手鏡を見ながらつぶやいた。まんざらでもなさそうだった。
「どう?」
オカマさんが遥の肩にやさしく手をかける。
「いいわね。なんだか違う自分になったみたい」
ようやく、遥は明るい笑顔をみせてくれた。
「そうでしょ。女は変わることができるのよ。いつでも新しい自分になれるの」
セットを終えてから、三人近くにある魚料理専門のレストランへ行った。普通の食堂にくらべていささか値は張るけど、品のある味付けで料理はどれもおいしい。遥はハマチの刺身定食、オカマさんはブリの照り焼き定食、僕は日替わり定食を頼んだ。日替わりの中身はカレイの煮付けだった。
オカマさんは小熊のような丸顔をにこにこさせて、遥の髪を何度も眺める。オカマさんとしても自信作のようだった。
「話は変わるけど、にわとりちゃんってすごいのよ」
小鉢に入っているかぼちゃの煮物を食べながらオカマさんが言う。
「どうしてですか?」
遥はちょうどハマチの刺身を口に入れたところだったので、僕がかわりに訊いた。
「廃鶏《はいけい》って聞いたことあるかしら」
「ないですけど」
僕は首を振った。
「卵を産むにわとりちゃんが役に立たなくなると廃棄処分になっちゃうんだけど、それが廃鶏なの。狭い鶏舎のなかで二十四時間、強いライトを当てられてむりやり卵を産まさせられるでしょ。そうすると、体がぼろぼろになって卵を産めなくなっちゃうのよ。もうみてられないの。羽はぱさぱさだし、ぜんぜん艶がないのね。いくらトリートメントしても、毛染めしてもだめかなあって感じなのよ。おまけに、羽が抜け落ちて骨が見えるにわとりちゃんもいるのよ」
「かわいそうね」
刺身を食べ終えた遥がようやく会話に参加した。新しい髪型がいい影響を与えているのか、今晩の遥はわりあいよく話す。
「ほんとにそうよね。でも、そんなにわとりちゃんたちのおかげであたしたちは安い値段で卵をいっぱい食べられるんだけどね。にわとりちゃんをこきつかってあたしたちは生きてるのよ。それはともかく、うちのお父さんが廃鶏を何羽かもらってきて飼うことにしたの。実家は農家だし、庭に放し飼いにしておけばいいから、手間もかからないのよ。
去年のお盆に田舎へ帰った時にちょうど飼い始めたんだけど、いつまでもつのかしらって不安だったわ。死なせたら申し訳ないじゃない。でも、今年の夏に帰ったら、にわとりちゃんはまた卵を産むようになったの。すごいでしょ。毛も抜けて、おじいさんみたいによたよた歩いて、もうほとんど死にかけてたのに、ちいさな庭で暮らしているうちに元気になったのよ。一度は要らないって言われて捨てられたにわとりちゃんなのにね」
「すごいわね」
遥は箸をとめ、感心したように言った。
「そうよ。命ってすごいのよ。リラックスして、気ままに庭を走り回って、そんなふうにふつうの暮らしをしてるだけで、ふつうに元気になるの。鶏舎にいた時より、ずっと元気なんじゃないかしら。それでね、にわとりちゃんが産んでくれた卵を食べたんだけど、それが甘くておいしいのよ。このあたりのスーパーでも地卵なんか売ってるけど、あんなの目じゃないわよ。ずっとずっとおいしいの。卵かけご飯なんかにしたら最高よ」
話し終えたオカマさんは、おいしそうにブリの照り焼きをほおばる。僕はなぜ彼がそんな話をしたのかわかった。彼は廃鶏のことを語りながら、遥を励ましてくれている。僕は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
オカマさんは、地鶏の話をあれこれとしてくれた。
農家で飼っている食肉用の鶏はむりやり成長させるための合成飼料を使わずに、粟や稗《ひえ》といった自然の雑穀を食べさせるから、味がとても濃いのだそうだ。毎日、庭先で運動をしているから、肉も引き締まって歯ごたえがある。オカマさんが実家へ帰ると、お父さんが必ず地鶏を一羽潰して鶏鍋を作ってくれるので、家族で鍋をつつくのがとても楽しみなのだとか。今度ふたりで遊びにいらっしゃいと誘ってくれた。
「腹ごなしに散歩しましょうよ。遥もいいだろ」
店を出た後、僕は二人を散歩に誘った。
街灯がともった住宅街へ入る。しんとして静かだ。遥はなんにも疑わずについてくる。やがて、目的地のタイムパーキングに着いた。
「二人でドライブへ行ってらっしゃい」
オカマさんは車のキーを差し出す。彼のシビックを貸してもらうことになっていた。受け取ったキーホルダーにはアイヌ人形のコロポックルがついていた。
「いっしょにいかないの?」
遥がオカマさんに訊くと、
「あたしは明日も仕事だから。早番だし。それじゃ」
と、彼は小さくしなを作り、こまかくかわいらしく手を振る。
「今日はありがとうございました」
僕は頭を下げた。
「楽しんできてね」
にこにこしたオカマさんは振り向き、そのまま住宅街の角を曲がった。
「いいのかしら」
遥は、まだ彼が消えたブロック塀のあたりを眺めている。
「旅行に連れてってあげて言って、貸してくれたんだよ」
「そうなの」
遥はうつむいた。目の縁がにじんでいる。オカマさんの気持ちが通じたようだった。
調布から夜の中央高速に乗った。
「どこへ行くの?」
助手席の遥が言う。カーナビは西へ表示を出している。オカマさんがあらかじめセットしておいてくれていた。
「飛騨高山のあたりだよ。紅葉《もみじ》を観に行こう。ネットで調べたんだけど、今が見頃なんだって。明日の晩は温泉宿を予約してあるんだ」
「わたしはなにも持ってきてないわ」
「荷物はトランクに入っているよ。着替えもちゃんとあるから」
「いつ準備したの?」
「昼のあいだにね」
「知らなかった」
「遥が学校へ行っているうちに、全部用意したんだ」
「そうなの。ありがとう」
「お礼なら、篠山《ささやま》さんに言わなくっちゃ。彼がお膳立てしてくれたんだよ。帰ったら、お礼になにかご馳走しようね」
「わたしの作ったコロッケが好きだっていってたわ」
「そういえば、いつかそんな話をしてたね」
「あまったコロッケでサンドイッチを作って、いっしょに食べたことがあったの。ささちゃんはすごく喜んでくれて、また食べさせてちょうだいって言ってたんだけど、まだ作ってないのよ。でも、カットしてパーマまでかけてくれたのに、コロッケじゃ、つりあわないわね」
「コロッケとほかにご馳走を用意して、篠山さんをうちに招待しようよ」
遥はなにも答えない。助手席を見ると、遥はもう眠っていた。
心なしか、いつもより安らかな寝顔だ。愛されているということを実感してくれたからだろうか。もしそうなら、ほんとうにいいのだけど。
相模湖を抜けて、大月ジャンクションをまっすぐ走る。先へ進めば進むほど乗用車が減ってトラックが増える。数珠繋ぎに走るトラックを何回も追い越した。
イグニッションキーについたコロポックルがゆらゆら揺れる。民族衣装を着て細い目を微笑ませた小人だった。妖精とも、アイヌ民族が暮らしている地域の先住民族ともいわれている。コロポックルの笑顔はとてもやさしい。野仏のようにただ微笑んでいた。
黒い山影のうえに月が見えるだけで、星はひとつも見えない。長いトンネルをずっと走っているようだ。FMから静かな音楽が流れる。車の風切音だけが響いている。
遥のことを考えると、せつなくなってしまう。
いつまでたっても晴れない暗い霧のなかで少女時代を過ごした遥は、平凡な倖せを手に入れることすらできない。ありふれた倖せのなかで育ち、そのまま平穏な人生を送る人もいるというのに、純粋すぎるほど純粋な遥には次から次へと不幸が降りかかってしまう。たぶん、遥の心には、まるで時限爆弾のようななにかとんでもないものが埋め込まれていて、それを解除しない限り、倖せになれないのだろう。それは憎しみの種、あるいは恨みの種と呼ぶべきものなのかもしれない。遥の言っていた堕落した愛情が心のなかで腐ったものなのかもしれない。それがわかっているから、心の桎梏《しっこく》になっているものを外そうとして、遥はひたすら純粋な愛を追い求めてしまうのだ。それさえ手に入ればすべてが解決するはずなのだけど、簡単には手に入らないものだから、いつも挫折感にさいなまれてしまう。自分の影に怯えてしまう。
僕は、そんな遥に寄り添ってあげることしかできない。
無力なんだとつくづく思う。
どうしてあげればいいのかはわからないけど、今はただ、ぐっすり眠って欲しかった。オカマさんが話してくれたように、リラックスして普通に暮らせば、いつか悲しみの長いトンネルを突き抜けて、コロポックルのように穏やかな笑顔を浮かべながら暮らせる日がくると信じたかった。命を取り戻した鶏のように、元気になってくれると思いたかった。
途中のサービスエリアで車をとめて二時間ばかり仮眠を取った。夜が冷たく白む頃、高速道路を降りた。