「2・26事件」に至る以前に、軍内部でどのような動きがあったのか、高橋氏がまとめていますので、それに沿って紹介します。
昭和5年9月、参謀本部の橋本欣五郎中佐が中心となり、桜会が結成されます。翌年の6年、桜会の急進メンバーにより、三月事件と十月事件が計画され、いずれも未遂に終わります。
著者はこの桜会の結成を出発点にして、2・26事件の背景を説明します。
〈 1. 三月事件 ( 昭和6年 ) 〉
・陸軍大臣宇垣一成大将が、政権奪取を企画
・陸軍次官杉山中将、軍務局長小磯国昭少将、参謀次長二宮重治中将、第二部長建川美次少将、
および、橋本中佐を中心とする桜会の急進メンバー。
・民間右翼・・・ 大川周明、清水行之助
・無産政党一派・・麻生久、亀井貫一郎
・武力・・・・ 第一師団長真崎甚三郎中将の一部兵力
〈 2. 満州事変 ( 昭和6年 ) 〉
・現地満州では、関東軍参謀板垣征四郎大佐と、作戦主任参謀石原莞爾中佐が、十月事件の計画を推進していた。
・東京には、軍事課長永田鉄山、参謀本部第一部長建川美次少将がいた。
〈 3. 十月事件 ( 昭和6年 ) 〉
・怪文書「皇軍一体論続編」には、建川少将を中心とした結盟と書かれ、
・橋本中佐の「橋本日誌」には、政府を更迭しなければ、満州事変は成功せぬと考え、政府転覆計画を企画したと書かれている。
・これが十月事件を生み出した要因であるが、この事件も三月事件と同様、未遂に終わった。
〈 未遂に終わった原因 〉・・・4つ上げられている
1. 行動の不謹慎 ( おおっぴらにやり過ぎた。)
2. 橋本中佐が、杉山次官に加盟を強要しすぎた。
3. 西田税と北一輝が、政友会に情報を売った。
4. 大川周明が、宮内省高官に情報を売った。
・しかしこれ以外にも、理由があった。
・満州事変勃発後、政府と宮中が陸軍の行動に好感を持たず、とくに外務大臣幣原喜重郎が、国際協調を前面に出し陸軍に抵抗するのを見たとき陸軍首脳にとって、十月事件は頼もしい実践行動だった。
・つまり、院外団体的動きとして有用だったのである。計画を実行させるか、押さえるかは軍首脳の方寸にあった
長くなりましたが、以上が著者の説明の概要です。
この不穏な動きにより若槻内閣が倒れ、幣原外相はこれ以後、昭和20年に日本が敗戦となるまで、政界と官界から姿を消しています。十月事件が実行されなくても、軍上層部の目的は達成されので、これ以上「計画を実行させるか、押さえるかは、軍首脳の方寸にあった。」、という表現になる訳です。
こうしてみますと 昭和6年の三月事件が、軍部独走の大きな出発点であることがよく分かります。ここではまだ、皇道派と統制派は明確になっておらず、両派の軍人が混在しています。橋本中佐を中心とする「桜会」にしましても、メンバーの多くは後の統制派です。
「桜会」をネットで調べますと、
・参謀本部や陸軍省の陸大出の、エリート将校が集まり、影佐禎昭、和知鷹二、 長勇、今井武夫、永井八津次などの支那通と呼ばれる佐官、尉官が多く、約20数名が参加していた 。
と書かれており、2・26事件で決起した皇道派の将校とは別の集団です。
従って同じ年に計画された十月事件も、両派の軍首脳が深く関与しています。彼らには、国際協調で抵抗してくる幣原外相を放逐すれば目的を達したことになります。
若槻内閣が倒れ、犬養内閣となりますと、陸軍大臣が宇垣大将から荒木大将に代わり、今度は、野心家の真崎大将と荒木大将の二人が、皇道派の旗色を闡明にし、統制派への人事攻勢を始めます。
末松氏の『私の昭和史』を読み終えたとき、氏の著作は、挫折を知った軍人の回想録で、諦観の叙述だと述べましたが、予想通りだった気が致します。
2・26事件の関係者として処罰され、刑に服した末松氏は、複雑な心境だったに違いありません。場所が離れていたため決起に参加していませんが、氏の行動は、処刑された仲間たちと同等か、それ以上のものでした。判決が、軍上層部による腐心の結果とは言え、死刑と禁錮の差は大きな罪悪感となり、ずっと氏の心に残ったはずです。
氏は著作の中で、三月事件や十月事件、あるいは桜会、満州事変のことなど、肝心の背景を何も語っていませんでしたが、全てを知っていました。自分たちの手の届かないところで行われる、軍上層部の企みの大きさを知った氏は、著作の中でそれとなく語るしかしませんでした。
・十月事件について言えば誰がバラしたのでもないと、言えば、言えないこともなかった。
・橋本中佐らは、クーデターの必要を上司に具申もしているのだから、上司はすでに、何かが計画されつつあるかは知っていた訳であり、
・押さえるか、実行させるかは、軍首脳部の、方寸にあったわけでもあった。
国を思う軍人であった氏は、赤裸な軍部批判をする気持になれず、かといって同志であった仲間の将校を、反逆の徒の汚名のまま放置することもできませんでした。深い挫折を味わった氏は、暴露や批判をせず、決起した将校たちの日常の姿を綴ることに、心血を注ぎました。
その苦悩の結実が、『私の昭和史』だったということになります。怒りと悲しみを抑え、私情を抑制しあの著書を書いたのかと思うと、敬意の念が湧いてきます。高橋氏の著作で沢山の事実を知れば、末松氏の無念が分かり哀れさがつのります。
氏も含め、2・26事件で決起した将校たちを、「ねこ庭」では非難していません。かといって、賞賛もしていません。彼らが行動しなければならなかった原因が、当時の社会にあったと知るからです。
事件で被害者となった岡田元首相も、『回想録』の中で語っていました。
「将校たちの暴挙は許せないが、農村等の貧困は何とかすべき問題である。」
「人殺しは悪だ。」「軍人の暴走は、断固として許せない。」、敗戦以来、反日左翼の言い分は、常にこのような軍人攻撃で終始します。
どうしてこんな惨事が起こったのか、どうすれば再発防止ができるのか。大事な問題はそこにあるのに、左翼の人間の意見は、偏見のベールを通してしか発せられません。
自分たちが政権を取れば、国民弾圧の独裁国家を作るくせに、そんな話は後ろに隠したままです。まして彼らは、共産主義国家を作るためなら、殺人も辞さない、暴力革命の信奉者たちです。
そんな彼らが、日本の軍部を批判する資格がどこにあるのでしょう。末松氏の苦悩など、分かるはずもありません。何度も繰り返しましたので、自分でも恥ずかしいのですが、やはり今回も言います。
「反日・左翼に、選挙の一票を入れてはいけません。」
「国を愛せない者たちに、日本の政治を任せてはなりません。」
戦前のことを知り、軍人のことを知り、読書をするのは、一方的に彼らを否定したり、貶めたり、攻撃したりするためではありません。どのような政体であっても、横暴や腐敗は付随する汚れです。完全な人間がいないように、完全な政府や、完全な軍隊、世界には存在しません。
その上でより良い方法を追求していくのが現実主義者です。右でも左でもなく、きっとどこかにある現実的手段を探す。
日本は、聖徳太子の昔から過激を排し、「和をもって尊しとなす」国です。平和憲法を守れ、子供を戦場へ送るな、軍備を全廃せよと、日本にだけこんな不都合を押しつける反日左翼主義者たちに、騙されてはいけません。
彼らは自分たちが政権を取ったら、軍隊を持つと言っています。戦場へ送る兵士たちを、一体どこから連れてくるのでしょう。実におかしな人間どもです。
こんなヘンテコな人間に騙されている、お花畑の人間たちは、どうして目が覚めないのか。不思議でなりません。
今回のブログも、結局こんなところに結論がきてしまいましたが、当然だと思います。腐れマスコミの偏向報道が横行する限り、国を大切にしない「お花畑の住民」が存在する限り、「ねこ庭」のブログは、同じ音色を奏でます。国の独立を手にするまで、500余年をかけたノルウェーを見習っているのですから、ちっとやそっとではめげません。
尻切れトンボの感がありますが、本日はここまでと致します。