Twitterで見かけた言葉 (2010/05/18)
「神が直接「私」に語りかけなくても、他の人に語りかける神の働きを見て、あるいは知って、神を信じるということも十分あり得る。いや、むしろその方がはるかに多い。とくに、牧師の子どもたちは「自分に」というより「教会に」働く神を知る。」(日本聖公会の退職した司祭、文屋[ぶんや]善明)
大変興味ある言葉で、同感である。末日聖徒の場合、二世・三世が牧師の子供に該当する。私もlds教会で会員の証しや聖餐会の話を聞いて「神の働き」を感じることがよくある。特に教会の指導者はそのような顕著な例を知っていて説教の中で紹介されるので、そのような時は深い感動を覚える。
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牧師の説教に登場する人物もモルモン時代に指導者がスピーチする際に登場する人物も、他者の目には神聖な力が作用しているのが伝わり見た者の心に深い感銘を与えます。
それを聴く者も感銘を覚えます。高名な聖職者でなければ、そんな力は作用しないと云った不要な色眼鏡を外せば、太陽や雨の恵みと同じように誰でも神の力を受けうると言えます。
もし、品行方正、清廉潔白でなければ神の力も恵みも対象外としたのならマグダラのマリアやサウロや遊女ラハブが、より大きな恵みに与ることなどあり得ない事となってしまいます。
私自身は、非キリスト者の道を選ぼうとしている途中ですが、真実は真実です。街の破落戸であろうが、聖職者であろうが、警察官であろうが善は善、非道は非道です。
神は偏り見ることをなさらない公正、公平、公義の完全なる神です。
主なる神を讃美するに如何なる肩書きや役職を誰が必要条件として決められましょう。
心の直き者に下りし神の力と栄光を嘲ることなど出来ない。時に、一人の普通の人間を通して多くの人に草の露のように、恵みが降ります。否定し得ない真実であり神の栄光の現れです。
塵より作られし者を、御業の道具として用いることが出来るのは神の他におられません。
>神は偏り見ることをなさらない公正、公平、公義の完全なる神です。
>主なる神を讃美するに如何なる肩書きや役職を誰が必要条件として決められましょう。
素晴らしい内容ですね。 感動です!!
>私自身は、非キリスト者の道を選ぼうとしている途中ですが、真実は真実です。
あなたのような方がどうしてキリストから離れようと考えるのでしょうか?
真実は真実です!! 紛れもなくです。