「歴史との対話」という言葉に接することがあるが、それは歴史上の人物や重要な出来事を吟味・評価し、また歴史上の位置づけを行なうという大切な作業を意味すると思う。「総括」という言葉が使われることもある。それによって人々はできるだけ客観的で正確な認識を持ち、そこから今を生きる世代が教訓を得、また今後の方向性を探ることができるようになる。そして、記録を残す意味も持つ。その出発点は包括的かつ緻密な情報の収集・整理にある。
歴史上の出来事の評価は、時間の経過とともに新しい資料が出現したり、価値観や視点が変化したりすることによって、変わっていくことがある。私が今読んでいる劉傑「中国の強国構想」では、新しく公開された資料もあって蒋介石や毛沢東がより客観的に扱われて、これまでとは違った評価を受けていて新鮮な感じを受けている。
--- 現在、facebook のあるグループで日本のlds教会の指導者であったYK氏について、主として拙速伝道の面で議論が交わされているのを読んで。
菊地良彦(Yoshihiko Kikuchi)長老
参考
劉傑「中国の強国構想」筑摩書房、2013年(著者劉傑は早稲田大学教授)
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2013/08/13 日本の教会のことは日本人が書くのが本来の姿
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伝道も早くバプテスマを受けさせたほうが評価が上がる時代だったのですかね。
熟孝も必要だったと思うのだが。
何しろ、自分がこの教えを守り従う決心をする、という気持ちを持った上でバプテスマを施すべきではないかと、そう考えるのだが。
新会員の時は、責任を通していろいろと成長すべきだろうが、ある程度時を過ぎれば、聖典の知識や理解が必要になってくると思える。特に聖書。地元の指導者が新約聖書をあまり引用しないとか、イエス様の話をあまりしないと言う声を聞く時があります。
熟孝→熟考
この拙速の傾向については、潟沼誠二氏の著「そこが知りたい日本のキリスト教の今」も厳しく指摘しているところです。
1.20年以上経過したことについて、今でも人々の耳目を集めているのはなぜなのでしょうか。単純に、その理由や背景を知りたいと思いました。
2.ご著書の後半に掲載されている、教会の組織図を見て、この「拙速伝道」の件を推測してみたのですが、組織図によれば伝道部会長は地域会長会が管理しているように見えます。当時の、東京南伝道部会長が独断で拙速な伝道ルールを策定したのでしょうか。つまり、暴走したのでしょうか。それを管理する立場の、当時の地域会長会はそれを黙認したのか、知らなかったのか、という点を単純に疑問視しています。つまり、そもそもの発案の起点がどこだったのかということが明確になってはじめて、(宗教団体でこういう表現はあり得ないのかもしれませんが)、責任の所在が明らかになるのではないかと思っています。
お分かりになる範囲で十分ですので、教えていただければ勉強になります。
私は以前にこの話を聞いて、1つの聖句を感じたことを思い出しました。
その聖句とは、教義と聖約121:34ー39です。
だから私は、そうならないように自らを戒め決心しました。
“人のふり見て我がふり直せ”
“前者の覆るは後者の戒め”
“他山の石、もって玉を攻むべし”
“いんかん遠からず”
などの、ことわざがあるように、また先程の教義と聖約にも書かれているように、
「少しばかりの権能を得たと思うや、すぐに支配を始めようとする性質と傾向がある」
「自分のうぬぼれた野望を満たそうとしたり、あるいはいかなる程度の不義によってでも、人の子を制御し、支配し、強制しようとしたりするとき、…主の御霊は深く悲しむ」
教会員の中には、拙速伝道を肯定し、あの時代から多くの指導者が出た、という評価もしているのも事実。
しかし、なにもわからずにしてバプテスマを受けさせるのは、私は、反対であり、おかしいと言わざるにおけません。
それは、その時代にいたワードの神権指導者の苦悩も招いたからです。
そして教会を離れれば、“暗闇の世界”など言う会員もいます。しかし、私は、そう言っている会員に対して、何度か注意をしたことがあります。
「そう言うことは、不義な裁きをしているよ」
といつも言います
「裁きは私(イエスご自身)に任せなさい」と聖文には書いてあるからです。
教義と聖約121:41ー46を理解しなければならないのではないでしょうか。
それは、教会の話を聞いている方や遠ざかった会員に対して、このような心で接し、教え導くことで、彼らに主の御霊を感じる機会を与えることができるのではないでしょうか。
もう何年前かになりますが、あるパートメンバーの姉妹が悩んでおりました。それは、御主人が教会員にならないと神殿で結び固めができない、そう言った悩みでした。しかし私は、こう申しました。あまり急ぐのも良し悪しになりますから、まずは、あなた自身から変わらなければなりません。そして私は、ある聖句を伝えました。その聖句とは、第1ぺテロ3:1‐6を読ませました。そして今は、教会に対して良いイメージして持って下さって、好意的で擁護までしてくださるようになりました。その姉妹に対していつも協力的です。
だから、何でも間でも直ぐにバプテスマをその御主人に勧めて施していたら、きっと今の状態にはなっていなかったでしょう。
長々と書いて申し訳ないです。
1 20年たっても注目されているのは、本質的な原則からの離脱、耳目を集める程の量的な負の影響、容易に記憶から去らないトラウマ的残像があるからだと思います。また、同様の現象が繰り返し場所を変え、異なる担当者によって再現されるからではないかと推察いたします。(外国において)。
2 ご指摘のように伝道部長(当時の呼び方)の上に地域会長会があって、管理しています。ただ、当時は地域代表ひとりが担当していて、件の拙速伝道は推進した東京南伝道部長と菊地地域代表が意気投合して推し進めたため、加速されたという状況でした。
当ブログ2011/01/11, 12日「拙速バプテスマ記事の紹介」上、下、2010/7/17 「米人帰還宣教師が語るグローバーグ部長の東京南伝道部」を参照ください。
ご回答を有難うございました。
個人的に宗教には関心を持っていますが、なかなか極めきれない難しいテーマだと思っています。つまり、神学校を優秀な成績で卒業したり、宗教哲学の先生であれば、知識が豊富であることは間違いないと思うのですが、「人格の涵養」や「信仰の確立」というのは、知識だけでは体得できない要素だと思うのです。つまり、目に見えないことに確信を持つことが信仰の本質であり、それには知識も必要だけれど、同時に知識が邪魔をすることもあるのではないでしょうか。それと、神は実在するか、あるいは実在しないかのどちらかであり、明らかに二者択一だと思うのですが、神の実在を起点にしていない宗教は、法律的あるいは学問的には宗教団体かもしれませんが、私自身は受け入れられません。つまり、神が実在するにも拘わらず、異なる教えの宗教を、神が最終的にすべて受け入れるとは思えないからです。歴史的にそのような時期が続いていた、という事実があったとしても、最終的には「集約・淘汰」されるのではないかと考えています。不勉強な私ですからあくまでも個人的な考えです。専門家から論理的な矛盾だと指摘されても、これは私の個人的な生き方です。長文で失礼しました。
この事が続く原因の一つに、「聖霊の賜物」と言う教義的な問題が有ります。
モルモンの教義では、バプテスマを受けて、モルモン教会の会員に成らないと得られない「祝福?」が有ると考えているのです。
つまり、本当の意味で、モルモンの教義を理解するためには、会員に成って、「聖霊を受ける」「聖霊の賜物をいただく」と言う事が必要なのです。
この少し矛盾した教義が有る為に、「バプテスマを受けないと、真の意味で福音は理解できない」と考えるわけです。
信仰とは変なもので、物事の理解でもなく、悟りでも有りません。何の理解や知識が無くても、存在しうるのが「信仰」です。
いえ、時に知識や理解が信仰の妨げになるとも考えられたりします。「幼子の様になりなさい」と言う信仰です。
モルモンの中では暗黙のうちに、「バプテスマの後で、教会で学び、召しを受け、実践しているうちに、本当の改宗者となる」と言う考えが有ります。
と言う事で、問題が生じるのは、「福音を聞いて受け入れないのは罪で有る」と言う考えです。ジョセフ・フィルデイング・スミス大管長の著書にはその様な記述が随所に見られます。
ただ、それ以後は、先に書いた「バプテスマを受けても、本当に改宗した訳じゃない」と言う考えをもって、「バプテスマ後に教会を離れても罪ではない」と言う考え方が台頭してきます。
現在でも、わずか3回のレッスンで、「バプテスマを受けますか?」と宣教師は求道者に質問します。
「受けます」と答えた後に、戒めの話が始まるのです。
基本的には、20年前と何も変わっては居ません。
バプテスマの判断をするのが、その後その人を受け入れるワードではなく、何ヵ月後には居なくなってしまう宣教師(伝道部)だと言う構造上の問題も有ります。
その数年後、私と同僚のホームティーチングの担当件数が60件を超えました。
活発会員は2件だけでした(笑)
それをしばらく、こなしていたのは、
驚きでした。
同僚は会社経営者、私は学生でしたから、
「あの二人だから出きる」(平日の夜にも行えた)
と言われていましたが、
まさか、ミイラ取りがミイラになるとは思ってもいませんでした。(笑)
それから、十数年後、
KY長老が、ステーク大会で、
「モンゴルから日本に来てくれている宣教師がいるから、あなたたちも伝道しなさい」
みたいなこと言われたとき、
心の中で「お前はどこから来たのか?宇宙か?お前が言うな」と突っ込みいれていましたが、
私だけだったのでしょうか?それは知るよしもないですが、
毎月60件の良い経験からこそ言えると自負しています。
国際社会も日本国内も、およそ先鋭化した対立構造だらけで、敵意や憎悪がどんなきっかけで戦争や内乱に発展するか予測がつかない、緊迫した状況だと感じています。
お互いに生産的・建設的な土壌の中で対話するのは、大変に結構なことだと思っています。ある時期、仏教系の異なる宗派の方々が「法論」という、いわゆる自己の正当性を主張し、相手の誤りを鋭く指摘し合う激論を目の当たりにしました。個人的には、そこに「宗教者」らしさを感じませんでした。先入観だとは思いますが、生活に宗教的な教えを取り入れて実戦しようとする人は、ある種の寛容さと思いやりを根底に持っているのではないかと期待しています。
対話にしても論争にしても、当たり前のことですが、言葉によるやりとりになります。言葉は確かに、概念をより正確に伝えるための大切なツールだと思うのですが、致命的な欠点があると思っています。学生の頃、興味があって「伝統的形式論理学」に関する本を読みました。それによると、言葉には「外延」と「内包」の異なる領域があるとされています。例えば「信仰」という言葉を発した人と、その言葉を聞いた人は互いに、ある程度の共通認識を持つはずですが、でも、徹底的に定義していくと、ずれや相違点は必ずあるものです。ですから、言葉によるやりとりには限界があるなと、今でも感じています。
対話や論争は、言葉のやりとりを経て「脳内領域」にメッセージは届けることはできるだろうと思います。もうひとつ重要な要素は、相手の「心の領域」に何が届いているのだろうか、という点です。上述の「法論」を見る限り、それは単に勝者と敗者を決定させるだけの場であり、「宗教的」な寛容さ、包容力、慈悲深さを感じるものではありませんでした。
私は「言葉」を大切にしたいと思っていますが、同時に「言葉」の限界も痛感しています。心で何かを感じ取るには「感性」が必要であり、現代社会の病巣を少しでも治癒するには、宗派を問わず、言葉を発する人の心に「宗教的」な寛容さ、受容する思いやり、相手の変化を期待し見守る徳性、それしかないと考えています。
もうひとつ、神が実在しないとなると、世界中のクリスチャンは詐欺の被害者であり、笑いものだと思います。しかし、もし神が実在するのなら、信仰者は頭脳だけで論理的に信仰するのではなく、心に湧き上がる「宗教的」で神聖な思いを大切に保ち、さらにその思いと矛盾しない行動を実践し続ける必要があるのではないでしょうか。真の改宗者という表現があるとすれば、それは完成された完璧な信仰者という意味なのではなく、過ちを犯し、自己嫌悪に陥ってもなお、真摯に神の教えに従おうと決意する人たちの総称であり、その意味で、人類は全て道半ばの、変化の途上にあるといっていいのではないでしょうか。そう考えれば、未熟で不完全で、失礼な言動をする相手に対しても、見習い宗教者としての、ささやかな受容精神を感じられるように思います。
長くなりましたが、私は今現在も迷いの多い人間です。ときどき、過ぎ去った過ちを思い出すことも多くなりました。でも、自分の人生を放棄したりせず、少しでも「真理の光明」に近づけるよう、ささやかな努力を続けたいと望んでいます。
「言葉を発する人の心に「宗教的」な寛容さ、受容する思いやり、相手の変化を期待し見守る徳性、それしかない」との指摘、そのとおりであると賛同いたします。それはこのブログの主宰者である私に向けた言葉でもあると受けとめました。
特に文字になった言葉は、顔を顔を合わせて交わす言葉以上に感情のもつれや誤解を招きやすいことを承知しています。
今後とも時折りの交流を持つことができましたら幸いです。
地元の小学校の100周年記念誌のまえがきに書かれた言葉です。
有名人の言葉ではないけど、歴史を学ぶ意義は、ここにあると私は、思っています。
確かに伝道部によってはそのころは街頭伝道全盛で、拙速にバプテスマをしていた話はよく聞きました。
ただ伝道部によってやり方は違っていたと思います。
今うちのステークの会長はその時代にバプテスマを受けた人です。たくさんのお休み会員を生んだというマイナスもありますが、たくさんの活発な会員を生み出した時代でもあります。その子供たちは今伝道に出たりしています。
人間のすることなので間違いもあるでしょうが、それも神は織り込み済みなのではないでしょうか。
この教会を人間的に理解しようとするなら、いろんな矛盾を感じるでしょうね。
むしろこの教会が言っているように、真実の教会かどうかを問うてみるべきだと思います。
人間の教会と感じるのなら、むしろ論ずる意味もない気がします。
そんな教会に行くべきでないし、ましてや十分の一を払うなどばかばかしいことだと思います。