[この中に奇人脱哉が収められている]
志賀直哉の「奇人脱哉」は昭和24年(1949年)、「苦楽」4巻9号に発表された小品で、実在の人物を描いている。直哉は「つまらぬ人だが、何か愛嬌があり、前の時代の遺物的興味があり、私は好意を持ってあの人物を書いた」と述べている。
日本文学に現れる珍しいモルモン教徒の登場なので、モルモン宗という言葉が出てくる短い段落を以下に引用させていただくことにした。
「脱哉は明治六年の生まれで、私よりも十歳(とを)の年上であったが、若い頃、女房に逃げられて以来、死ぬまで、遂に独身だった。その獨身者(もの)がどうしたわけか、多妻主義で有名なモルモン宗の信者になり、權僧正(ごんそうじょう)といふ程でないまでも、宗門の方で、何とかいふ役づきになってゐた。尤も日本全國にモルモン信者は、二人とか三人しかなく、役づきの信者といっても、何もする事はないのだ。私は或る日、奈良公園で、脱哉親子が、背の高い西洋人 - - 或ひはアメリカ人と親し氣に話しながら散歩してゐるのを見た事がある。後から聞くと、モルモン宗の本山から來た人で、奈良見物の案内をしてゐたのだといふ。一體、どういふ言葉で話をしてゐたのだらうと不思議に思ったことがある。」(志賀直哉全集 第四巻、岩波書店、昭和四十八年、372-373頁)。
彫刻師渡邊脱哉は、東京の人であったが、奈良に移ってきて、直哉が脱哉に会ったのはその頃のことであった。名前の脱哉は師匠鐡哉から「人間がぬけてゐるから、脱哉はどうだ」と言われ、喜んでそれを号にした、と言う。(後に直哉も脱哉も東京に戻っている。)作品に独創的な所が全然なく、ぱっとしない脱哉を奇人と呼び、この随筆に取り上げたのはなぜだろうか。珍しいモルモン宗徒であることも含めて変人で、忘れられない親しみを覚えた友人だったのだろう。私も昔、通訳として訪日した教会幹部と行動を共にすることが時折あったので、少し身に覚えのある話である。アメリカと強いつながりがあるという点で、今も本質的に変わらない末日聖徒の特性と言えるだろうか。
[註]
脱哉がアメリカ人を奈良見物に案内したのは、伝道部が閉鎖される1924年の少し前ではなかったかと推測される。R.L.Britsch, “From the East” 1998によれば、1924年に教会員は164人、宣教師は14人いたとある。
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英語だけんどな・・・
「モルモン宗って、どんな宗教なの?」
「復活されたイエスが、アメリカ大陸の先住民の先祖に現れて、その教え等を記してあるモルモン書を、聖書同様、聖典として信じてる宗教です」
「えぇぇっ、驚き、そうなんすかぁぁ?? モルモン書って、創作なんだとか・・・」
「んじゃないずらべ」
「・・・・」
モルモン宗
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E5%AE%97%22
志賀直哉 クリスチャン
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89%20%20%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3
「人間が抜けてゐる」とはどういう意味かと思います。 宗教人であった鐡哉は脱哉のモルモン宗に興味を持ったに違いないが、脱哉から説明を聞いてもなんだか良く分からなかったのかもしれない。
さて、この作者についてだが、志賀直哉氏の随筆集「枇杷の花」の中に、「奇人脱哉」という短編がある。
これは、東京美術学校教授だった美術工芸家「加納銕哉」の息子「加納和弘」と志賀直哉氏が友人関係で、加納和弘氏を通じて知り合った、加納銕哉の門人の脱哉という人の事を回想したエピソードである。
この中で、加納銕哉の銘の入った干鮭の差し根付は脱哉という人が作ったという事が書かれているので、或いはこの銕哉銘の干鮭の差し根付も脱哉の作かも知れない。
”
http://blogs.yahoo.co.jp/netsuke_sagemono/56162768.html
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=netsuke