東日本大震災後、日本を訪れ、「傷ついた日本人へ」(新潮新書 2012.4)というメッセージを残したダライ・ラマは次のように語っている。
「世界にはたくさんの宗教があり、それぞれ信じている神様も教義もバラバラです。時には互いが対立し、いがみ合ったりもしています。
でもどの宗教にも「幸せになりたい」「よく生きたい」「苦しみから逃れたい」という共通の願いがあります。この願いをどうやって実現させるか、それを説くのが宗教の本質的な役割であり存在意義なのです。
ただ、ひとくちに幸せといっても、国や文化、両親や家族、またその人自身の性格や関心によって様々です。人によって幸福の定義が違う以上、それを説く宗教も色々な種類があって当然です。
そしてそれぞれが自分に最もあった宗教を選ぶことが大切です。
たとえ何千年続いていようと、世界中に信者がいようと、教義の内容が画期的なものであろうと、宗教に優劣は付けられません。自分の宗教だけが正しいと信じこんだり、他の宗教をバカにしたりすることも、全く無意味なことです。
宗教は誰かの心を平和にしたり、誰かの助けになっていたりすれば、それだけで価値があるものなのです。
自分にあった宗教が、その人にとっての「最高の宗教」です。
だからこそ、自分が信じていない宗教のことも認め、理解し、尊重しあわなくてはいけません。私も仏教を信仰している仏教徒ですが、他の全ての宗教に敬意を払い、関心を抱くように努めています。」(pp. 19, 20)
おおいに同感しています。最近チベット問題やダライ・ラマ14世に関心を寄せている私です。・・ブログ主宰者
なお、ダライ・ラマは日本人に次のようにも語っている。
「宗教を学ぶことは、自分の人生を見定めることなのです。日本のみなさんの多くは、せっかくご両親や先祖から仏教を受け継いでいるのですから、一度きちんと仏教を学び、考えてみてはどうでしょうか。仏教国という環境から言っても、日本人の価値観に合うことが多いでしょう。・・仏教を信じるかどうかというのは完全に個人の自由です。自分の意志で選んでこそ、真の信仰なのです。」(pp. 18, 19)
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僕は自分の直感しか信じないのでこの教会の悪口も気にしないのが基本ですが、ヘコミマシタネ。
小さい頃ベンハーという映画を見ました。その中からイエス様の匂いを子供ながらに感じ取りました。
絶対的な存在です。
僕は焚き火が好きだ。人が家に集まれば必ず火をおこし、それで肉や野菜を焼いて食べさせる。主は火だと聖書にある通り、自分の周りに人を集め、僕らが凍えないように自分の身体を燃やしていった。そんな方だと火をみるたび思うんだ…。
僕は直感でこの教会を選んだ。ダライラマさんに、僕も全く同感です!
欄丸さん、コメント有難うございます。ネット上の、この教会に対する誹謗中傷、ひどいんですね。私はこの頃、そのようなサイトに行かないようにしています。私はlds教会の教えに対して文字通り受けとめる、直解主義者でなくなっていますが(リベラルです)、反モルの容赦ないひどい表現には辟易します。
暖かい証し(ひとりの証人としての言葉)を有難うございました。
でもやっぱりアルノカナ。ないと嬉しいです! 僕は教会員と神様を(もちろん自分のことも)重ねて見ないようにしてます。重ねてみてしまうと、がっかりするから。
人を見ないで神様だけを見るようにしてる。
僕が行く支部は悲惨かも…。日曜学校は論争また論争。まあ僕的に論争はキライデワアリマセンガ。みんな神経質だし、疲れてる。言葉に気をつけないとならないし、ひどく気を使う。
神様をより深く感じたくて行くのに、文句を言われ癒されずに帰ってくることもある。でもすべての人がそうなわけではナイカラ…。
光明のないところに影はないといいます。当然なんですが… 沖縄にいた頃油絵を描く友人がいました。明暗のはっきりした絵を描く人で、その絵を見るともう忘れられませんでした。
彼は、まぶしい光を描く為には呪われた深い闇をかけないとダメなんだよと、いつもぶつぶつ言ってたっけ…
毒々しい黒トカナントカ…(笑)
この教会は僕にとってまぶしい光。たとえ悪い歴史があっても、否定できない、どうしようもなく照れくさいような神様の愛情を感じてしまう。
教義も人からバカにされていたって、崇高で高潔だ。
他の宗派もみんな当然神様に属しているはずさ。神様の屋敷にはたとえ粗末でもたくさんの部屋があるとモラン神父という映画で言っていたし。
とかく男は大変だ。醜い生殖器(規制はいるの?)を持たせられ、それに振り回されて生きる。
理性と本能の調和はホントに骨が折れる…
けど、僕はこのデッカイ絵画の端っこを観てるだけなのかも…まだまだナマヌルイカモネ…
僕にはおじいちゃんがいません。トキドキオジャマシテモイイデスカ?
スゴく高度なところで、僕についていけるかわかりませんが…ヨロシクオネガイシマス。
モルモンに関して肯定的否定的な掲示板を両方見ております。
最近実は反モルモンの掲示板の書き込みにさすがにたんなる罵倒としか思えない誹謗中傷が増えすぎているだろう?と感じ始めております。
まあ不完全な人間の集まりでしょうからこういった聖書の文面があるのですがモルモンの人々だけではなくてほかのどの宗教教団でも現実には実践は難しいようですね。
私(キリスト)のために人々があなた方をののしり、また迫害し、あなた方に対し偽ってさまざまな悪口を言う時には、あなた方は、幸いである。
12喜び、喜べ、天においてあなた方の受ける報いは大きい。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(マタイ5:9~12)。
マタイによる福音書 5:38-48
43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
レビ記 19:17-18
17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
ダライラマの発言に同感なさっているようですが疑問点があるのですが?
知り合いのモルモン教徒はモルモンから離れると滅びの子といわれると恐れております。
ダライラマの言葉が真実ですと自分にあった宗教がモルモンであると実感する幸福な信者はいいのですがむいていないとさまざまの理由でモルモンを離れてしまう信者もいるのです。
彼らはモルモンが自分に合っていないと思い離れてしまったわけですがそういった人々に対してモルモンが合わなかったのであなたにあった宗教が見つかればよいですね
よければまた戻ってきてねとあたたかく言える信者や環境が現在のモルモン教会にどれだけあるのか外部からみていると疑問があります。
なぜ大多数の人々が離れていってしまうのか?ちょっとした配慮が足りなくて去ってしまう信者をいちがいには責められないのではないでしょうか?
いかにそういった人々が離れない組織にできるかがかぎのような気も私はします。
ダライラマはん、ええ事言いまんな~
モルモン教会を、「唯一まことの教会」だと心から信じている豚にはこんな事は言えまへんな~
ジョセフはんも言わんかったやろうな~・・・・。
教会から帰るときは、今日はよかったねと言えるようでありたいですね。
去る人にあなたに合った宗教が見つかればいいですね、と言える人はほとんどいないでしょう。それほど達観できる会員はあまり見当たりません。最後の5行(配慮が必要、離れていかないような組織にすることが必要)に賛成です。簡単なことではないですが。
神様は僕の話を聞いてくれても、おしゃべりはしてくれないしな…
教会に行くチャンスがあっても、タイガイ現在の日常の証しか述べないし、自分が証を述べようと壇上?にたったら、もう胸が一杯になって言葉に詰まった挙げ句、マサカノ涙が溢れてしまい…。(自己嫌悪)あれからもゥ証をシテイナイ…。僕の日常はくじけそうなくらい涙の場所なんです。
せいぶんよりも聖文よりも人の口から出る証が聞きたいです。わがままでしょうか。
誰か、このコメントみてくれないかな…皆さんドコニイルノ? ミエナイヨ…
合っているかいないのか?それが判断できるほどの情報を与えない前に、無理やり入れてしまうことが問題じゃないんでしょうか?
たった、2時間のレッスンで、その次のときに、「バプテスマを受けたいですか?」って聞くような伝道方法で、求道者の方が、「自分にあっているか?」と言う判断が出来るわけが無い。
バプテスマを受けたいって言ったら、やっと戒めの話をするんですからね。
おまけに、教義上最も重要といえる神殿の事などは、バプテスマの後で教える・・・。
モルモンの伝道の姿勢が、「とりあえず入れてしまって、それから何とかしよう・・・」って言うことですから、ダライラマ氏のコメント以前の問題でしょ!
日本で以前多くの文學者がキリスト教に入って、また出ていきました。合わないと分かるのに時間がかかったのでしょう。
(逆に)lds教会の伝道の仕方がいいとは言いませんが、合っているかどうか鋭い求道者は短い時間でもかぎわけるのではないでしょうか。
どの部分に注目するかによりさまざまな意見がでますね。
歴史的にみて現在の伝道方針はジョセフスミスのころからこういった短期間で洗礼を受けてもらうという方針だったのでしょうか?
今ふと思ったのはモルモン教会の創設があの当時にあったアメリカでの宗教的な騒ぎにおいてジョセフスミスが啓示を受けて発足したわけですが
他のプロテスタント教会でも牧師が説教して熱狂した信者にさあ洗礼を受けましょうと
洗礼を受けさせていた時代背景があります。
現在のモルモン教会の洗礼準備が短期間なのはその影響も受けて短い期間なのかなとふと
思いました。
あの当時の信仰覚醒運動の影響を受けているので短いのかも
違うでしょという反論も多いかもしれませんね。
>(逆に)lds教会の伝道の仕方がいいとは
>いませんが、合っているかどうか鋭い求道
>者は短い時間でもかぎわけるのではないで
>しょうか。
断りずらいという国民性もあるかもしれませんよ。
合わないと感じても実際は信じていないのに断るのは済まなくて洗礼を受けて、、
さっぱり教会にこないってケースも多いようにも見えます。
なにか教義が体系的に書かれた本を元に勉強会のようにして質疑応答形式で礼拝にも参加してもらい準備期間をもつという方法が理想的、、かも、、。
神殿のことも含めるとたしか神殿での儀式は
非公開でしょうからそこをどう説明するかが
難しいような気もしますがいかがでしょうか。
>なにか教義が体系的に書かれた本を元に勉強会のようにして質疑応答形式で礼拝にも参加してもらい準備期間をもつという方法が理想的、、かも、、。
近くのカトリック教会、プロテスタント教会に聞きましたら、1年くらいの勉強期間があって許可が出るということでした。上の理想に賛成です。
つまり、「ジョセフが一人で啓示を受けて、ジョセフが教えを広めた・・・。」と言う認識が間違っているような気がします。
メソジストをはじめ、多くの宗派の有った、当時のアメリカのキリスト教信仰の中で、既存の宗派の教えにどうしても共感できない、飽き足らない人たちが多くいた。
教会の資料の中にも書いてますが、ジョセフの祖母や祖父、父、等、ジョセフの家族自体が、そもそも既存の宗派の教えに否定的でした。そして、オリバーカウドリ、マーティンハリス、ブリガムヤング、その他、教会の草創期の人たちは、皆同じような思いを持っていた。
私は、ジョセフがその教えを広めたのではなく、ジョセフの周囲の人が、モルモン教会の教義の概要を固めて、その中心にジョセフを立てた、と考える方が自然だと思います。
ジョセフの見神の話も、歴史的に登場したのは、モルモン書発行の後ですから、順序的にも、そう考える方が妥当だと思います。
又、資金面でも、ジョセフが負担したのではなく、周りの人たちが負担しています。
既存の宗派から、団体で改宗したグループも有ります。
つまり、当時のアメリカの人たちが、モルモンの教義を歓迎する、条件と状況がそこに有ったわけです。
信仰義認と言う他力本願的な教えに飽き足らなかった人たちが、「自己責任(努力)による救い」と言う教義を生み出し、あるいは歓迎したのではないでしょうか?
アメリカに渡り、開拓により、新しい生活を築こうとした人たちの思いの中に。
自分の幸福は、自分の力と努力によって生み出す。
自分の救いも、自分の力と努力によって生み出す。
そういった、教義が受け入れられ、「キリストによる全救済」では無く、「キリストの贖罪+自己の信仰努力による救済」と言う方向になったのかと思います。
お久しぶりです。ほんとうに久しぶりに覗いてみました。
>自分にあった宗教こそ「最高の宗教」である(ダライ・ラマ14世)
わたしも本当にその通りだと思います。
私自身、(宗教ではないのですが)母の信じている事がどういうものか理解はしていなくても、先祖を思い、家族を思い、身を粉にして家族のために生きてきた母を尊敬していました。そんな母の背中をみて育ったわたしは、「母が信じていることが【一番!】」だと思い続けていました。
でも、イエス・キリストに対して全く信仰心のなかったそんなわたしが「モルモン書からイエス・キリスト」を見出してからは、母が信じているのとは違う信仰を歩みはじめました。
【神の愛】に触れて、人は【何者で、どうしてこの地上に生を受けたのか】を知りました。それからのわたしは、 母を改宗することに心を向けはじめました。
そして、8年の年月が過ぎたころに、母が頭を下げて「これまで、イエス・キリストに申し訳ないことをしていました。バプテスマを受けさせてください。」と若い宣教師を前にして決意したのです。
それから1年後、神殿で先祖と父親との永遠の家族の結び固めとわたしとの親子の結び固めの祝福に預りました。
福音を見出す時、人は変われるという事と、これまで信じつづけて来たのもの以上の光を見出すと、【イエス・キリストへの信仰を通して神の愛】によって、天の御父が創世の前から備えられた真理の道を歩みはじめることを私自身と母の経験を通して学ばせて頂いています。
全人類の罪と復活の為に、イエス・キリストが全身の毛孔から噴き出した犠牲の血と十字架上で、肉体が引き裂かれた贖罪によってもたらされた救い以上の宗教を私は見出せません。
お久しぶりです。訪ねていただいてありがとうございます。
また、美ら姉妹の証しとお母様の改宗について、貴重な書き込みをいただき感謝いたします。
酷暑の候、御家族のご健勝をお祈りいたします。沼野
あなた方キリスト教系の信徒の言葉は愛が無いと痛感させられます。
震災のみならず、病気回復を祈ってくれる友人の話をしても「こちらは本物の神様を信仰してる」隣人愛を軽視した宗教最優先は変わりません。
異教の民や異教そのものが許せない性質は、イスラエル初期から変わってません。
キリスト教は一宗教であって、それだけが絶対的福音ではありません。カトリックは比較的穏健で視野見聞も広く他を尊重するのですが、プロテスタント系はモルモンも天上天下唯我独尊で、如何にも一神教と云った傲慢さに悲しささえ抱きます。
最終的に何でもかんでも神殿と言うモルモンもプロテスタントも、寛容性や受容性になさでは同等です。
ナザレのイエスは模範を示して殺されましたが、もしイエスが正体を隠して現代に現れて教会に来たら、あなた方クリスチャンは彼を出入り禁止か厳重に処分するでしょう。
あなた方クリスチャンが進行してるのは組織であり、そこに福音はありません。あるのは名称ラベルだけの空箱です。
辞めた私が言うのもヘンですが、モルモン時代に教わった事の多くが今も活きていて、友人との関わりの中でも仕事面でも役立っている。
アメリカ的と言うのか、個人主義もとても役立ったいて、改めて無駄ではなかったと感謝の思いもあります。
未だにモルモンに活きる昔の学園ドラマのような泥臭い熱血心は、事なかれ主義や横並びを好む日本で不況でも流されない「自己主張できる人間力」として活きています。
モルモン人は議論や駆け引きに強く、職能や教育を重んじる点は素晴らしい。現実逃避になりやすい宗教ですが、モルモンにはそうなって欲しくありません。
モルモン時代に教えられ培った資本主義や競争社会での生き残り法、経済性、生産性、勤勉、宗教が嫌う銭儲けを否定しないのが素晴らしいです。
お伽の共産主義に逃げないのがモルモンの素晴らしさです。元信者ですが、そこは称賛に値します。
神の多様性は水のようです。器の形に合わせて自由に変化します。器がコップだろうと四角い枡だろうと水は水のままです。クリスチャンには受け入れがたい考えです。
http://www.bahaijp.org/
管理者様なら上記のサイトのような考えも理解いただけるでしょう。
末日聖徒を含んでクリスチャン全般に見られる一神教的特徴の指摘、ごもっともです。耳が痛い思いです。「カトリックは比較的穏健・・」に同感です。特に現法王が好評価を得ていると見ています。
後半、元モルとして昔なじんだ特性がその後役に立っている、とのお話が興味深いです。熱血心、主張できる人間力以下見直したい特性だろうと思います。
紹介されたバハイは、昔非常勤先に日米同僚ふたりがバハイの人たちだったので、(また、イスラエルで本部?の側を通ったことがあって)好意的関心があります。