李恢成氏著「追放と自由」( 昭和50年刊 新潮社 ) を読了。
氏は昭和10年に、当時日本領だった 樺太で生まれたということです。名前だけ知っていましたが、今回初めて著作を読みました。本を手にして、先ず奇妙に感じたのが、「目次がない。」ということでした。目次のない本というだけでも珍しいのに、さらに珍しい経験をいたしました。
最初の12、3ページは、巧みな叙述に引き込まれ、夢中で読みましたが、帰化した朝鮮人である主人公が自分の人生を呪い、日本を憎悪しだすと強い嫌悪にかられました。細かな文字で、ほとんど改行なしの文章ですから、根性がないと読めない本です。
退屈はしませんでしたから、芥川賞を受賞しただけの作家だと思わされました。
日本人である私は、国の悪口をここまで語られますとさすがにいい気はしません。それほど憎い日本なら自国へ帰ればいいでないかと、ずっと反感を抱きながら、読み続けました。こんな人間に芥川賞をやるなど、日本人の馬鹿も極まれりと悪態もつきました。
しかし、最後のページの、20行で、私は感動しました。
つまり、書き出しの文章で夢中になり、途中は全て嫌悪し、最後の最後の数行で感動したのですからめったにない読書体験です。そこでハタと困りました。この稀有な経験をどうすれば、息子や孫たちに伝えることができるか。気負ったり、大げさになったりせず、事実を伝えるにはどうすればいいのか。
芥川賞をもらうほどの文才はなの、自分はどうせ普通の小父さん ( お爺さん? ) なのだから、思いつくとおり語ればいいのだと、下手の考え休むに似たりと、母がよく言いましたがそういうことでした。
主人公の石田は帰化した朝鮮人で、アフリカのある国の駐日大使館で運転手をしています。日本人の女性と結婚し、一才の男の子がいます。妻には朝鮮人であることを話ししていますが、周囲の誰にも言わず日本人として暮らしています。彼の父はすでに亡くなっていますが、母は健在で、兄弟夫婦や叔父や叔母やなどが年に一度先祖の供養をするため集まります。
全員が帰化しているのでなく、朝鮮籍をもったままの者もいます。帰化した者は引け目を感じ、帰化しない者はそれとなく非難の目で眺めたりしますが、彼らに共通しているのは、日本への恨みと憎しみです。彼の妻は日本人であるため、その場で除け者にされ冷たくあしらわれます。
親戚の集まりから帰った日に、妻は、自分を守ってくれなかった夫の不甲斐なさに失望し、幼児を連れ実家に帰ってしまいます。この辺りが物語の始めで、心に秘めてきた主人公の葛藤が、急速に怪物のごとく暴れ出します。
繁華街で集団暴行されている朝鮮人の学生が目に留まると、衝動的に、ヤクザな不良学生たちと闘い結局病院へ搬送されます。
天皇陛下の園遊会に招かれた大使を送ることになった彼は、天皇の暗殺を決意しますが、これに失敗し、生まれ故郷の長野に向かいます・・。こうしてあら筋を追っていると、ブログのスペースがとられ本題を外れますから、止めましょう。
最近、在日について考えるようになりましたが、この作品のお陰で、考えていた以上に複雑な問題であることが、分かりました。これが在日の人々の心情であるとするなら、彼らの救いようのない心の状況を知りました。
デニムのジーパンを履いた若い女が、朝鮮語の語学学校の講習会で喋りました。
「だって、そうでしょうよ。」「日本人はなんでも、フリだけじゃない。」
「一億総懺悔したけど、それでいてまだ南朝鮮に侵略してるでしょ。」「どうして、私らの親たちは強制連行されて来たのさ。」
「そりゃ、ここにいる人たちがやったんじゃないけどさ。」「でもやっぱり、責任はあるよ。」
「あんたらは、私らが今もどれだけ差別されてんのか、心情的に知っててもね、絶対に本当の苦しみなんか、分かんないんだ、絶対に。」
昭和50年代の著作ですから、まだ「強制連行された朝鮮人」という話が、誰からも異論を唱えられていない時代です。無理もないと思いましたが、昭和50年代の日本は韓国を侵略していません。
講習会から自宅へ戻り、主人公が妻に語ります。
「朝鮮人は、それでもまだいいさ。やつらは団体があるし、自分の旗を振っていられるんだから。」
「ところが帰化した者は、そうはいかんぞ。もちろん、生きられはするだろう。過去を隠して分相応に小さくなっていりゃな。」
「ところが俺には、そいつが堪んないんだ。股の下をくぐって、生きなきゃならんのが。頭を抑えられりゃ、血がのぼるってのは決まっているのさ。」
好き合って結婚した妻なのに、家ではいつもこのような諍いをします。彼のトラウマというのか、原体験とでも言うのか、それは長野県の松代にある「三角兵舎」です。
大東亜戦争の末期に、天皇の御座所を松代に移そうとする計画があり、「大本営地下壕」と呼ばれていたことを知りました。
完成すれば天皇陛下が移られると言うものでしたが、ネットで調べると、次のような事実が分かりました。
・昭和19年11月に、最初の発破が行われ、工事が開始された。
・ダイナマイトで爆破し、崩した石屑をトロッコを使って運び出すという、人海戦術で行われた。
・建設作業には徴用された日本人労働者と、国内および朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心となった。
・総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、当初8時間三交代、のち12時間二交替で工事に当たった。」
長野市の現代史研究家大日向氏によりますと、
・一日12時間の厳しい労働と粗食のため、栄養失調が多発した。
・発破などの主要作業を担った朝鮮人労働者は、建設に決定的な役割を果たし、犠牲者数も日本人より圧倒的に多かったが、正確な犠牲者数はっきりしていない。
・地下壕掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合で、壕外での資材運搬で働く朝鮮人労働者には、白米3合が配給、他に麦やトウモロコシなどが配られるという、破格の待遇であった。
・朝鮮人労務者は規則正しく礼儀正しく、家族ぐるみで働きに来ている者もおり、子弟は日本人と一緒に学校に通った。
・松代住民と朝鮮人との仲は比較的良く、朝鮮人が農業を手伝ったり、西条地区の強制立ち退きも手伝った。
・また日本人と朝鮮人の恋愛結婚もあった。朝鮮人労務者の食事事情は、国内での炭鉱や土木工事などに徴用された朝鮮人労務者と比較し、待遇面では悪くはなかったようで、日本人よりも良好だった。
・終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり、250円の帰国支度金が支払われ、昭和20年の秋にはほとんど富山港から帰国させることができた。
現場のすぐ近くに、作業員用の「三角兵舎」と呼ばれる長屋が並び立ち、主人公はそこで生まれました。とてつもない粗末な建物で畜舎だと書いていますが、ネットで調べますと、朝鮮人用に建てたひどい建物ではありませんでした。
もともとは特攻隊員の宿舎として作られ、鹿児島の知覧には、現物が残っているそうです。敵の目を欺くため松林の中に半地下壕をつくり、地上には三角の屋根しか見えない兵舎で、各地から集まった隊員たちがニ・三日後には、雲のかなたの沖縄の空に 飛んで行ったといいます。
世間に流れる情報というのは、こんなものです。在日の著者に言わせると、作業現場は地獄のように悲惨な場所で、朝鮮人たちが酷使され、ひどい仕打ちを受けたという話になります。
日本の情報では、朝鮮人も日本人も一緒に働き、むしろ危険作業をした彼らの方が、賃金も食べ物も特別扱いだったとなります。互いに仲良く働き、日本人との恋愛結婚もあったと言います。
おそらくはどちらも事実で、渾然としていたのが実態でないかと思います。慰安婦問題と同じで、後世の人間たちが、自分の偏見を語るため、事実の一部を針小棒大に作り変えているのでしょう。
沖縄の辺野古で、日本政府を罵っている芥川賞の受賞作家もいますから、李氏の作品に同調せず、むしろ冷たい視線で文字を追いました。
氏のおかげで、長野県の大本営地下壕や、三角兵舎について知ったことは、感謝せします。最後の数行で氏の作品に感動したかにつきましては、スペースが無くなりましたので、次のブログといたします。