[神名 Jehovah を表す4文字]
解決済みのように見えて、絶えず浮上する問題である。末日聖徒とエホバの証人に特有の問題であろうか。ここでは主として言語学(音韻論)の視点から私見を述べてみたいと思っている。それは神学の面にも及んで示唆をもたらすのではないかと思われる。
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一般に聖書学関係の本でもよく「エホバ」は誤訳であって、正しくは「ヤーウェ(あるいはヤハウェ、ヤーヴェ)」でなければならない、という主張を読むことがある。しかし、音韻論から見れば大同小異、それぞれ音訳上の変形(variation)であって、どれかが正しく、他は間違っていると言うことはできない、というのが私の理解である。まして、この語はヘブライ語聖書をもたらした民が神の名を畏れて発音しなかったため不明だからである。
モーセに神の名前が知らされた時(出エジプト6:2, 3, 6, 8)、その名はיהוה と4つの文字で表された。「神名を表す4文字(Tetragrammaton)」と呼ばれ、ローマ字ではYHWH と記される。神を畏れて発音しなかったイスラエルの民は、代わりに「主(人)」を意味するアドナイと呼びそう読んできた。Adonai ("my Lord")である。後にその母音を4文字に当てはめて、Jehovah と綴ったり、Yahweh の方がより正確であると言われたりしてきた。
יהוה ヘブライ語は右から読むので、右端からいくと、י Yod (ヨード) は日本語のヤ行の y に相当する。拗音の子音の後に割り込んでくる、歯茎口蓋に舌が近づく半母音である。例、キャ kya の y 。発音記号は[j]と表記され、英語では[ʤ]の音に発音される。例、Jesus ギリシャ語で イェスース、英語で ジーザス。
二番目と四番目の ה は [h] の音である。
三番目の ו vav (ヴァーウ)は[v, w] の音価である。
それにアドナイの母音が適用されて、日本語では「エホバ」、最近では「ヤハウェ」などが当てられるに至ったのであった。(アドナイの最後のイは「私の」を意味する接尾辞なので無視できる)。
表面的には相違が感じられても、音韻論の観点から見れば同じ音素内の僅かに隣り合った異音にすぎず、各言語によってその特性に従った音訳がなされて何ら問題はない。中国語 「耶和華」、日本語文語訳「ヱホバ」、韓国語「여호와」など。
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なお、欽定訳聖書がエホバ(Jehovah)を使っていて、最近の英訳聖書も他の言語の聖書も「Lord, 主」という言葉になっていることについて。今回少し調べていて、実は欽定訳に7度Jehovah が登場するのに対し、英国改正訳(1885年、ERV)に12回、1901年米標準版ではיהוה に対して一貫して Jehovah を使っていることを知った。(Wikipedia, ‘Jehovah’の項. 2015/01/26 access.伝統的なマソラ本文にはיהוה が6,518回出てくるという。)
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יהוה を「主」(アドナイ)とユダヤ人が呼んだのは、その名を口にするのを畏れはばかったためであって、そのことを尊重した訳が七十人訳ギリシャ語で ό κύριοϛ(新約聖書ギリシャ語も同様), ブルガタ聖書ラテン語で dominus となっている。それが、英語の場合、Jehovah(or Yahweh)とLord の選択の違いをへて今日に至っているのである。こういった事情と背景を知ればいずれをも理解でき、読者は入手できるもののうち自分が好む訳を取ればよいということになる。
[注:יהוה は היה “to be” 「いる」を語根とし、「神は在ます」すなわち至高者を意味した。 ]
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http://jcl.ibibles.net
http://bible.salterrae.net
ここの文語約聖書には「ヱホバ」がかなりの数出てきます。
末日聖徒ではエホバ=イエス・キリストですが、
伝統的キリスト教は三位一体であるもののヤハウエは父なる神の表れ、子なる神の表れなのか宗派によって違うようです。
菊地良彦の読み方が「キクチ・ヨシヒコ」でも「キチク・ヨシヒコ」でも大差ないというようなものですかね(笑)
↓
http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/kyodo-2015012901002985/1.htm
【ワシントン共同】末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)は29日までに、同性愛者の権利を擁護する法律を支持すると発表した。同性愛者に寛容になっている米世論の劇的な変化の波が、宗教にも及んできた。
でもモルモン教会の人ってさぁ、昔からの方針が再確認されただけで教会の方針に何も変化は無いとか、言うよね(笑)
少し、意味、意義を取りあぐねていますが。何分海の彼方のことですので。
wikiより
男女の婚姻とは別枠の制度として、異性結婚の夫婦に認められる権利の全部もしくは一部を同性カップルにも認め、保証するという法律(パートナーシップ法などと呼ばれる)
ちなみに日本にはパートナーシップ法もなくて養子縁組で財産分与などの権利を守っているみたいですね。
ボーイススカウトで同性愛者のリーダーを容認していましたから、その流れではあるんですけど。
今年の6月に州ごとではなくて全米の憲法で同性婚容認の判決が出るので、それを睨んでのことでしょうね。
また知人の会員も以前に同様な話をしていたのを記憶しています。
末日聖徒の場合は、家族の宣言を発表した以上、結婚は男女の間に認めると表明しているから、法律が認めても、これからも同性婚は容認しないでしょう。
オムナイさんが言うように、パートナーシップ法によって、財産法や税制面、生活に必要な手当など認められることになります。これにより米国では、結婚したのと同じ様な権利が認められます。
末日聖徒の会員に対して、「迫害してはならない」と言いたかったのでしょうね。末日聖徒の同性愛者の自殺の件もありましたから。
『もし〔同性愛〕の欲望や傾向があるならば,ペッティングや不貞や姦淫に対する衝動がある場合と同じようにそれらに打ち勝たなければなりません。主はこのような行為を,姦淫やそのほかの性的な行為と同様に激しく非難し,また禁じておられます。』
『この憎むべき同性愛の罪は,いつの時代にも存在してきました。これまでに多くの都市や文明が,このために姿を消しています。』
「歴代大管長の教え スペンサー・W・キンボール」
http://ldschurch.jp/bc/content/Japan/gospel-library/manuals/teaching-of-prophets/of-the-church/36500_300_spencer_w_kimball.pdf
『予言者たちはいつの時代にあっても自慰行為を非難している。自慰行為は罪の意識と羞恥心を生み,霊性に害を及ぼす。またそれは,肉体を支配した状態ではなく,肉体への隷属を示し,この死すべき世の目的である神のようになるための成長を妨げるものである。現代の予言者は自慰行為を行なっている若人は伝道に召すべきでないとはっきり述べている。
この行為は他の性的な罪ほど重いものと見るべきでないが,しかしこの行為自体は悪いことであり,心からの悔改めを必要とするものである。その上,この行為はより大きな罪へと発展し,時には自然の関係に反する罪,同性愛へとさえ進展することがある。と言うのは,最初はひとりひそかにこの行為に耽っているのが,次第に進展して,時には同性の他の人と相互に手淫を行ない,そこから本格的な同性愛に入るのである。』
「スペンサー・W・キンボール 赦しの奇跡」
さすがのスペンサー・W・キンボール大管長も未来永劫の医学の進歩における全責任を取らされたら堪らないでしょう。
「同性愛の罪」は克服すべきものとして今後も教えられるでしょうが、彼らのうち一部の人々は、病気で性が入れ替わっているだけの人々だったということが科学的に説明できたら、罪の免除のようなものが出来るかも知れませんよ。
つまり、同性同士の結婚を認めていないということは、教義を守りたい末日聖徒は生きている間はパートナーと性的関係になれないことになる。
その不合理をパートナーシップ法を認める事で罪人と定めないのが目的かなと。
まだ神殿結婚は無理でしょうが、同性パートナーでもより多くの種類の教会の召しを果たせるようになるかも。
そうなれば、教会の手引きに数行の修正が入って、外見女性でも全ての神権が受けられ、神殿結婚だって普通に行われても不思議ではない。
手引きの改定がないうちはそれらの事案は、黒人の場合と同じく考慮中であると理解しています。
姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
とありますが、最新の新国際訳では
http://www.christiantoday.co.jp/articles/10008/20120105/news.htm
男と性的関係を結ぶ男
と改定されたそうです。
こういった視点で聖書を読むと結婚やパートナー関以外での浮気や不倫、性行為を弄ぶ行為が罪なのであって、性的傾向は関係ないとも読めます。
まず『同性愛は罪深い行為』と言うのは18世紀以前の考え方ですね。
20世紀に入って『同性愛は何らかの病気』という考え方が生まれてきて特に精神医学会では何とか彼らを治癒させようとさまざまな試みが行なわれました。でもこれがいけなかった。ますます彼らを追い詰め多数の失敗、多くの自殺者を生んでしまったのです。
現在では病気だとは考えられていません。『性的カテゴリーの一つ』という理解です。
昔LDSメーリングリストで説明しましたがオムナイさんやNJさんはじめ誰一人として理解しなかったのは懐かしい思い出です。もう10年くらい前になるのかなぁ。
まぁやっと末日聖徒はやっと20世紀初頭の考え方に到達したわけです。宗教が真実の理解をいかに遅らせるかについてモルモン教会は格好の研究材料ですね。
じゃあこの説明は19世紀的で全部ウソッぱちだった。科学的に間違いが証明されているわけですか?
■http://www2.bpe.es.osaka-u.ac.jp/ackamaracka/gay.php
ゲイ脳になるわけ
これまで、ゲイ脳について見てきましたが、ではそもそもどうしてそういった違いが出るのでしょう。同性愛だから脳が変わるのでしょうか?
アメリカのマウントサイナイ医科大学のByne W教授によると、アカゲザルのINAH-3においても性差が確認されていて、それは胎生期の性ホルモン(アンドロゲン)の量によって決まるという報告が出ています。
また、BNSTもラット等の実験動物においては、生まれる前の性ホルモンの量に依存しているということが分かっています。
これらが、ヒトにも当てはまるかはまだはっきり分かってはいませんが、新井康充教授によれば、ヒトのBNSTは 成体になってからはホルモン環境の影響は受けないとのことなので、ヒトの脳も生まれる前の性ホルモンのバランスによって決まっている可能性はあります。
■http://www.brain-studymeeting.com/sick/sei/
前に、男性と女性の脳の構造は明確な差が認められるというお話をしましたが、もし、性同一性障害患者の脳の構造が身体的な性と異なる性であることがわかれば、性同一性障害の原因究明に役立ちそうです。
性同一性障害患者の脳を調べたところ、性行動に関わる脳の分界条床核の構造が性自認の性と一致しているらしいということがわかりました。これにより、現在では「脳の分界条床核から発生する神経が性ホルモン分泌の異常によって正しく構築されなかったことで性同一性障害になる」という説が最も有力視されています。
■https://www.jspn.or.jp/journal/journal/pdf/2011/01/journal113_01_p0003.pdf#search='%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%A8%E3%81%AF+%E8%84%B3%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0'
異性愛が同性愛に変化したという性指向変化のケ
ースが報告されている.雌ラットの帯状回を破壊する研究においては,ラットが巣作りや授乳といった雌としての性役割行動を行わなくな
る.
これらの知見は,性行動に関わる神経系の機能障害が,性指向の変化や性役割の変化といった性行動上の異常を形成しうることを示す.GID における前部帯状回や島回における脳血流変化は,性行動に関わる神経系に影響を与えて,GID における性指向や性役割違和の症状に関連しているのかもしれない。
キンボール大管長は聡明な預言者で、比較的石頭ではないタイプの指導者でしたが、脳科学の権威ではありませんでした。
彼の著書である許しの奇跡によれば、自慰行為の行き着く先が同性愛になってしまうという意見のようですね。 当時までの常識ではそう思われていたのかも知れません。
一方で医学的な進歩で、コンセンサスはまだまだにせよ『生まれつきの脳の発達の障害』が原因ではないかという研究者たちの報告と全然違うと思いますけど。
あなたに一つ答えてもらいたいんだけど、イエスは処女マリアから生まれたのかな?それとも天父とマリアが性交して生まれたのかな?
医学関係のサイトを見ると性交しないで子どもが生まれるなんてことは有り得ないのだから、やっぱり天父と性交したんだよね。だから人間マリアの持つ死すべき体という特質と、天父の持つ死に打ち勝つ力を受け継いで復活ができた。
あなたはハンドルネームを教会員というくらいだから医学的に説明がつくこの教えを受け入れているんだよね。
「やれやれ」さん、そろそろこの辺でいかがでしょうか。
NJさんも改めてこの話題で記事を作成されると言うことですし、それを期待して待たせていただきます。
それからですが私は科学の見解も重視するたちですが、ことイエスの降誕についてはさっぱり分からないので、マリアがどうのについてはコメントを控えます。
この件に関して興味を持っている人は多いと思います。私も含めて。
罪深い行為なのでやめるべきである
↓
病気、精神疾患なので治療すべきである
↓
性的カテゴリーの一つ
【結論】
適切なたとえかどうか分かりませんが、ごくまれに片手に指が6本ある人が生まれてくるそうです。それを『異常』とみるか『少数派』とみるかの違いと同様の問題ではないでしょうか。
『異常』とみる人は、治せ、気味が悪い、近寄るなと思うでしょう。寛容な社会には『少数派』を受け入れる余裕があります。
※この記事への私の書込みはこれを最後にします。
原因が分かったにせよ脳内のことだから今さら治すもなにもない状態らしいです。
要は、救いの計画を説くならば、より寛容な価値観が教会にも必用になってきたということでしょう。 いずれ預言者は適切なコメントを出されると思いますよ。