末日聖典の翻訳再改訂について
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最近関東の方から末日聖徒(モルモン)の聖典(モルモン書、教義
と誓約)の翻訳を改めて改訂している、というニュースが伝わって
いる。主として教会組織の役員の呼称を中心としたもので、他に本
文の内容(解釈)に関係する部分もあると聞いている。
このことについて私は二つの側面から再検討の依頼と若干の提案を
したいと真摯に考えている。ひとつは「翻訳はその国の人々が自然
に受け入れられるものでなければならない」という点であり、もう
一つは「その社会ですでに定着している訳語は尊重するのが賢明で
ある」という点である。例えば教会を牧会する聖職者に「監督」と
いう役職があるが、これは聖書の訳であり、日本のキリスト教界に
定着している言葉である。
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この二つの点について以下もう少し詳しく述べてみたい。第一の
「翻訳はその国の人々が自然に受け入れられるものでなければなら
ない」は、内容が正確に伝えられなければならない、という原則と
並んで翻訳という仕事の重要な原則である。組織や制度、そしてそ
の中にある役職や地位の呼称は、社会の中にある現実に即し、工夫
・調整、長年の使用をへて確立されてきたものである。特定の言語
が持つ自然な法則にもそっていて、いわばその社会固有の文化のよ
うなものと看做すことができる。例をあげれば、会社の長は社長、
大学の長は学長、委員会の長は委員長、議会の場合は議長という。
これを英語が President だから(大学の場合)といって○○大学
会長とすれば大きな違和感を与えることであろう。
このことは、聖書の翻訳でも一般市民が日常生活で使う親しまれて
いる言葉、普通に使われている言葉に訳出することが求められてい
ること(ワンダーリー、国際聖書協会)と関連してくる。新しい外
来語、カタカナ語の導入はこれに逆行するものである。
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第二の「その社会ですでに定着している訳語は尊重するのが賢明で
ある」では、bishop, bishopric (従来の訳は「監督」「監督会」)
に絞って述べてみたい。この語は聖書の訳語でも教会名でも「監督」
が使われており、ビショップとかエピスコパル(監督の原語ギリシ
ャ語)と訳出されることは皆無である。どれほど日本人の耳にまた
語彙に無縁であるかは、インターネットの掲示板に見受けられた2
件の例で明らかであろう。そのひとつは若い女性会員で監督会のこ
とを「ビショッ・プリック」と書いていた。何か気の毒に感じられ
た。もうひとつは、教会を始めて訪れた若者が監督を紹介されて、
「こちらは何々ビショップです」と言われて「何っ、ここは欧米か?」
とあきれたようなマイナスの印象を受けてしまったことである。こ
れは立場を変えて英語国民が Amen をエィメンと言わないで必ず原
語の通りアーメンと言い、 Jesus をジーザスでなくギリシャ語のと
おりイェースースと言うように求められたらどう感じることであろ
うか。
この「監督」をビショップと変える背景には、日本語の「監督」が
スポーツチームの監督などのイメージでとらえられるのを避けたい
意向がある、と伝えられている。しかし、「あがない(購い、贖い)」
という言葉が世俗とキリスト教界で自然に使い分けられていること、
神殿の儀式エンダウメントが末日聖徒の用語と一般の英語と自然に
使い分けられていることなどを考えれば、監督という言葉も問題な
く使い分けられるのではないだろうか。
4 提案
これだけ重要な改革については、できるだけ多くの会員の同意が得
られることが望ましいので、教義と誓約で改訳の影響の大きく現れ
る章の改訳版をパイロット版として配布し、教会内の民意を問う形
を取る事を提案したい。日本聖書協会が「新共同訳」を出す前に
「新約聖書 共同訳」を出してキリスト教界の反応を見た例があった。
この場合、原語に忠実すぎて(イエスをイエスス、ペテロをペトロ
スなど)結局定着していた形に戻ったのであった。
もうひとつの提案は、改訂を行う場合最大限ルビを適宜ふって漢字
は残すという方策をとることである。そうすれば漢字で意味が即座
に取れ、改訂の目的(例えば監督をビショップと読ませたい)も達
成されるからである。この案は前回平成訳に携わった私以外の一人
も同じで「ルビをふればいい」と語っていた。
参考
Eugene A. Nida, Toward A Science of Translating, E. J. Brill 1964
William L. Wonderly, Bible Translations for Popular Use, United
Bible Societies 1968
鈴木主税「職業としての翻訳」毎日新聞社 2001
付記
1 上記とほぼ同内容の書簡を地域会長会、東京管理本部翻訳課、
米国本部翻訳課、上級幹部聖典関連委員会に2月12日付けで送付。
2 私自身気づいたBofM平成訳の改善点を
http://blog.livedoor.jp/hkgnjroom/に掲載し始めた。08/5/6-
3 「監督」をビショップに変えたいと最も熱心に考えたのは、
William R. Walker長老であることがわかった。Evans長老ではなかった。
(この付記3の記入 2010/7/28)
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教会の名称、聖典の訳文、神殿の儀式の言葉
が一般会員に知らされないで唐突に改訳され問題となっています。
地元の指導者の独断的要素が強く、その訳の是非と共にその過程に強い批判があります。
その混乱は聖餐会の出席数、神殿への参入数の減少となって如実に表れた(ている)そうです。
監督がビショップに改訳されたときの日本の会員の冷ややかな反応(またかといった冷笑、半分あきらめ?)を見て欲しい!同じ過ちは犯して欲しくないです。
私は改訂版の聖典が出れば一定期間教会に行くのを控えようかという思いがあります。(抗議の印として)。
役職名について言えば、副会長などを「顧問」に変えたのもおかしい、と先日東京で出会ったMM氏が痛烈に批判していた。私も同じ考えである。これまで長を補佐する第一副会長などを第一顧問と称するようになっている。理由は補佐役の人たちが長に任せきりであまり意見を述べないので、これを見たアメリカ人指導者が英語のカウンセラー(counselor, counsel [助言]する人)の役割をしてもらうため、訳語として「顧問」に変えるよう強く提案したというわけである。
しかし、日本の社会で「顧問」は少し距離をおいた立場に立つことが多く、もっと役割は淡白なものとなる。例えば、教育機関でスポーツのクラブの顧問はその種目に詳しくない先生が担当したりする。ほかの場合も同様である。副会長であれば、会長不在の場合その代行を務めるが、顧問は?そのような責任を果たすイメージがない。
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伝道部会長という表現もどうであろうか。私は言葉の点で「伝道会」に変わるのだろうか、という気がしたりする。伝道会はカトリック教会の宣教師を派遣する組織のことである。各地にある伝道部(区分け上つけられた名前)であれば、やはり伝道部長でよいのではないか。責任の重さや影響力、権限を与えられていることは、会員が十分認識している。名前を変える必要性を感じない。
実は私もそうであるが、日本人はおとなしく、お人よしである。「あれっ、えっ」「やっぱり変!」と思っても上(うえ)が決めると黙っていることが多い。
>「あれっ、えっ」「やっぱり変!」と思っても上(うえ)が決めると黙っていることが多い。
ちょとでも文句を言うと、「あなたは反モルモンだ」
「信仰が弱くなっている」、「サタンの影響」
「教会から出て行けば?」、「アラシ行為です」
「カネかえせ、謝罪しろばかり」などと
さんざん言われちゃいますからね。
NJさんも私が実際にそういう目に遭っているのを見てきたでしょ?
そしてK長老などは自分に逆らう会員を破門しましたからねぇ。
そりゃあ、会員はおとなしくもなるでしょう。
生活がかかっていたりするとおとなしくなります。東京の管理本部の職員、教会教育部の人たちなど。(昔メキシコの猛者たちが教会の仕事[CES]に吸収されてすっかりおとなしくなったと読んだことがあります)。
何をどう言うかによるところがあります。台湾出身の知識人もちょっと深い質問をしたりすると「信仰が弱くなっている」、「サタンの影響」など異端扱いを受ける、と言っていました。
私は現在進行中の役職名の変更を聖典に反映させることについて、この1 / 29 の記事と同内容の書簡をエバンズ氏宛に2月中旬に送りました。また写しを二人の地域副会長、東京の管理本部翻訳課、ソルトレークシティ教会本部の翻訳課、翻訳委員会に送りました。
慎重な対処をして、急いで変更するのをやめる方向に向かって欲しいと希望しています。(まだ、回答など反応はありません。念のため、ワードの監督、ステーク会長にも書簡の写しを届けて理解を得るようにしました。ふたりは幸い理解してくれました。)
>この1 / 29 の記事と同内容の書簡をエバンズ氏宛に2月中旬に送りました。
>また写しを二人の地域副会長、東京の管理本部翻訳課、
>ソルトレークシティ教会本部の翻訳課、翻訳委員会に送りました。
へぇ・・・なかなかやりますね。
どうぞ根気よく継続なさってください。
もし私の名前を出したほうがいい展開になりそうな局面があれば遠慮なく使ってください。
私は私がもっとも良いと思う方法で取り組みます。
監督会=ビショップリック という理解が招いた間違いである。本当は「ビショップリックの会合」と言うべきところである。
*bishopric = 監督(主教、司教)の職 [辞書の意味]
カタカナの用語を導入することの無理が露呈した例である。