風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第7話

2012年01月02日 19時52分01秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 命はよみがえるから


 遥の状態はよくならない。
 たまに機嫌がよくなったかなと思ったら、すぐに塞ぎこんでしまう。
 心療内科へ行こうと勧めたけど、
「病院へ行っても気休めにしかならないわ。お母さんが鬱病だったから、わかるの。心療内科のお医者さんは結局のところ世間一般の人で世間の価値観にとらわれているから、ほんとうにたいせつなことがわからないのよ。心の奥深くは治せないのよ。だから、自力で治すしかないの。薬でごまかしたら、あとでもっとつらくなるだけ。わたしのお母さんはお医者さんと薬に頼ってばかりだから、病院と家を一生行ったりきたりするはめになるのよ」
 と、遥は首を振るばかりだった。
 遥はやつれた。
 僕と暮らし始めてからすこしばかりふくよかになったのだけど、一時期はきつくなったブラジャーがゆるくなった。顔全体が痩せ、大きな目が力なく浮き上がる。そんな遥を見るたびに、胸が傷《いた》んだ。
 僕はどうすればいいのかわからなくなって、ヘアサロンのオカマさんに電話をかけた。オカマさんは仕事の後、喫茶店まできてくれた。
「あたしもね、気になってたのよ。すごくしょんぼりした顔をしたり、うつむいたまま顔を上げなかったりするから――。携帯でメールを送っても、気のない返事ばかり返ってくるのよね」
 オカマさんはいつものように顔をにこにこさせながら言った。彼の笑顔はふかしたての肉まんのようにほっこりしている。僕はほっと心がなごみ、救われた気がした。遥からなにか相談を受けてないかと訊いてみたけど、オカマさんは遥ちゃんは自分のことを話さないからと言い、
「まだ、ほんとうの意味であたしに心を開いてくれてないのよね。あたしは自分の妹のように思ってるんだけど」
 と、ため息をつくだけだった。
 僕は遥の最近の様子や生い立ちをざっと話した。オカマさんの言うとおり、遥は僕以外の人に自分のことを知られるのを極度に避けていたけど、彼にだったら許してくれるだろう。
「やっぱりね。そんな感じがしてたんだけど。――子供の頃に大切なものを壊された人は、どうしてもそうなってしまうのよ。自分を守ろうとしすぎて、しゃちほこばっちゃうのよね」
「遥は、話しかけても申し訳なさそうに顔を背けたりするんですよ。ちょっとした言葉を交わすのもつらいみたいで、怯えた顔をしてうつむくこともあるし。もしかしたら遥が自殺しちゃうんじゃないかって、はらはらするんです」
「自分の殻に閉じこもっちゃってるのね。周りの人の力を借りないとどうしようもないのにねえ。つらさを乗り越えるのは遥ちゃんの言うように自分の力でやらなくちゃいけないんだけど、誰か杖になってくれる人が必要なのよ。誰かに手伝ってもらわなくちゃ、人生の問題なんて乗り越えられるものじゃないわよ」
「僕がいくらでも杖になってあげるのに」
「純粋に人を愛したいっていう遥ちゃんの気持ちはよくわかるわ。できるんだったら、あたしもそうしたいもの。素晴らしい愛よね。でも、遥ちゃんは一途すぎるのよ。急ぎするぎって言えばいいのかしら」
「なにかいい方法はないでしょうか」
「あればいいんだけどねえ。あたしの頭じゃ思いつかないわ。焦らないでとか、もっとリラックスしていいのよとか、月並みなことしか思い浮かばないもの。――いちばん大事なことは、大切な人に愛されてるって心の底から実感できることね。それがわかれば、気持ちがずいぶん落ち着くものなのよ」
「愛しているつもりなんですけど、わかってくれてないのかな」
 思わず、僕は弱音を吐いてしまった。
「あら、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。佑弥君が遥ちゃんをほんとうに大切にしてることはすっごく感じるわ。はたから見ていて羨ましいもの。あたしだって、遥ちゃんみたいに愛されてみたいし、いつかそんな彼氏に出会いたいって思うわ。でもね、よくあるじゃない。人が親身になっていいアドバイスをくれてるのに、ぜんぜん耳に入らないことって。落ちこんじゃって、自分を見失ってることって」
「そうなんですよね。遥は自分を見失っているんですよね。――どうやったら自分を取り戻してくれるんだろう」
 僕はため息をついた。
「佑弥君、ちょっと気分転換でもしてきたら。あなたが煮詰まったら、遥ちゃんはどうなるのよ」
「ほんとうにそうですよね。遥が頼れるのは僕しかいないから。――旅行にでもふらりと出かけたいんですけど」
「行ってくればいいじゃない」
「でも、遥が心配だからほっとけないですよ」
「それじゃあ、ふたりで行ってきたら。ふたりでいっしょに気分を入れ替えたらいいじゃない」
「この間、遥に旅行しようって言ったんだけど、黙って返事もしてくれなかったんです」
「八方手詰まりなのね」
 オカマさんは頰杖をつく。
「そうなんです。――こんなことを話してすみません」
「あら、どうしてそんなことを言うのよ。あたしたちは友達じゃない。そうでしょ」
「ありがとうございます」
「他人行儀ね。頭を下げるほどのことじゃないわよ。こんな時のために友達がいるんじゃない」
「女の子って、こんな時どうすれば気分転換できるんですか? 僕は遥しか知らないから、よくわからないんですよ。甘いものを食べたり、髪を切ったりした時に遥の気分がよくなるのはわかるんですけど」
「そう、それがあるじゃない」
 オカマさんは嬉しそうに両手を叩き、
「あのね――」
 と、思いついたアイデアをこっそり話してくれた。

 その週末、オカマさんは遥を呼び出してくれた。遥は気分がすぐれないことを理由にして断ろうとしたのだけど、
「せっかく、言ってくれてるんだからさ」
 と、僕は遥を引っ張ってヘアサロンへ行った。夕暮れた駅前の大通りは、金曜日とあって賑やかだった。
「遥ちゃん、よく来てくれたわね。待ってたのよ」
 オカマさんはいつもの笑顔で遥を迎えてくれた。白いモノトーンの内装で整えた店に『くるみ割り人形』が流れている。有線放送のバレエやオペラの曲ばかりかけているのがこの店の特徴だった。オカマさんはそれを気に入って勤めることにしたらしい。
「なに?」
 遥はきょとんとしている。
「さあ坐ってよ」
 オカマさんは美容椅子を足でさっと回転させた。
「予約を入れてないけど」
「あたしが入れたのよ。プレゼントよ」
「どうして? 誕生日でもないのに」
「誕生日じゃなくてもいいじゃない。プレゼントしたいから、プレゼントするの。いけないかしら」
「そんなことないけど」
 遥はまだとまどっている。
「遥、人の好意は素直に受け取るもんだよ。坐りなよ」
「でも――」
「いいから」
 僕は遥の背中を押して、遥を椅子に坐らせた。
「遥ちゃん、どんなふうにしようかしら」
 慣れた仕草で椅子を鏡へ向けたオカマさんは遥に訊く。
「いつもとおなじでいいわ」
「あら、それだったらプレゼントした甲斐がないじゃない。ちょっとさ、気分が明るくなるような感じにしない」
「いいけど」
「それじゃあね、あたしは前から遥ちゃんに似合うヘアスタイルを考えてたから、今日はそれを試してもいいかしら」
「おまかせするわ」
「よかった」
 オカマさんと僕は目を合わせてうなずいた。僕はよろしくお願いしますと言って、待合のソファーに腰かけた。
 オカマさんは遥の髪を洗い、さらさらとカットする。僕は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読みながら、二人の様子をちらちら見た。初めは暗い面持ちだった遥もカットが進むにつれて、薄皮をはぐように表情が落ち着いた。オカマさんがなにくれとなく遥に話しかける。遥は、鏡に映る自分を見ては二言三言《ふたことみこと》話して気持ちよさそうに目を閉じるようになった。
 カットの後、オカマさんはパーマを勧めた。
「当てたことがないから、いいわ」
 と、遥はしぶったのだけど、
「あたしに任せて。遥ちゃんのパーマデビューを担当させてもらえるなんて光栄だわ」
 と、オカマさんはそう言って無難にことを運んでくれた。
 僕のお腹が空いて耐えられそうになくなった頃、新しい遥ができあがった。いつものように生真面目そうな感じではなく、活発で楽しそうな髪形に仕上がった。なんという名前のヘアスタイルかは知らないけど、髪のすそがぴょんと跳ねていてかわいらしい。
「わたしはこんなふうにもなるのね」
 遥は手鏡を見ながらつぶやいた。まんざらでもなさそうだった。
「どう?」
 オカマさんが遥の肩にやさしく手をかける。
「いいわね。なんだか違う自分になったみたい」
 ようやく、遥は明るい笑顔をみせてくれた。
「そうでしょ。女は変わることができるのよ。いつでも新しい自分になれるの」
 セットを終えてから、三人近くにある魚料理専門のレストランへ行った。普通の食堂にくらべていささか値は張るけど、品のある味付けで料理はどれもおいしい。遥はハマチの刺身定食、オカマさんはブリの照り焼き定食、僕は日替わり定食を頼んだ。日替わりの中身はカレイの煮付けだった。
 オカマさんは小熊のような丸顔をにこにこさせて、遥の髪を何度も眺める。オカマさんとしても自信作のようだった。
「話は変わるけど、にわとりちゃんってすごいのよ」
 小鉢に入っているかぼちゃの煮物を食べながらオカマさんが言う。
「どうしてですか?」
 遥はちょうどハマチの刺身を口に入れたところだったので、僕がかわりに訊いた。
「廃鶏《はいけい》って聞いたことあるかしら」
「ないですけど」
 僕は首を振った。
「卵を産むにわとりちゃんが役に立たなくなると廃棄処分になっちゃうんだけど、それが廃鶏なの。狭い鶏舎のなかで二十四時間、強いライトを当てられてむりやり卵を産まさせられるでしょ。そうすると、体がぼろぼろになって卵を産めなくなっちゃうのよ。もうみてられないの。羽はぱさぱさだし、ぜんぜん艶がないのね。いくらトリートメントしても、毛染めしてもだめかなあって感じなのよ。おまけに、羽が抜け落ちて骨が見えるにわとりちゃんもいるのよ」
「かわいそうね」
 刺身を食べ終えた遥がようやく会話に参加した。新しい髪型がいい影響を与えているのか、今晩の遥はわりあいよく話す。
「ほんとにそうよね。でも、そんなにわとりちゃんたちのおかげであたしたちは安い値段で卵をいっぱい食べられるんだけどね。にわとりちゃんをこきつかってあたしたちは生きてるのよ。それはともかく、うちのお父さんが廃鶏を何羽かもらってきて飼うことにしたの。実家は農家だし、庭に放し飼いにしておけばいいから、手間もかからないのよ。
 去年のお盆に田舎へ帰った時にちょうど飼い始めたんだけど、いつまでもつのかしらって不安だったわ。死なせたら申し訳ないじゃない。でも、今年の夏に帰ったら、にわとりちゃんはまた卵を産むようになったの。すごいでしょ。毛も抜けて、おじいさんみたいによたよた歩いて、もうほとんど死にかけてたのに、ちいさな庭で暮らしているうちに元気になったのよ。一度は要らないって言われて捨てられたにわとりちゃんなのにね」
「すごいわね」
 遥は箸をとめ、感心したように言った。
「そうよ。命ってすごいのよ。リラックスして、気ままに庭を走り回って、そんなふうにふつうの暮らしをしてるだけで、ふつうに元気になるの。鶏舎にいた時より、ずっと元気なんじゃないかしら。それでね、にわとりちゃんが産んでくれた卵を食べたんだけど、それが甘くておいしいのよ。このあたりのスーパーでも地卵なんか売ってるけど、あんなの目じゃないわよ。ずっとずっとおいしいの。卵かけご飯なんかにしたら最高よ」
 話し終えたオカマさんは、おいしそうにブリの照り焼きをほおばる。僕はなぜ彼がそんな話をしたのかわかった。彼は廃鶏のことを語りながら、遥を励ましてくれている。僕は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
 オカマさんは、地鶏の話をあれこれとしてくれた。
 農家で飼っている食肉用の鶏はむりやり成長させるための合成飼料を使わずに、粟や稗《ひえ》といった自然の雑穀を食べさせるから、味がとても濃いのだそうだ。毎日、庭先で運動をしているから、肉も引き締まって歯ごたえがある。オカマさんが実家へ帰ると、お父さんが必ず地鶏を一羽潰して鶏鍋を作ってくれるので、家族で鍋をつつくのがとても楽しみなのだとか。今度ふたりで遊びにいらっしゃいと誘ってくれた。
「腹ごなしに散歩しましょうよ。遥もいいだろ」
 店を出た後、僕は二人を散歩に誘った。
 街灯がともった住宅街へ入る。しんとして静かだ。遥はなんにも疑わずについてくる。やがて、目的地のタイムパーキングに着いた。
「二人でドライブへ行ってらっしゃい」
 オカマさんは車のキーを差し出す。彼のシビックを貸してもらうことになっていた。受け取ったキーホルダーにはアイヌ人形のコロポックルがついていた。
「いっしょにいかないの?」
 遥がオカマさんに訊くと、
「あたしは明日も仕事だから。早番だし。それじゃ」
 と、彼は小さくしなを作り、こまかくかわいらしく手を振る。
「今日はありがとうございました」
 僕は頭を下げた。
「楽しんできてね」
 にこにこしたオカマさんは振り向き、そのまま住宅街の角を曲がった。
「いいのかしら」
 遥は、まだ彼が消えたブロック塀のあたりを眺めている。
「旅行に連れてってあげて言って、貸してくれたんだよ」
「そうなの」
 遥はうつむいた。目の縁がにじんでいる。オカマさんの気持ちが通じたようだった。
 調布から夜の中央高速に乗った。
「どこへ行くの?」
 助手席の遥が言う。カーナビは西へ表示を出している。オカマさんがあらかじめセットしておいてくれていた。
「飛騨高山のあたりだよ。紅葉《もみじ》を観に行こう。ネットで調べたんだけど、今が見頃なんだって。明日の晩は温泉宿を予約してあるんだ」
「わたしはなにも持ってきてないわ」
「荷物はトランクに入っているよ。着替えもちゃんとあるから」
「いつ準備したの?」
「昼のあいだにね」
「知らなかった」
「遥が学校へ行っているうちに、全部用意したんだ」
「そうなの。ありがとう」
「お礼なら、篠山《ささやま》さんに言わなくっちゃ。彼がお膳立てしてくれたんだよ。帰ったら、お礼になにかご馳走しようね」
「わたしの作ったコロッケが好きだっていってたわ」
「そういえば、いつかそんな話をしてたね」
「あまったコロッケでサンドイッチを作って、いっしょに食べたことがあったの。ささちゃんはすごく喜んでくれて、また食べさせてちょうだいって言ってたんだけど、まだ作ってないのよ。でも、カットしてパーマまでかけてくれたのに、コロッケじゃ、つりあわないわね」
「コロッケとほかにご馳走を用意して、篠山さんをうちに招待しようよ」
 遥はなにも答えない。助手席を見ると、遥はもう眠っていた。
 心なしか、いつもより安らかな寝顔だ。愛されているということを実感してくれたからだろうか。もしそうなら、ほんとうにいいのだけど。
 相模湖を抜けて、大月ジャンクションをまっすぐ走る。先へ進めば進むほど乗用車が減ってトラックが増える。数珠繋ぎに走るトラックを何回も追い越した。
 イグニッションキーについたコロポックルがゆらゆら揺れる。民族衣装を着て細い目を微笑ませた小人だった。妖精とも、アイヌ民族が暮らしている地域の先住民族ともいわれている。コロポックルの笑顔はとてもやさしい。野仏のようにただ微笑んでいた。
 黒い山影のうえに月が見えるだけで、星はひとつも見えない。長いトンネルをずっと走っているようだ。FMから静かな音楽が流れる。車の風切音だけが響いている。
 遥のことを考えると、せつなくなってしまう。
 いつまでたっても晴れない暗い霧のなかで少女時代を過ごした遥は、平凡な倖せを手に入れることすらできない。ありふれた倖せのなかで育ち、そのまま平穏な人生を送る人もいるというのに、純粋すぎるほど純粋な遥には次から次へと不幸が降りかかってしまう。たぶん、遥の心には、まるで時限爆弾のようななにかとんでもないものが埋め込まれていて、それを解除しない限り、倖せになれないのだろう。それは憎しみの種、あるいは恨みの種と呼ぶべきものなのかもしれない。遥の言っていた堕落した愛情が心のなかで腐ったものなのかもしれない。それがわかっているから、心の桎梏《しっこく》になっているものを外そうとして、遥はひたすら純粋な愛を追い求めてしまうのだ。それさえ手に入ればすべてが解決するはずなのだけど、簡単には手に入らないものだから、いつも挫折感にさいなまれてしまう。自分の影に怯えてしまう。
 僕は、そんな遥に寄り添ってあげることしかできない。
 無力なんだとつくづく思う。
 どうしてあげればいいのかはわからないけど、今はただ、ぐっすり眠って欲しかった。オカマさんが話してくれたように、リラックスして普通に暮らせば、いつか悲しみの長いトンネルを突き抜けて、コロポックルのように穏やかな笑顔を浮かべながら暮らせる日がくると信じたかった。命を取り戻した鶏のように、元気になってくれると思いたかった。
 途中のサービスエリアで車をとめて二時間ばかり仮眠を取った。夜が冷たく白む頃、高速道路を降りた。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第6話

2012年01月01日 17時06分22秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 まっさらな心を思い出して


「ゆうちゃん、生理がこないの」
 遥は蒼ざめた顔をしていた。夕飯の洗い物を終えたばかりの濡れた手をエプロンでぬぐう。
「どれくらい遅れてるの?」
「十日くらいかな。もうとっくにきてもいいはずなのに」
「ちょっと調べてみようか」
 僕は、薬箱から妊娠検査薬キットを出した。
 遥の生理が遅れたことは、前にも何度かあった。さすがに初めての時はあせったけど、もう慣れてしまった。安全日以外はきちんとコンドームをつけていたから、それほど心配することでもないだろう。女の子の体はデリケートだから、いつも周期ごとにくるとは限らない。遥は、キットを手にしたまましょんぼりとちゃぶ台の前に坐った。つけっぱなしのテレビのニュースは、失業率がまた上がったと伝えていた。
「三分経ったね。貸してごらん」
 僕は検査薬キットを遥の手から取った。妊娠を示すラインは浮かんでいない。
「陰性だよ」
「ほんとうかしら?」
 遥は眉の端をひっそりさせ、不安げに首を傾げる。
「説明書には念のために病院で検査してくださいって書いてあるけど、キットは九十九パーセントの確率で正確らしいから、大丈夫だよ思うよ。もし何日かしてまだ始まらなかったら、いっしょに病院へ行こうよ」
 早くくるものがきて、遥が安心してくれないかと願ったけど、三日経っても遥の生理はこなかった。僕たちは近所の産婦人科の開業医へ行った。
 古ぼけた診療所の待合室は満員だった。壁沿いに四つ並んだ黒いビニール張りの長椅子がすべて埋まっている。臨月間近の大きなお腹をした妊婦もいれば、ひどくやつれた顔をした中年の女性もいた。薬の臭いに混じってむせるような生温かい匂いがする。鼓動し始めたばかりの命の匂いなのだろうか。明治や大正の頃からあるようなアンティークな柱時計が壁際に据えてあって、時間になると鐘を鳴らし、くりっとした目の愛らしい鳩が飛び出してさえずった。
「どうしてくれるのよ。あんたのせいじゃん」
 突然、若い女の甲高い声が静かな待合室に響く。向かいの長椅子に坐っていた僕たちと同い年くらいのカップルは、二人ともひどく不機嫌そうだ。彼氏をなじった女の子は唇を尖らす。怒っているせいかもしれないけど、整った顔立ちがかえって擦り切れた冷たさを感じさせた。
「知るかよ。ほかの男の子供じゃねえのか」
 肩まで髪を伸ばした男はぶっきら棒にそっぽを向き、腕を組んで貧乏ゆすりした。
「浮気してるのはあんたでしょ」
 女は声を押し殺す。
「よく言うよ。だったら訊くけどさ、ブログに書いてたことはなんなんだよ」
「だから、あれはあんたが温泉へ連れてってくれるって言ってたのに、ほかの女と行っちゃうから腹いせに書いただけだよ」
「女とふたりで行ったんじゃねえよ。キー坊とキー坊の彼女と、彼女の後輩と四人で行ったんだよ」
「彼女の後輩って女でしょ。それってダブルデートじゃん。布団のなかでなにをしたのさ。まさか四人でってことはないでしょうね」
「だからちげーよ。ただのお友達。指一本触れてません」
「大嘘つき。なんであたしを連れてってくれなかったんだよ」
「お前は、あそこは嫌だ、ここは嫌だって、こだわりすぎなんだよ。うるさいじゃん。めんどくさいから、キー坊とさっさと行くことにしただけだよ。お前の言うことを聞いてたら、どこへも行けないもん」
「お金出すんだから、ちゃんとしたところを選ぶのは当たり前でしょ」
「当たり前だけどさ、お前は文句が多すぎるんだよ」
 男は投げやりだ。
「手術代はあんたが出すんだからね」
 女は彼氏を肘でつついた。
「なんで俺が出さなきゃいけねえんだよ。お前がぼけっとしてるから、こんなことになったんだろ」
「楽しんだのはあんたじゃん。エッチさせてあげたぶん、お金を払ってほしいくらいだよ。今までのもまとめて全部ね」
「よがってたのは誰なんだよ。お前が人のことも考えないでしめつけすぎるから、こんなことになったんだろ」
 二人の声はだんだん大きくなる。診察室から飛び出してきた看護婦が注意して、いったんは喧嘩もやんだのだけど、またしばらくして始まった。要するに、お金の問題だった。自分は損したくないと言い張って押し問答を繰り返している。耳障りだから、遥といっしょに庭へ出た。
 外は小春日和のいい天気。風もあたたかい。ふたりは枯れかけた藤棚のしたのベンチに腰をおろした。雀が舞い降り、つつじの植え込みの陰で地面をつつきながら餌をあさっている。
 若い母親が自転車を押しながら入ってきた。前の子供椅子に幼稚園の帽子を被った小さな男の子が乗っていて、楽しそうに腕を振り回して独り遊びをしている。大人には見えないアニメのキャラクターと戦っているようだ。庭の片隅の自転車置場にママチャリをとめた若い母親は楽しげな子供を睨み、きっと目をすえた。
「早く降りなさい。なにしてんのよ。ぐずぐずして」
 いきり立った彼女は怒鳴りつけ、男の子の頭を手ひどくひっぱたく。男の子は火がついたように泣き始めた。若い母親は自分の子供にまた罵声を浴びせ、なにがそんなに腹立たしいのか、乱暴に抱えて子供椅子からひきずりおろした。男の子はどうしてよいのかわからず、泣き叫びながら同じところをぐるぐる走り回る。
「自転車の子供椅子から、自分ひとりで降りられるはずがないよね。降ろしてあげなかったらどうしようもないのに」
 僕は、診療所のドアを開ける若い母親の姿を目で追った。
「死んだ愛が心のなかで腐っているんだわ」
 遥は静かにつぶやく。
「最近、あっちこっちでヒステリックなお母さんを見かけるけど、貯金箱を壊すみたいに子供を叩くから怖いよね。僕が子供の頃だってみんなひっぱかたれていたけど、今のお母さんはなんか違うんだよな。愛情がない怒りかたって感じがする」
 僕は自分の母親を思い出しながら言った。僕の小さい頃は、まだ愛情のある叱りかたをしていた。だけど、中学になってからはただヒステリックなだけになった。どうも世の中全体がどんどんヒステリックになっていくようだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「愛情がないのは、そのぶん欲望がふくれてるからなのよ」
「どういうこと?」
「愛情が大きくなったら、欲望はしぼんじゃうの。逆に、欲望がおおきくなったら、愛情はしぼんじゃうのよ」
「そうして、しぼんだ愛情が心のなかで死んで、心を蝕んでしまうんだね。最善の堕落は最悪、か。――ストレス社会だから、ヒステリックになるっていう人もいるけど」
「ストレスのもとは欲望よ」
「たしかにそうだね。欲しいものを手に入れるためにがまんしたり、逆に、欲しいものが手に入らないからいらいらしたりするわけだからね」
「世の中が世知辛いからってみんな言い訳するけど、わたしはそうじゃないと思う。欲望に流されるからそうなるのよ。欲望に従うことが当たり前だと思って、大切なことを見ないからよ。自分のわがままでいろんなことをだめにしておいて、それから言い訳するの。わたしのせいじゃない、わがままに生きたいだけだって。欲得ずくでなにがいけないの、みんなそうしているじゃないって」
 遥はそう言って押し黙り、胸の内の不安と欲望と格闘するように眼を閉じる。
「ねえ、もし赤ちゃんができていたらどうする?」
 遥の声はすこしばかり震えていた。
「決まってるだろ。いっしょに育てようよ。僕は仕事を探しに行く。最初は大変かもしれないけど、そのうち慣れるよ。遥は学校を続けなよ」
「ゆうちゃんはやめるの」
「そりゃ、稼がないといけないからね」
「だめよ、浪人までして入った大学じゃない。もったいないもの。わたしが学校をやめて働く。わたしひとりで育てるわ。それとも、堕ろそうかしら」
「ばかなことを言うなよ。僕たちの子供じゃないか。殺してどうするんだよ。一生後悔するよ」
 僕は、遥が堕そうかと言うのを聞いてどきりとしてしまった。絶対にそんなことはさせられない。赤ちゃんがかわいそうというだけじゃない。もし堕胎なんかしたら、遥のことだから一生罪悪感に悩まされるのは目に見えている。不幸になるだけだ。
「もしできていたら、きちんと育てようよ。いいね?」
 僕は駄目を押すように強く言った。
「わたしが子供を産んでもいいのかしら?」
 遥は自信なさそうに顔を伏せ、軽く首を振って頰にかかった髪を払った。
「どうして?」
「そんな資格があるのかなって思ってしまうの」
「遥なら、きっといいお母さんになれるよ」
「家庭の味も知らないのに? さっきのお母さんみたいになってしまうかも」
「つらい家に生まれたから、自分の家族を大切にできるんだよ。たぶん、なんの問題もなく普通に育った人は、自分が家庭を壊すようなことをしても気づかないんだと思う」
「――わたしは怖いわ。自分の心のなかにどうしようもないものがあるの。それが動き出したら、とめられないかもしれない」
「それを知っているから、いいお母さんになれるんじゃないのかな。誰にでも、得体の知れないものが心の奥にあるんだよ。魔物が棲《す》んでいるっていえばいいのかな。――それに気づいている人はごくわずかだよね。わかっていたら気をつけることもできるけど、わかっていなかったら、心の闇にいいようにされてしまうだけになるんだよ。たぶん、僕の親も、遥の家族もそうだったんだと思う。でも、大丈夫。遥はそんなふうにはならないよ」
「そうだといいんだけど」
「もしそうなりかけたら、ふたりできちんと話をしようよ。僕がとめてあげる」
「ごめんね。わかっているのよ。いまでもじゅうぶん、わたしはしあわせなのよね。いつでもゆうちゃんがそばにいてくれるし。ゆうちゃんはいつでもわたしを受け容れてくれるんだもの。自分を受け容れてくれる人に出会える人はさいわいよ」
「遥だって、僕を受け容れてくれているんだよ」
 看護婦が遥の名前を呼んだ。僕は遥の手を牽いていっしょに診察室へ入った。
 検査の結果、遥は妊娠していないことがわかった。老医師の見立てはストレスのせいだろうとのことだった。ストレスを溜めこんで生理不順になる女性が増え続けているらしい。医師の説明を遥のそばで聞いていて、遥の葛藤は僕が考えている以上にすさまじいものだと思い知らされた。
「気を楽にしなさい」
 老医師は微笑みを浮かべ、肩をほぐす仕草をしながら言ってくれたのだけど、遥は浮かない顔のままだ。
「お嬢さん、生きることは悩むことですよ。私はこの歳になっても、まだ悩み続けている。棺桶に片足をつっこんでいるのだから、もうそろそろ、いつお迎えがきてもいいように心の準備をしておかないといけない歳なのにね。若いあなたがいろいろ悩むのもむりはない」
 厳しく優しく澄んだ瞳をした老人は、冗談めかして言った。遥は膝のうえでぎゅっと拳を握る。まぶたが怯えたように打ち震えた。
「あなたがたもお忙しいかもしれないが、すこしだけ話をさせてください」
 老医師は笑顔をやめ、ふっと真顔になった。
「私が高校生だった頃、もう半世紀以上前のことですが、身重の姉が崖から海へ身を投げてしまいました。自殺する二日前、思いつめた顔をした姉が私と話したそうにしていたのですが、受験のことで頭がいっぱいだった私は冷たくあしらってしまいました。そのことが、今でも心の底に重く沈んでいます。あの時、きちんと話を聞いてあげれば、あるいはあんなことにはならなかったのではないかと思うと、悔やんでも悔やみきれません。姉と姉の子の死がきっかけになって、私はこの道を選びました。
 産婦人科医になってから、これまで数万人の赤ん坊を取り上げました。どの赤子もまっさきにすることは、泣くことです。人は、泣きながらこの世に生をうけます。医学的には泣かなければ呼吸できないわけですが、ひょっとしたら、赤子にとって誕生は死なのではないかと思わないでもありません。それまで母親の子宮のなかでゆったりと羊水に漂って楽しく過ごしていたのに、抵抗できない力でいきなり見ず知らずの外界へ引きずり出されるわけですから、見方を変えれば恐ろしい死なのかもしれません。死というのが言い過ぎなら、エデンの園を追放されて荒野へ出たアダムとイブのようなものでしょうか。
 とはいえ、赤ん坊はすぐにこの世界に順応します。それどころか、好奇心に胸を弾ませて毎日わくわく過ごします。ありがたいことに、私の取り上げた赤子を連れて挨拶しにこられるお母さんがおられますが、彼女たちの幸せそうな姿を見るのが、いちばん楽しい。生きていてよかったと思える瞬間です。赤ん坊はつぶらな瞳を輝かせながら、笑って、泣いて、はしゃいで、むずかって、心を全開にして生きています。それは、あなたにもかつてあったことなのですよ。
 赤子の時の記憶を思い出すことはできませんが、一度、想像してみてはどうでしょうか。なんでも不思議がって、なんでも面白がっていた赤子の時代を。まっさらな心で思いっきり生きていた時のことを。
 あなたがなにをそんなに悩んでいるのか、私にはわかりませんが、悩み事はリュックのようなものだとお思いなさい。それを担いで歩くのが人生です。肩が痛くなったら、歩くのをやめて、そのリュックをかたわらにおろして休憩なさい。太陽の光を浴びて、草の匂いをかいで、なにもない青空のようなまっさらな心を思い出したら、またそのリュックを担いで行きなさい。私の言いたいことはこれだけです」
 老医師は、やさしいまなざしを遥へ注ぐ。
「はい」
 遥は小さくうなずいた。遥の瞳にはいくぶん輝きが戻っている。僕はほっと息をついた。
「大切なのはまっさらな心です。悩むのもほどほどにして、気を楽になさい」
 老医師は目尻に笑い皺を作り、ゆっくり両肩を回す。僕たちはお礼を言って診察室を出た。
 駅前まで行って、スーパーへ寄った。
「いいお医者さんだったね」
 僕は、しいたけのパックを籠に入れながら言った。
「そうね。わたしもまっさらな心で生きていた時があったのよね。それから、誰にでもいろいろあって、みんなリュックを担いでいるのね」
 遥は普段と同じ表情で白葱を見比べている。僕は、張りこんですき焼きの材料を買った。おいしいものを食べて、もっと元気になって欲しかった。
 緊張がほどけたせいか、その晩から遥の月経が始まった。用意周到な遥が珍しく生理用ナプキンを切らしていたから、僕はあわててコンビニへ買いに行った。コンビニ袋に入れたナプキンをぶらさげて走りながら、子供ができたらどうなるのだろうと考えた。今度は、紙おむつを買いにコンビニへ走ることになるのだろうか。それも悪くない。むしろ、待ち遠しい気がする。秋の夜風が快い。
 あと二年半で卒業だ。
 とにかく、内定だけは取れるようにがんばろう。
 仕事さえ決まれば、僕たちの未来は開ける。
 ふたりでしっかり生きていこう。
 僕たちが欲しくてもどうしても得られなかったもの――倖せな家庭を築こう。
 将来のふたりの姿を想い描いて、三人になった家庭を空想して、僕はどきどきしながらワンルームマンションの階段を一段飛ばしに駆け上った。
 だけど、息を切らせてドアの前に立った僕は、突然、頭のてっぺんからつまさきまで鳥肌が立つのを覚えた。なにかに摑まれたように心臓がぎゅっと締まる。嫌な予感がして、胸騒ぎがどうにもとまらない。僕は急いで鍵を開けた。
 冷たい部屋にくぐもったうめき声が響いている。遥の姿は見当たらない。ユニットバスの扉が開いて、明かりがもれていた。
「どうしたの?」
 遥は、ユニットバスの便器にかがみこんで吐いていた。プラスチックの床には血が流れ、なんともいえない臭いがこもっている。僕は換気扇のスイッチを入れ、遥の背中をさすった。
「遥、大丈夫?」
 そう呼びかけても、顔をしかめた遥は苦しそうに首を振るのが精一杯だった。
 せっかく、すこしは元気を取り戻してくれたものだと思っていたのに。
 今晩のすき焼きだって、おいしそうに食べてくれていたのに。
 遥の顔からすっかり血の気が引いている。遥は、激しい嘔吐を繰り返す。
 走りながら想い描いていたふたりの未来図が音を立てて崩れるようで、僕は薄暗い不安に駆られた。


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