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[故N.A.マックスウェル十二使徒]

故ニール・A・マックスウェル十二使徒は、1994年-1995年BYUで行われた優等生のための講義の一環として、「弟子である学者」と題して話し、「学究は礼拝の一つの姿*」であると受講生に学問と信仰の両面で励むよう奨励した。(* academic scholarship is a form of worship).

学問を求めることは「献身する」(consecrate)という側面で礼拝に通じると述べ、学究の徒も広い聖徒の共同体にとけ込むことができる、と語った。真剣な弟子・研究者には遥かに広がる知的「空間がそこにある」と前途の取り組みを励ましている。

マックスウェル長老は、「弟子である学者」に欠かせない資質に柔和なことと健全な人柄であることをあげた。そして、イエスを知らないと言ったペテロを引いて、偉大な献身(働き)はしばしば痛みを伴った、深い経験をへて達成される、とも語りかけている。

自身、社会で幾多の人生経験をへてきた長老は、「弟子である学者」は学ぶことに熱心であるのはもちろん、周囲の状況(現実)に対応していくことに意を用いる人であると見、「良心、正確な判断、誠意を盾」として歩むようにというウィンストン・チャーチルの言葉を引用している。

[付記]
かつてカリフォルニア大のロバート・べラ教授は「学校、殊に大学は、現代の世俗社会の「教会」である」(Robert Bellah, et., The Good Society, 1991)と言った(古屋安雄「大学の神学」1993)と伝えられている。当ブログ2005.12.11「教会は大学」

[付記2]キリスト教系大学である関西学院大学の標語、"Mastery for Service"に触発されて同大学卒の北村富弘兄弟は、「誠実に学ぶことも奉仕になる。学んだことを人の役に立てられるから。気付 いたことを分かち合えるから」と述べている。facebook 7/18/2015。全く同感である。BYUの標語の一つ "Enter to Learn, Go out to Serve" も同じ趣旨であると思っている。

典拠
Henry B. Eyring, ed., “On Becoming A Disciple-Scholar.” Bookcraft, 1995.(編集者H.B.Eyring は当時十二使徒、現第一副管長)。


コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
劣等生には? ()
2015-01-30 09:41:33
>優等生のための講義の一環として

いきなりこの一文が引っかかりました。
劣等生のひがみでしょうか?

>「良心、正確な判断、誠意を盾」
時々教会の指導者で、良心とか誠意が感じられないときが有るのは豚だけ?

さらに、ここで言う学問とは、考古学や歴史学、言語学も入るのでしょうか?その学問の研究の結果が、教会の方向と一致しない場合はどうなんでしょうか?

「一度死んだ人が生き返ることは無い」、と言う学問の結果と、「キリストの復活」と言う信仰をどう解釈するのでしょうか?良心と正確な判断と誠意をもって。
 
 
 
Honors Program (NJ)
2015-01-30 10:48:02
「優等生のための講義」、この部分どう訳したものか思案しましたが、BYUに Honors Program というのがあって、そこに登録される学生たちのために一連の講演行われたのでした。

学部生のためのもので、私(院生)は無縁で横から眺めていたくちでした。きっと、他の大学にもある制度で、(小、中、高校生の段階でも飛び級の形で存在)BYUにも導入されているのでしょう。日本ではあまり聞きませんが、語学で能力別クラス編成などというのがありました。

学問に境界線はないと思います。コメント後半の疑問は、宗教、哲学、文学など人文の分野ではそのような矛盾を直視するか、逆に超越した姿勢で臨むのではないか、と思っています。例えば宗教学。
 
 
 
名言だなぁ。 (オムナイ)
2015-01-30 13:44:27
>「弟子である学者」に欠かせない資質に柔和なことと健全な人柄であることをあげた。

身につまされます^_^;
紹介ありがとうございます。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2015-01-30 13:59:11
見かけやうわべの言葉使いは柔和そうだが、中身はそうじゃなかったり、その逆も有りますね。
言葉使いを注意する人に限って、その内実はという人をよく見かけます。 

ただ、口の臭いじじいとかは、いくらなんでも使ってはならないと思います。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2015-01-30 14:19:04
アメリカで仕事をしたジャーナリストが、アメリカでは議論を戦わせた後、じゃあ飲みに行こうかとなるが、日本では、敵になると言っていました。
日本人は、議論のやり方を教わっていないのだと思います。教会で議論が起こらないのは、そのせいだと感じます。敵になるのを恐れているのでしょう。議論したからと言って、その人が嫌いな訳じゃないのにね。
 
 
 
七つの大罪 ()
2015-02-02 13:37:36
コミックにこんな題名が有るようですが?

そもそも「罪」ってどう定義されているのでしょうか?

食欲が「罪」だって話になれば、豚は罪の塊ですが、その肉を食ってる人間は罪じゃないの??

同性愛に関して、宗教的に罪になるのかどうかを判断するためには、「罪の定義」から始めないといけません。

もし、聖書に書いてあるから、なら、多妻結婚も罪じゃないって話になるかもしれませんしね。

一番困るのが「神が定めた」って答えですね。
これって、検証不可能ですから。

残るのは、「信仰」ですか?
「自分が罪だと信じている人にはそれは罪である」と言うのなら、一人一人罪の基準が変わってくる。

私は、「人間社会の秩序の維持」に基準を置いているので、社会の秩序を乱さない限り、罪とは言えない、と思ってます。

その意味で、「同性愛も社会が認知し、それに必要な秩序を構築すれば罪にはならない」と思っています。

モルモンは「国家の法律に従う」を教義として持っているわけですから、国家が法的に認めれば、その法律と、法律の趣旨に沿って教会の慣習も変えることに成るのだと思っています。

私は、キリストがモーセの律法の解釈を「愛と思いやり」の精神に戻したと思ってます。

排除ではなく、理解と融和

自分の肉と脂肪を提供して、人々に満腹と言う幸福を与えるのが、豚ですからね。
 
 
 
あ!間違えた ()
2015-02-02 13:40:33
すみません、上の書き込みはスレッドを間違えました。

めんどくさいので、このまま放置します。
 
 
 
解放者 (黄昏のマリア)
2015-03-13 23:33:31
豚さん、初めまして、黄昏のマリアと申します。
わたしもイエス様は律法の解釈を「愛と思いやり」に変換し、人びとを負いきれない罪の縄目から解放するために働かれたと感じています。格差社会の只中で、人間の尊厳を保障されない人びとはまた、不必要な罪の定めを受けて苦しんでいました。支配層は律法を盾にそのように彼らを支配したのですね。イエス様はそのような社会をご覧になっていました。そして、彼らに何が必要か理解しておられた。
わたしは、「あなたの罪は赦された」、「今日、あなたの家に救いが来た」とイエス様から言っていただけた人びとが羨ましかった。「いつか」ではなく、彼らはその時に赦されたのですね。「今、わたしは赦され、受け入れられている」この慰めを、誰もが必要としているのではないでしょうか。
昇栄、いつか救われるために熱心に学び、熱心に責任を果たし、従順であろうとやってきました。しかし「いつか」のための人生に、わたし自身疲れたのです。なぜ?あべこべでした。全てのことが「救い」という見返りを求めてのこと。自己中心の不純な動機。神様のため、人のためだなんて、嘘っぱちのように思えてくる。自己欺瞞。聖書をよむほどに自分という人間の浅ましさを思い知らされた。虚しかったです。
そんな中で初めて神様ー!と叫びました。そして、ただ信じることでしか救われないのだと理解したのです。それまで積み上げてきたものをかなぐり捨てる。「わたしは自由だ」そう感じたのです。

イエス様は、ご自分を正しく理解してほしいと、願っておられるかもしれませんね。わたしは豚さんはイエス様のよい理解者になろうとしておられるように感じています。学究が礼拝になるというのはそういうことなんだと思います。
豚さん、考える機会を作ってくださってありがとう!
 
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