1月21日
朝方はチラチラ雪が降っていた甲賀地方。
午前中に3時間ほど会社に出勤した後、鈴鹿山脈の南端、伊賀盆地の東にあたる伊賀市柘植(つげ)町の集落にある寺院に行って来ました。
駐車場やスロープなども整備された大きなお寺ですね。
浄土宗 平庸山 無量寿院 徳永寺(とくえいじ)
明治以前は滋賀県安土の浄土宗 浄厳院の末寺で、法然上人伊賀霊場めぐり二番札所。
本堂
本堂西側の善光寺堂は19世紀末に信州の善光寺から一光三尊阿弥陀如来立像の御分身をお迎えしたそうで、俗に柘植善光寺とも呼ばれてます。
目につくのは屋根瓦の葵の紋・・・
天正10年(1582年)6月2日の早朝、織田信長が逗留していた京都本能寺を明智光秀の軍勢が取り囲みました。
泉州堺で本能寺の変の知らせを受けた徳川家康は脱出し、京都南部、近江南部、伊賀を越えて現在の鈴鹿市白子から船で三河の居城に戻ったとされています。
その途中、鈴鹿山系の加太峠を越える前にこの徳永寺で一泊したことが伝わっています。その時の御礼でこのお寺では葵紋の使用が許されました。。
NHK大河ドラマ「どうする家康?」ではこの脱出行はどんな風に描かれるんでしょうね。
鐘楼、梵鐘はもと宮寺石照院にあったもので、享保3年(1718年)の天台宗安楽律院派の僧 玄門の鐘銘があるそうです。
閻魔堂は江戸時代中期の文化元年(1818年)に創建されましたが、昭和50年に修復再建されました。
これは閻魔大王による裁定が再現されてるのかな
閻魔の下で鬼に挟まれて置いてあるのは浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為を残らず映すことができ、嘘はつけません
家康が天下を獲り、藤堂高虎が伊賀を治めてからも、この寺は家康の窮地を救った寺として歴代藩主から山林田畠が寄進され、手厚く庇護されました。
この次は伊賀柘植で産まれた俳聖 松尾芭蕉ゆかりの場所を訪ねてぶらぶらしてみます
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