会津藩洋学所跡地(京都市上京区)
一条戻橋を渡って、烏丸通りに出る途中、長徳寺というお寺の前に会津藩洋学所跡地の碑を見つけました。
元治元年(1864年)に蛤御門の変が起こり、長州勢が都から排斥されたこの年、会津藩士 山本覚馬が長徳寺内に洋学所を開設したそうです。
上長者町通りを東へ進みます。
天正年間の頃、裕福な両替商があって、長者と呼ばれたことがこの通りの名前の由来だそうですが、平安時代は土御門小路と呼ばれていました。
Google MAP上にはこの上長者町通りにも安倍晴明邸宅跡が表示されてますが、何の碑もなくよく分かりませんでした。。
有斐斎弘道館(京都市上京区)
皆川淇園弘道館址なる碑がありました。
江戸中期の京都を代表する儒者 皆川淇園(みながわきえん)が1806年に創設した学問所の跡地で、弘道館は私立大学の先駆とされているそうです。
2009年にこの学問所址の数寄屋建築と庭園が取り壊されそうになったところを研究者や企業人らの有志によって保存を成し遂げ、今はここを文化サロンとして、茶事や講座などの事業を行っているそうです。
京都御所の西を南北にはしる烏丸通を下っていきます。
写真は京都のローカルテレビ局 KBS京都の社屋。
土御門内裏跡(京都市上京区)
京都ガーデンパレスの入り口付近にあった土御門内裏跡の碑。
土御門内裏は,鳥羽・崇徳・近衛天皇の3代に天皇が24年に渡って利用した里内裏(内裏の外に設けられた御所)でした。
京都御所 蛤御門(京都市上京区)
幕末期、八・一八の政変で京都から追放されていた長州勢力が会津藩主で京都守護職の松平容保の排除を目指して挙兵し、この蛤御門周辺で激戦が繰り広げられました(蛤御門の変、禁門の変)。
今年の2月にも訪れました。その時は激しい雪に降られたのを思い出します。。
二条駅をスタートして4時間、およそ10kmを歩いてもうヘトヘト、足の裏やふくらはぎが痛い痛い
ちょうど足腰にご利益のある護王神社の前を通ったからお参りしていきましょう(笑)
つづく
過去記事<京都写ん歩 陰陽師 安倍晴明>
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