[撮影Steadie Saneyoshi]
2017年度の「LDS聖研グループ研究会」が東京高田馬場にある「エムワイ貸会議室」で行われた。午後1-4時で4件の発表を20数人の参加者が聞いた。
[image fr 'Stumbling through Kiwiland']
二部に分かれた最初に坂戸のテトゥアヌイ監督が「逃げた猫が公的に認められた現在、私達はどうすればよいか」という題で50分通訳(桑畑俊一)を介して熱心に聴衆に話しかけた。「逃げた猫」とは、教会にとって望ましくない教会歴史の情報や教義上の問題が、一般社会で得られるようになった事情を指す。バラード十二使徒がこの件に関し、教会の指導者たちに末日聖徒の研究者が著した優れた書籍からも学ぶように指導されたことに触れ、T監督はG.A.プリンス、パトリック・Q・メイソン、グラント・ハーディらの名をあげ、彼らから学び、力づけられると語った。教会は伝統や権威にとらわれず、柔軟に良心の声に従う会員(リベラル)をもっと必要としている(Ringwood 引用)。教会の過去に基づいて教会を判断してはならない、と語った。中で、引用に値する名言をいくつも残していったので、別に稿を起したいと思う。
一部の二番目にこのグループの主宰者鈴木壮一郎兄弟から、彼の系図探究の成果を聞いた。
お寺はもちろん、国会図書館に通い、千葉のキリスト教会などを訪れ、祖先がプロテスタント教会を興したことが紹介された。その発見の過程は、意外性に富んだ物語でこの日の圧巻であった。聞く者は一同、驚き、感動を覚えた。
15分の休憩をはさんで二部に入り、まず岸野みさを姉妹から彼女が主宰する文芸を含むネット上のフォーラム「穀粒」の趣旨と現状を聞いた。教会が米国本部による中央集権体制を固める中、機関誌リアホナは「官」の様相を帯び始めているように見える(沼野観察)。日本人による詩歌をはじめ、意見・情報交換、信仰指導、教義解説などが見られなくなっている、もしくはごく少なくなっているので、このようなフォーラムが「民」の役割を果たしていると思う。
最後に九州大学准教授のアンドリュー・ホール兄弟が、日本の末日聖徒が日ユ同祖論をどう見ているか、アンケート調査の結果を含め、その認識形成を歴史的に追って解説した。「信仰の血統」(ユダヤ・キリスト教を受け入れやすい人種)なるものがあるのか、英国にも英ユ同祖論と呼べる伝承があったこと、日本の一般クリスチャンは今日同祖論を全く問題としていないこと(末日聖徒は7割が聞いたことがある、半分があり得る、と答えているのと対照的)など大変興味深い内容を展開した。
会場は四つの異なった種類の発表を、暖かく、期待をもって聞こうとする雰囲気に包まれた。会を重ねる毎に互いに顔見知りになって、一つの学ぶ共同体ができていくようで楽しい。
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気になった点がいくつかあります
>坂戸のテトゥアヌイ監督が「逃げた猫が公的に認められた現在、私達はどうすればよいか」という題で50分通訳(桑畑俊一)を介して熱心に聴衆に話しかけた。
これって日本語の達者でない外国人がビショップやってるんですか? 地元に適任者がいないのかなァと
>このグループの主宰者鈴木壮一郎兄弟
以前はNJさんを中心に、というはほぼ一人で開催されていましたが、交代したのですか?
>日本人による詩歌をはじめ、意見・情報交換、信仰指導、教義解説などが見られなくなっている
まァ、モルモンの意見交換ってちょっとでも教会への批判的意見を述べるとアレですから・・・見られなくなるのは当然かもです
>末日聖徒は7割が聞いたことがある、半分があり得る、と答えているのと対照的
こういう調査ってどうやって調べてるんでしょう? 私は今まで教会からの公式・非公式を含めてまったくアンケートなど受けた経験が全くありませんが・・・地元の市町村からは何回か郵便でアンケート用紙が届きました、それは無作為で送られてくるそうです
鈴木兄弟はグループの代表、私はグループの活動の一部、研究会(集まって研究発表)の係です。
批判的記事はその通りですが、ちょっと学術的専門的な記事が見られなくなっています。昔ならヒュー・ニブレーの連載記事(英文機関誌)のようなものが読めましたが、今は姿を消しました。
アンケート調査、教会は敬遠しているようです。実施する人とその地の指導者にもよるようですが。今回、ホール教授は九州でできて、私は大阪でやんわり、個人でするのなら、と言われ、友人、身の回りの人に20人だけできました。(その点では片寄りが出るのは避けられませんでした。)
>教会は伝統や権威にとらわれず、柔軟に良心の声に従う会員(リベラル)をもっと必要としている(Ringwood 引用)。
つまりネットで逃げた猫を見かけてがっかりしても、教会の伝統や権威に、びくびくするのではなく、各自柔軟に、ただし悪意は持たずに解釈して欲しい。そういうたくましい教会員がもっと増えてくれなきゃ教会は困るということなのでしょう。
>教会の過去に基づいて教会を判断してはならない、と語った。
教会の過去は色々問題山積だったが、今の教会は立派に成長したから、がっかりしたり心配しなくていい。 そういうメッセージですね。
>バラード十二使徒がこの件に関し、教会の指導者たちに末日聖徒の研究者が著した優れた書籍からも学ぶように指導されたことに触れ、T監督はG.A.プリンス、パトリック・Q・メイソン、グラント・ハーディらの名をあげ、彼らから学び、力づけられると語った。
バラード十二使徒がこの席で、教会が過去にあわてて破門してしまったまじめな研究者の著書もついでに挙げられるようになれば、太っ腹だったんですけどね。
アメリカ事情に詳しいわけだから、教会本部一辺倒の見方(・・・教会が米国本部による中央集権体制を固める中、機関誌リアホナは「官」の様相を帯び始めているように見える(沼野観察)・・・)以外も、分かちあってもらうというメリットもあり得るということでしょうかね。
確か「決闘」があったとろだよなぁ。それにしても暑いと思いつつ。
3分前に会場へ。
NJさんから「どちらから?」と聞かれ。名乗ると「あ鹿児島の」と迎えられる。
後ろの席のイケメン兄弟から「もしかして「オムナイさんですか?」と聞かれた。「あ、はい。よろしくお願いします。」と照れた。
元さいたまステークなので川越のビショップの基調講演のせいだろうかちらほら見知った顔も。
通訳の桑畑兄弟は以前のホームワードにステークの役員?かなにかで訪問された折、神権会だったかで隣の席になったことがある。
エマスミスの話題になった時「ジョセフスミスとエマはあまり夫婦仲が良くなかったみたいだね」と教えてくれたのが印象的。
以下テトゥアヌイ・ビッショプの講演メモの一部
・福音のテーマの論文を読んで無神論者になった兄弟の話
・日本のメンバーは信仰の危機に対する備えが出来ていない
・日本ではまだ、そよ風のような嵐だが、やがて他の国のように大嵐がくる
・理解ある環境と納得できる説明が必要
・教会からお金をもらっていない研究者が必要
・神はリベラルだと思う
・祈り・聖典学習に加え福音のテーマの論文のような研究も日々学ぶべき。
・アブラハム書は聖典から除外すべきと言っている学者もいる
・ジョセフ・スミスはエマから性的に受け入れてもらえず、一夫多妻に走った
・抜き身の剣で天使から脅されたのはジョセフの言い訳
・ホームワードでリベラルな会を開くのにステーク会長から許可をもらうのに3年ほどかかった
ーーー
個人的に認識が違う部分もありましたが、良心の声に従う会員=リベラルという定義には好印象でした。
このような会が今後ますます多く開かれますように。
主宰者鈴木壮一郎兄弟並びに影の主宰者様wに感謝いたします。
どうしてわざわざこんな事を書くんですか?
これはここの元記事の中の
・教会は伝統や権威にとらわれず、柔軟に良心の声に従う会員(リベラル)をもっと必要としている(Ringwood 引用)。
を自分なりにメモしたみたいですね。
>だってこのブログにコメント書く人たちって、程度の差こそあれ、預言者の言葉に対して「それは彼個人の見解であって真理ではない」として受け入れない事があるじゃないですか。
>オムナイさん自身もそうしてきたのではないですか?
はい、そうですが多くは現代の聖徒に対しても適応する教えを述べています。
時代を経て役割を終える教えがあっても当然だと思います。
>たとえ預言者たちの発言であっても、個々に捕らえ方が異なっていても教会では容認されていると思います。
だと思います。
ただ個人的には過去の問題発言を仕分けするのは如何なものかと思っていまして。
むしろ個々の研究意欲を奨励して、成り行きに任せる方が得策かと思います。
そう言った意味では過去の預言者の発言はそのまま隠蔽ぜずに公にしてほしいです。
教会としての正式な教義と言えるものを示せば、それ以外は都市伝説の可能性があるということを示して欲しいということです。
つまりどう考えても時代錯誤の納得不能の古い資料をつきつけられて、これが預言者の発言だから、信じなければおまえは背教だみたいにいわれて、不愉快な思いをする教会員が出ないように、取り計らって欲しいということですね。
>信じなければおまえは背教だみたいにいわれて、不愉快な思いをする教会員が出ないように、
ご自身の経験なのですか?
いやァ私にも何となくそんな経験が・・・
と言うか、予言者に従わない人は背教への道へ足を踏み出している、みたいなことは、教会幹部が言ってたわけですが・・・
「公式な教義」を示されると多分、今の時代の会員は一安心するかも知れませんが、何十年か先には「あれ間違っているよね?」なんてことになるような気がします。
前世で不忠実なものが呪われた血統に生まれたという黒人に関する教義が正にそれでして、黒人奴隷が当たり前の時代にはたいへん分かりやすく納得する考え方だったのだと思います。
それを間違っていたと謝罪も訂正せずに、いやあれはあれで意味があったのだ、教会の敵が誤解を生んだのだ、幹部も教会も悪くはないのだなんてことを言い出すから・・・と私は思うんですけどねェ
>取り計らって欲しいということですね。
でね、私は思うんだけど、教会が示す公式な教義は「予言者が啓示を受けた教えは過去も現在も未来も変わらぬ真理である」なんてやっちゃうから、教会は自分で自分の首を絞めちゃうんだろうな・・・と。
結局、予言者や啓示、末日聖典の権威を低下させて、相対化するしかないと思いますよ。まァNJさんがこのブログで書いていることってそれなんですよね。NJさんは絶対に教会批判を明言しませんけど。
私はそういう方向性もアリかなと思います。ただ今まで教会の教えていることに忠実だった会員たちに、「教会の教えの本質はそうじゃない、会員たちが勝手に誤解したので教会がおかしくなった」という説を広めようとするのであればそれは断じて許せない、と思います。
あ、これはあくまで私の単なる個人的な意見です。
>・教会は伝統や権威にとらわれず、柔軟に良心の声に従う会員(リベラル)をもっと必要としている(Ringwood 引用)。
>を自分なりにメモしたみたいですね。
ご回答ありがとうございます。
これって教会員側に問題がある、教会員がなんとかしろってことなんですかねェ・・・?
と思いました。
>時代を経て役割を終える教えがあっても当然だと思います。
永遠に変わらぬ真理はどこ行ったーーー!?
って思いました。
教義仕分けは今の聖句ガイドの充実ようなもので十分でしょう。 勿論適時追加充実があっても良いと思います。
仕分けの最大のメリットは、日曜学校・ファイヤサイド・あるいは有志の会で、安心して自由に伝説を共有していられるようになるし、矛盾した説教、日ユ同祖論でも何でも教会で楽しめるようになること。
もうひとつのメリットは、毒麦会員たちの第三者への押し付け行為や反モルの攻撃があっても、罪悪感を持たずに、でもそんな話は聖句ガイドには載ってませんよね済ませられるということのふたつ。
前者のメリットも大きいが、後者のメリットもまた大きいです。
このスレッドに限らず、モルモンリベラルと称する人たちの意見を聞いてると。忖度の極みですね・・・。
教会や教義への批判に対して、教会指導者が認めても居ないことを、先回りして、「こう解釈すれば・・・」「いや、こう言うう言い訳も成り立つ・・」って感じで、擁護に走る。
それって、単に教会から裏切られた自分が傷付きたくないからだけの事ですよね。
で、結局自分の信念も捨て、モルモンの主張も捨て、自己満足の中に会員として毎日を過ごしているってだけじゃないんですか?
過去と現在の教会の指導者に対して、そんなに忖度する必要は無いって思いますけどね。
結局、モル友さんのようになるだけですよ。
口先だけでするのは本当の謝罪じゃないのでは?
と言うか、この文脈でその表現を使うと、誤った教義を広めていたことを謝罪することがあったとしても、それはどうせ口先の謝罪でしかしないんだろうと決めてかかっているように受け止めてしまうよねェ・・・
まァそれはいいんだけど、看過できないのは
>毒麦会員たち
という表現のほうだわ。
一部の好ましくない会員のことを指しているのだろうけど、いくらなんでも酷くないかい?教義どうこう以前の問題だろ・・・と心の中で思うオイラでした。
イイネ!(・ω・)b
「モルモンの教義」とかはそれを目指したんでしょうし、各時代の預言者も真理を増し加えようとしていたと受け止めています。
NJさんによると現代は「モルモン百科事典」がそれを担っているとか。
しかし、それもまた時代を経ると色褪せるでしょうし、回復された福音も道半ばなんでしょうね。
ジョセフ・スミスの頃から現代まで聖徒に受け入れられ続け、増し加わった教義が真理の可能性が高まりつつある。ということでしょうか。
万事公論に決すべし。というか、
あえて言えば仕分けするのは聖徒の側とは言えるかもしれません。
借り物の光に頼りきり、真理を自ら見出すことをせず指導者のせいだと逆ギレする会員こそ毒麦会員。かもです。
それ同じことやってるよ、気づいて欲しいな。
この部分誤解を招きそうなので削除いたします。
失礼しました。
教会員Rさん(記)
>聖句ガイドには載ってませんよね済ませられるということのふたつ。
聖句ガイドを拡充した的な福音のテーマは200項目くらい既にまとめてあるそうで、こちらも福音の研究同様あまり利用されていないようです。
教会内のレッスンでの「耳学問」で勉強した気分になっているのでしょうね。
https://www.lds.org/general-conference/2007/10/knowing-that-we-know?lang=jpn
福音の計画の根幹で,究極的に必要なのは一人の証人です。しかし,その一人とは,皆さん自身でなければなりません。
・・・だれも,借り物の光でいつまでも耐えることはできません。
ーーー
https://www.lds.org/topics?lang=jpn&old=true#media=%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e3%81%ae%e3%83%86%e3%83%bc%e3%83%9e%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%86%e6%94%b9%e8%89%af%e3%81%95%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%81%a7%e3%81%97%e3%82%87%e3%81%86%e3%81%8b%ef%bc%9f
https://www.lds.org/topics?lang=jpn&old=true#media=
ーーー
つまり教会員Rさんの望んでいる仕分けはもう既にあって、比較的簡単に都市伝説を見分けられると思います。
私はちょっと会員に対して「甘やかし」かなと。
教会幹部や預言者を
信じ従い敬って
親を説き伏せ伝道へ
帰ってきたらば神殿結婚
誓約の子供に恵まれて
貧しい中から献金納め
役職こなしてここまで来たが
行きつく先が毒麦ならば
教会あるのは何のため?
疑問を持たずに来たけれど
それだと借り物、ダメだとか
甘やかしだとかいう人に
上から目線で嘲られ
これがリベラルモルモンの
本音なのかと気が付いて
暗雲たれ込む我が胸に
聞こえて来るのは
蝉の声
「大いに賛同 (NJ(numano))2015-03-06 09:38:41「中傷する意図はなく、真相に迫る」と言う姿勢、同感で尊重します。」
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E6%AF%92%E9%BA%A6
さてこの主の用いられた毒麦という、たとえ話でのことばですが、新約と違ってジョセフスミス訳マタイ13では、
「30 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず麦の方を集めて倉に入れ、次に毒麦を集めて束にして焼くばかりにしておけ、と言いつけよう』」。 」
となって、先に麦のほうが集められるわけです。
んで、この’先’というのから、教義と聖約112:24~27にあります、清めは主の家から始まるというのですよね、”25 わたしの家にそれは始まり、~”に、
比定、まさにあてはまるんだと。
さてはて、たまWEB脳内では納得モードなわけなんですが、まぁ、またブログ記事でその2ということで、そのうちに・・・
マインド・コントロールによる思考停止状態もたらすよなのは、あきまへんな。
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9A
福千年の前に、復活したジョセフが再び教会を導くと見るわけだが、その時には北の10支族も地球におって、つまりは彼らの住む天体も地球に戻ってきて合体して一つになっていて・・・・最悪教会トップにも毒麦がは想定内といった柔軟思考・多重思考・複眼思考がさぁぁ・・・・
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
JS訳では、お前たちは私を分かってなかったね。みたいなニュアンスに変更されてます。
現役の預言者が熱心に説いている説教ならともかく、公式の場ではフェードアウトして久しいような説(例えばエノクの街が地上に降ってくるみたいな話・カインは毛むくじゃらだったみたいな話)を持ち出してくるのはまあ良い(ここまでは毒麦行為ではない)として、意見を述べさせて賛同したら素晴らしい信仰があって、「常識に照らしてちょっとそれは当時の酷い説教ではないの?」といえば、そういう意見は後で聞きますとか、指導者批判は背教だみたいに言われて扱われる(こういう圧力かけて仕分けさせないのが毒麦行為)なわけで、そういうやりかたは後々マズイと思うんですよね。 あまり酷くないほんの一例ですけど。
「... わたしの名が良くも悪くもすべての国民,部族, 国語の民の中で覚えられること,すなわち,良くも悪くもすべての民の中で語られることをわたしに告げられた」
とあるわけだから、ますます良く覚えて語れる方向に信仰が増していけば望ましいんでしょうけど。
んが、しかし、いかんせんこのネット時代、制限を設ける、悪く言うといった方向に信仰の舵が切れていく会員も多々おるわけでして、これだけはどうしようもないみたいな現象でしょうか。たまWEBとしてはジョセフの言説をどんどん受け入れていく、ベースにしていくといった感じで、夢見的、我を忘れ的、大いに意気込むところではあるんだがのぉぉ、特に英語情報が幸いしてるかなぁぁ・・・
兄弟姉妹とは口先で
心の中では何思う
神の言葉を振りかざし
悪を払う痛快さ
されど聖書は教えけり
汝の敵を愛せよと
復讐するは神にあり
裁くは人の業からず
それでもイエスの毒麦の
たとえで人は何を知る
諌め諭して兄弟が
神の怒りに焼かれぬよう
努る励みとなればこそ
かくしてはぐれし子羊の
欠けることなし喜びに
似たるは今宵の名月よ
なるほど。ジョセフ・スミスは特に権威主義な行いを嫌っていたように思います。
毒麦の喩えをWikiで読みましたら、今までの認識と違っていたかも、と思いました。
物語の辻褄として神様が本当の麦と毒麦を区別できないはずはなく、早めに駆除した方が養分が奪われずに済むのになと。
だから、麦になるのか毒麦なるのかは終末まで待たないとどちらか本当は区別つかないんだろうなと。
ところが
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドクムギ
若いうちはコムギと判別しづらい。根もコムギと入り組んでいるため、抜くと麦も一緒に抜いてしまう危険性がある。
穂を出せば区別できるので、収穫まで一緒に育つままにしておくように命じたという聖書の言葉の意味が理解できる。
ーーーー
毒麦って偽装植物で根が本当の麦と入り組んでいる(教会内で家族だったり友人だったり深い関係にある)の良い聖徒も巻き添えになってしまう。そういう意味もあるのかなと。
真面目な会員を装って反モルモン的人・権威主義の人っていますね。
まぁ、それでもたとえ話よろしく裁きはしかるべき方にお任せするしかないかも。
”予言者ジョセフは、ひな壇に座っていた使徒たちを向いて言った。「兄弟たち、もし、私が神の王国に関して知っていることすべてをあなたたちに話したら、あなたたちは立ち上がって反抗し、私を殺すことを私は知っている」
すると、ブリガム・ヤングは、立ち上がって言った。
「私が我慢できないどんな事をも、話さないでくれ。背教するのはいやだから」
”
この出典は、1893年9月4日の教会機関紙『ミレニアル・スター』誌の、「ノーブーの教会での思い出」という題の記事で、英国のウェールズ地域で開かれた大会での、ジェームズ・トーマス巡回長老の話に基づいている。長老は、ランカシャー州ラムズボトム町在の80歳になるロバート・ホーン兄弟から、かつて彼が、ノーブー町に住んでいた時の思い出話を聞いて、それを紹介したわけです。このジョセフの話は、1843年5月23日、建造途中のノーブー神殿での集会でということだ。
」 http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/80139743d97e7989af03611d5fcf5c4b
私を殺す
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E7%A7%81%E3%82%92%E6%AE%BA%E3%81%99
まぁ、たまWEB、脳内があまりに単細胞的であるゆえに、抵抗なく受け入れたがるんでしょうね、信じやすく出来すぎている・・・
>背教するのが嫌だから・・・
要するにこの教会は特に初期にはJSとBYを含めてグダグダであって、神に導かれた秩序正しい福音の回復のイメージは残念な幻想なんだという結論のようです。
回復された教会の実情はとても威張れたものではなくて100年以上かかってグダグダの坩堝から徐々に生えてきて、選ばれ今に至るという表現の方が近いんだということでしょう。
まあそういう意味で、例えばアフリカ系黒人に長年不快な思いをさせてすみませんでしたという謝罪は有効でしょうが、古い資料を漁った末端が勘違いしたことの謝罪要求は、違うんじゃないかと思ったりして。
基盤や根ができた成熟した会員は、毒麦を自ら摘む取ることが出来るのです。つまり、花婿の喩えにあるように油を自ら溜めることが出来る人になっているのです。
私たちは「あなたは毒麦の会員ですね」とはふつうは言いませんね。
地元の指導者も完全な人ではないのですが、出来ていないことで不平不満を話す人がいます。
しかしその時はその人の話(愚痴)などを聞いてあげるのも大切です。
新しい会員を教え導く必要があります。しかしながら、働きながら責任を果たしているのが実状で、細かいところまで行き届かないことがあります。
その時にシニア世代の会員が必要になるのです。牧会者となって、求道者や新会員、あまり活発ではない会員、若い宣教師とビショップを助けることが大切なのです。
四国遍路には先達と言うのがあります。私は、
この制度が リピーターを生んでいると考えています。
牧会者とは、人々をキリストへ導き、耳を傾けて話を聞き、一緒に祈り、聖典を読み、必要なことを教えて、神の御言葉を養うことができるよう助ける。
私たちは、人を許し、自ら悔い改めすることで成長できるのです。戒めを守るだけでは成長はできないのです。
いや、まぁ口先の謝罪など必要ないでしょう。謝罪は効果的にするもんです。
指導者を信じてきたのにと、逆ギレする連中もいるようですが、彼らはらは借り物の光で生きてきただけ、情けない会員です。
ちゃんと信仰を持てば指導者が個人的意見を言っただけどと解るのですけどね。
いずれにせよ毒麦たちは最後にまとめて焼かれるのでしょう。でもその仕事は神様にお任せしましょう。
これがモルモン流の万人救済論議なのですから。
このスレッドを読んでると、キリストが「私は罪人の為に来た」と言う言葉が理解できる気がする。
そうだよな~、キリストは毒麦の為に十字架にかかられた、自らの命を犠牲にして、毒麦を助けた。
毒麦だから、抜いて焼いてしまえ!と言うのはキリストの御心じゃないって思います。
モルモンって、戒め戒めって言われ続けてるので、正義感が強い、自分は正義じゃないといけないと思ってしまってる。
モルモンの教義解釈では、イエスが罪に問わなかったマグだらのマリアさえ、「罪人」の一人になっている。
今のモルモン、これからのモルモンに必要なのは、正義を振りかざす事では無く、罪人を受け入れ、赦す寛容の精神かも知れない。
世のキリスト教から見れば、モルモンこそが毒麦だ。
モルモンは、それに負けまいとして、「そっちこそ本当の毒麦だ!」て吠える。
なんとばかばかしい事か・・・。
人間誰も罪人じゃないか。
罪人同士が、「俺の罪よりお前の罪の方が重い!」ってなじり合って、それで自分の罪が軽くなる、そう思う人は、どんどん他人を貶めればいい、ただ終わりの日に義人とされるかどうかは推して知るべし。
モルモンンでの毒麦が、意外と世の中の良い麦とされるかもしれない。
他人を裁くな、あなたが裁かれないためだ。
とどこかに書いてあったな。
と言ってる私も、誰かを裁いているのだろう、私もモルモンですから(笑)
微妙な勘違い?
イエスは罪に問わなかったのでは無く、私も貴女を罰しない。もう罪を犯さないように、と言われました。
毒麦も人が人がを裁くのをいましめている点では同じかと。
収穫の時になったら、刈る者に、まず麦の方を集めて倉に入れ、次に毒麦を集めて束にして焼くばかりにしておけ、と言いつけよう』」。
はどう考えるべきか、今の教義のLDSは設立時のLDSとは立つ位置が異なっているのは数々の資料で立証されているようなものであって、その差を前進とならえるならば、権威主義だったりファンダメンタリズムが居心地よければ、そこに居ついてしまい、密かに進んでいくやり方が姑息かどうかは別として、いつしか教会から置いてけぼりを食う羽目になってしまうわけで、
現代のLDS教会に嬉々としてついて行くのが小麦たちで、小麦たちはあまり考えないから元の場所から密かに抜けて出発してしまい、一方、居心地の良かった権威主義が仇となってしまったせいで、気がついたら置いてけぼり組みばっかりが固まる、そして焼かれる有様を、預言者ジョセフスミスが見たのかも知れませんね。
すみません、確かに誤解があるかもしれません。
私は、官僚じゃないので、再確認調査します。(笑)
「イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。」
56 わたしが栄光のうちに来るその日に、わたしが10人のおとめについて語ったたとえは成就するであろう。
57 賢くて、真理を受け入れ、自分の導き手として聖なる御霊を受け、そして欺かれなかった者、すなわち、まことにわたしはあなたがたに言うが、彼らは切り倒されて火の中に投げ込まれることなく、その日に堪えるであろう。
58 そして、地球は受け継ぎとして彼らに与えられる。・・・
33 流水はいつまで濁ったままでいられようか。いかなる力が天をとどめるであろうか。全能者が末日聖徒の頭に天から知識を注ぐのを人が妨げようとするのは、人がそのか弱い腕を伸べて、定められた水路を流れるミズーリ川をとどめようとするようなもの、あるいは逆流させようとするようなものである。
34 まことに、召される者は多いが、選ばれる者は少ない。では、なぜ彼らは選ばれないのであろうか。
35 それは、彼らがあまりにもこの・・・
「イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。」
56 わたしが栄光のうちに来るその日に、わたしが10人のおとめについて語ったたとえは成就するであろう。
57 賢くて、真理を受け入れ、自分の導き手として聖なる御霊を受け、そして欺かれなかった者、すなわち、まことにわたしはあなたがたに言うが、彼らは切り倒されて火の中に投げ込まれることなく、その日に堪えるであろう。
58 そして、地球は受け継ぎとして彼らに与えられる。・・・
33 流水はいつまで濁ったままでいられようか。いかなる力が天をとどめるであろうか。全能者が末日聖徒の頭に天から知識を注ぐのを人が妨げようとするのは、人がそのか弱い腕を伸べて、定められた水路を流れるミズーリ川をとどめようとするようなもの、あるいは逆流させようとするようなものである。
34 まことに、召される者は多いが、選ばれる者は少ない。では、なぜ彼らは選ばれないのであろうか。
35 それは、彼らがあまりにもこの・・・
たとえば、神殿で第2の油注ぎ(第2のエンダウメントとも 英語は second anointing)は、それにあたる??
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22second%20anointing%22
たとえば、ネットで意見・異見表明者は、監視対象、いろいろ圧力をかける??
そのへんは、そういった比較的高い地位にあるひとたちに聞いてもらわんと・・・
私の記憶に有った文章が書きのものです。
「復活したキリストに会った最初の人物が、汚れた者で有ろうはずがない」と言う解釈に、私は疑問を持ったと言う事です。
モルモンは、極端に罪人を避けようとする。
と言う事を言うつもりだったのですが、引用に誤りが有りました。
蛇足ですが、モルモンは「罪を遠ざける」のを強調しすぎて、「罪人を受け入れない」になっているような気がします。これでは、教会の存在意義が無いのでは?と思います。
(2フー4)マタイee:S-13マグダラのマリヤはパリサ イ人シモンの家でイエスに香油を塗ったマリヤと同一人物 か(ルカフ:BS-SO),あるいは,ベタニヤのマリヤと呼 ばれる女と同一人物か
「マグダラのマリヤは,キリストに付き添っていた婦人 たちの中で,最もキリストに身近な支持者の一人であった。 マグダラのマリヤが主イエスを自分の病気を癒してくださ った御方として,またキリストを信じ崇拝する御方として 抱いていた献身の念には,ひたむきなものがあった◎キリ ストが十字架の上で肉体の苦しみを受けておられたとき, ほかの女たちは近寄るのをためらって遠く離れていたのだ が.このマリヤだけは十字架のすぐ下に立っていた。また 復活の朝,最初に墓に行った者の中に,彼女もいた。そし て,心からの聖い愛慕をささげてきた主が復活して現れら れたとき,それを最初に仰ぎ見てキリストであると認めた のは彼女であった。このような特殊な名誉を受ける価値が ある者として,多くの女性の中から選ばれたこの女が,か つて堕落した女であって,良心が汚れた熱情によってまひ していた人物であると言うことは,何ら弁解の余地がない 誤りである。にもかかわらず,この高貴な女性,特別キリ ストを支持した女性が,パリサイ人シモンの家で救い主の 足を涙で洗い,油を塗って,悔い改めによる罪の赦しを得 た罪人と同一人であるとするのは,はるか昔から言われて きた正当とは認められない仮定である。この誤った言い伝 えが,何世紀もの間ずっと一般の人の心に根を張ってきた ので,マグダラのマリヤといえば貞操を失って後に悔い改 めた女性のことを総称する名前になってしまった。わたし たちはこのような罪人にまでキリストの恵みが及んだかど うかを今考えているのではない。人は神の赦しの大きさと 深さを測り知ることはできない。けれども,もし仮にこの マリヤがパリサイ人シモンの家の食卓に着いていたイエス に仕えた女,すなわち罪を悔い改めた女と同一人物であっ たとしても,上の質問は肯定的な答えを受けるであろう。 なぜならば,罪人であった女は赦されたからである。我々 はいま『聖割の記録を歴史として論じているが,その記 録の中には一般に言われているまことに嫌な誤解,すなわ ちマグダラのマリヤの献身的な心に不貞の汚名を負わせる ような言葉は一つもない。」(タルメージ『キリスト・イエ
マグダラ マリア 黒人
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%20%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%20%E9%BB%92%E4%BA%BA
「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。中略 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 」
から来ているものと思われる。
7つの大罪という言葉がありますが、いろんな罪があったことでしょう。
マグダラのマリアに対する見方は他の教会でもさまざまですが、モルモンの中では美化されているように感じます。
悪霊に支配され多くの罪を犯したけれど、イエスによって解放されたという流れは説得力があっていいと思います。
マリアが罪人であると都合が悪いのでしょうか?
マリアが伴侶であったなどという解釈もありますが、元罪人を妻に迎えるなんて愛の塊ではないですか?
マリアが罪人であったなら、ますますイエスが好きになります。
送なんですよね、イエスのファンとしては、その様なキリスト像に親しみを覚えるんですが、モルモンでは、「清くない者は、神の国に入れない」って考えが強くて、「キリストの復活を最初に確認した人は清い人でなければいけない」となってしまう。
歴史的に、一夫多妻で批判を受け続けたことへの反動なんでしょうか??
一休さんみたいな、モルモンは存在しえないようですね。
確かに、引用の大本は、タルメージ氏の「キリストイエスですが」私の引用は、現在使用されているインスティチュートのテキストからです。
タルメージ氏個人の意見と言うより、教会の見解と捉えるべきだと思います。
全部教会の教義だろうといえるものは、同じ公認でも、聖句ガイドがそれであって、後者に反対すると、破門の危険性がきわめて高いのに対し、前者の情報のうちマリア無罪説のようなものは、タルメージの論だろうと言って、教会の教義だと言わない限り、反論は容認されていると思うからです。
当時は非常にユダヤの律法に束縛された状態だったことから考えて、女性が大祭司に真っ向反論を述べることも大罪だったし(男性にたてついた事件はありそうな気がします)、例えばマグダラのマリアが家で飼っていたウサギさんが死んだときに、死骸を抱きしめて土曜日中泣き叫んでやめないとか(そんな事実はないですけど)でも罪になっていた時代だったわけで、色んな意味で近所騒がせで大祭司にとっても近所で面倒ばっかり起こす(しかも資産家の娘で簡単には石撃ちはじきなかったりする事情があったりして)トラブルメーカーであったんじゃないかと思います。
8章2節には「悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち」と書かれ、罪とは一切言っていない。
それに七つの悪霊を追い出してもらったのは、マグダラのマリア以外にも数人います。
悪霊と罪は別個として考えるべきではないかと思うのですが。
また、姦淫の罪で石を投げられそうになった女の話もあるが、これをマグダラのマリアと勘違いしている人もいる。
読み手側による解釈しだいで話の意味が変わったりすることがあります。
レギオンの状態(社会的には鎖につなぎたくなるような状態)ほどではなかったにせよ、マグダラのマリアは以前は常軌を逸する奇異な行動を繰り返すので、周囲は扱いに困っていたんだろうと思われることと、最高のもてなしというには香油の女の傍から見て理解不能すぎる行動、それに対するイエスの好意的すぎる解釈と。 7つの悪霊を追い出してもらったという特別な表現とがどうしてもリンクされるんですよね。
でなかったら、ルカはともかく、マルコの福音書は書かれた後に物語が消えるほどの情報欠損してるのだろううかということになる。
ただ、私の言いたいことはその事では無く。
下記の部分にモルモンの狭量性が見えると言う事です。
>このような特殊な名誉を受ける価値が ある者として,多くの女性の中から選ばれたこの女が,か つて堕落した女であって,良心が汚れた熱情によってまひ していた人物であると言うことは,何ら弁解の余地がない 誤りである。
再度申し上げますが、このような認識と「罪人の為に来た」と言うイエスの姿勢に違和感を覚えると言う事です。
更に申し上げますと、この事を問題視しない事が、モルモンが多くの人を受け入れずに、入り口ではねつけている。
つまり、福音を広めると言いながら、モルモンの会員は、一定の状態でない求道者を心の中で受け入れていない、除外しようとしている姿勢につながっているのではないか?と言う事です。
別の話になりますが、教会の教育部が、教えている教材の内容が、「教会の公式な認識ではない」と言うのは、奇弁でしかありません。
教育部の教師は、教会から給与を受け取って、「召し」ではなく、「専門職」として、インスティチュートを教えています。
モルモン教会の教義を教える根幹となる組織です。
そこで、使っているテキストに書いてあることを、「教会の教義解釈ではない」と言うのなら、何処にモルモンの教義が有るのでしょうか?
教会の教育部が、モルモンの教義でもないことを、テキストに使って教えているとしたら、それこそ大問題です。
私のワードの聖餐会のお話しですら、「教義に沿った内容を・・」と指示されています。
>私のワードの聖餐会のお話しですら、「教義に沿った内容を・・」と指示されています。
それはそうなるでしょう。 聖餐会は「礼拝」であって、「学問ではない」のですし、礼拝中に正式な教義に反した意見を披露するとまずいですよね。
もちろん私の伝統的で主流の古い聖書の解釈のみが絶対ではないのは自分自身わかっているつもりですよ。
もちろん私の(マグダラのマリアに関する)伝統的で主流の古い聖書の解釈のみが絶対ではないのは自分自身わかっているつもりですよ。
私の解釈が間違いで、豚さんの解釈が正しいかも知れません。
https://www.youtube.com/watch?v=S0s3Pulc2xA
この教会の良いところのひとつはこういう雰囲気の楽観主義であると思っています。
https://www.youtube.com/watch?v=mlUGyIbzIrE
隣のおじさんが五月蝿いですけど。 悪気のない偏見がどんな効果を広めるかも、
私は、このブログに限らず、過去に幾人かの人たちと、モルモン教会の「公式教義」の認識に関して、意見を述べたことが有ります。
もう結構うんざりしてます。(笑)
どこかの国の内閣府や省庁が、「その文章は確認できません」とか「そう言う指示をした記憶は有りません」とか言って、その場を取り繕うとするのですね。
でも、世の中の多くの人は、その状況や経過などを見て、それが真実なのかどうかをおおよそ判断するものです。
モルモンの教義についても、世の中の人達は、その気になって調べれば、「過去にはこう言っていた」とか「今でもこう言うう認識は残っている」と言う判断はつくわけです。
いくら、サギをカラスと言いくるめようとしても、それは無理な話です。
200年前で有ろうが、モルモンの預言者が言った言葉は、それなりの重みが有るのです。
「誰がどういう発言をしたか」、「いつどこでどのような事が教えられていたか」そんなことは、調べればわかる事です。
世の中の人も、知ろうと思えば知ることが出来るし、調べようと思えば、それなりの資料が出て来るんです。
ですから、最近になってやっとですが、教会の中枢部も、過去の歴史的事実を開示し認めようとしている。
まだまだ不十分ですが、その方向には少し向いているような気がします。
それは、そうすることが、言い訳をするよりも、世の中に良い印象を与えると、やっと解って来たからじゃないでしょうか。
教会の教育部が開いているインスティチュートのテキストに書いてあることを、「それは、教会が認めた見解で張りません」等と言って、世間に通用するって思っているとしたら、認識違いも甚だしい。
それこそ、モルモンの印象をずっと悪くするだけです。
どこかの国の内閣がどうして支持率を落としたのでしょうか?
それは、世間を馬鹿にして、誠実に対応しなかったからです。
もういい加減に見苦しい言い訳はやめませんか?
高い建物から笑わせていけばよい、モルモン書に書いてあるのはそういうことだと思いますよ。
でも、世の中の多くの人は、その状況や経過などを見て、それが真実なのかどうかをおおよそ判断するものです。
この意見、そのとおりです。
総合的に判断しているのです。
教会側は部分的なものをピックアップして美化されたものを作り上げているように感じます。
しかたないのかな?
聖書なんて、ドロドロしたこともいっぱい書いてますけどね。
ご返事の前に
>それだったら死者へ悔い改めを説くことになってしまい、教会員としてはかなり恥ずかしい発言になるんですけど。
死者も霊界で悔い改める機会が与えられます。
本題ですが
ある集団に所属すると言う事は、その集団の過去についても向き合うって事です。
何故ならば、その集団の過去から現在の自分が恩恵を受けているからです。
若い人でこのことを認識してない人が多いのは、仕方ないかもしれませんが、思慮分別が付く年頃になれば、それぐらいの事な認識してしかるべきです。
日本人が金メダルを取ったことを、同じ日本人として誇りに思うのなら、同様に日本人の誰かが犯した過ちでも、同じ日本人として恥じるべきです。
良いほうだけって言うのは、ご都合主義です。
モルモンも同様、自分が生まれる前の事でも、自分がモルモンとして現在生きているのなら、同じように、誉有ることも、過ちも自分の問題として向き合うべきです。
向き合うと言う事は、そのすべての責任を負うって事ではありません。
事実を認識し、今のモルモンがどう在るべきかをしっかりと考える事です。
NJさんすみません、向こうのスレッドが書き込みできなくなったので。
>ある集団に所属すると言う事は、その集団の過去についても向き合うって事です。
>日本人が金メダルを取ったことを、同じ日本人として誇りに思うのなら、同様に日本人の誰かが犯した過ちでも、同じ日本人として恥じるべきです。
>良いほうだけって言うのは、ご都合主義です。
おっしゃる通りです。
ローマ法王がなぜ何百年も前の異端審問や魔女狩りなどの非道な行為について謝罪したのかはそういう理由によるものだろうと私は考えております。カトリックの中でも今さら謝罪など必要ないなどとの意見もあったようですが。
LDSの方々が「我々もキリスト教だ」と主張されるのを見聞きするのですが、果たしてキリスト教の2千年の歴史をマイナスの部分、負の遺産も含めて引き受けようとのお気持ちがあってそう言っておられるのかどうか・・・。
現在のところ私は、たいへん申し訳ないのですがそうは思えません。
しかしLDSはすでに一つの宗教となって確立しておられるのに、どうして既存のキリスト教の括りに拘る人がいるのか不思議なのです。キリスト教が間違っているので神がジョセフ・スミスを導き、モルモン書を授けた、新しい宗教だ、でよろしいのではないですか?
私、「逃げた猫」の記事のコメントで別に何も悪いこと言ってませんよ
私の発言はずっと残ったままです 削除はされておりません
NJさんがなぜ書込み出来なくされたのかは不明です
これを読むと何故
ビショップが外国人なのか分かると思います。
またステーク会長も外国人なのか分かると思います。
聖餐会ブログラムについて
ディズニーファンとしては聞き捨てなりませんでしたw
そもそもディズニーアニメに登場する家族は不完全な家族。
白雪姫、ピノキオ、シンデレラ、ピーターパンetc
アップルの創始者ジョブスは後年ピクサー絡みでディズニーの幹部になりアップルを引き継いだCEOはゲイですし。
皮肉っているのではなくLGBTを普通化しようとしているんではないでしょうか。
HuluにもLGBT特集が幅を利かせています。
日本て昔からそちらの世界に寛容ですからあれですけど。
世界の成長を見守りたい。とあえて最近は上から目線の心持ち。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/17/mornon-girl-comes-out_n_17177714.html
12歳の少女が、教会でみんなに同性愛をカミングアウト。
その優しい理由
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ただ、これは個人的には違和感が。
両親の意向が影響しすぎた?