7月14日
滋賀県甲賀市にある『甲賀流 忍術屋敷』を訪れました。
お次は1階にある資料展示スペースを覗いてみましょう
忍者が水を渡る時に使った「水蜘蛛」がありますね。
これ、真ん中に足を乗せて水の上を歩いたんじゃなくて、後ろの壁のイラストにあるように、隙間から水中に足を入れて、フィンの付いた下駄で水を掻いて進んだそうです。
色々な手裏剣
手裏剣は攻撃用というよりも、逃げる時の護身用として使われました。通常は1~2枚くらいしか持ってなかったそうです。鉄でできてるから重いもんね(笑)
逃走ルートなどに撒いて、追っ手を防ぐ撒菱(まきびし)は、水草のヒシの実を乾燥させて作りました。
池で釣りをしてると時々ヒシの実を釣り上げることがありますが、尖がった先っちょは本当に痛いですからね。
忍び刀
永禄11年(1568年)、織田信長は近江佐々木六角氏を攻めますが、甲賀武士団(甲賀忍者)はこれまでと違って、六角氏を積極的に支援しませんでした。
徳川家康は早くから忍者の実力に目を付け、既に甲賀・伊賀の忍者を270名雇い入れていたと言います。甲賀忍者が六角氏を支援しなかったのは、後の天正9年(1581年)に信長が4万6千の大軍で伊賀に侵攻した天正伊賀の乱で、家康を通した甲賀攻め回避の約束があったからと言われています。
甲賀武士団は合議によって物事を決定していて、六角氏よりも信長・家康に協力する方がメリットがあると判断したんじゃないでしょうか。
望月家の家紋である九曜紋
その忍者も普段は農業や薬作りを生業としており、山伏姿で加持祈祷してお守り札や薬を全国で売り歩き、諜報活動などもしていたそうです。望月家も明治の初めまで、伊勢の浅熊岳の明王院の神札と万金丹などの薬を売り歩くことを生業としていました。
薬の製造道具
豊臣秀吉は甲賀忍者に懐疑的で、弾圧的政策を取りましたが、徳川家康は最も忍者を効果的に使った大名でした。江戸時代になり太平の世の中になると甲賀忍者はその役割を終え、江戸城の門警備の役職に就いたりもしました。
江戸時代の寛政期に甲賀古士らによって編纂された『萬川集海』(忍術書)。
既に忍者の存在は過去のものになっていましたが、この忍術書は江戸の社会にかつての甲賀忍者の存在を広く知らしめることになりました。
つづく
過去記事<初めての甲賀流忍術屋敷>
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