今回は氏の著作から、日本人への恨みと憎しみの部分を集めて紹介します。
・私は異様な父の遺言を、一生忘れることがないだろう。
・心臓が止まる前の日、父はいくらか持ち直したかにみえた。三人の息子を枕元に座らせ、ぎらぎら光る目で、俺たちを見つめた。
・空が落ちても、忘れるなよ。いいか、倭奴( ウエノム ) に、魂までは渡さなかったんだぞ。祖父 ( ハラボジ ) や、我々のように、騙されるなよ。
・そもそも父は、何を騙されたのだろう。漠然と想像できるのは、拉致されてきた事情である。
・強制連行さながら、三角兵舎にやってきた。母はその後を追っかけて、日本に渡った。」
親たちは、拉致され、強制連行されて日本へ来たと、氏はこのように書いています。それなら主人公の母は、そんな父になぜ簡単に再会できたのか、割り切れない作為を感じました。
その母が主人公に、日本人の妻との仲を聞いてくる場面がありました。
・どう、嫁さんとはうまくいってるの。何もかもうまくいっていると、答えながら、主人公が独白します。
・親は経験の恵みを、子供に分けてくれる。しかし私たちがぶつかつた問題は、彼女のどんな経験にもない、新しい次元のものだった。
・日本に渡ってきた親たちは、貧困や抑圧に苦しんだが、私たちはむしろ、存在の意味に苦しんでいる。
今度は主人公が、兄と交わす会話の場面です。
・いったん帰化したからには、日本人以上に、日本人らしく生きることによって、確固とした市民権を獲得すべきだというのが兄の持論だった。
・こういう考え方には、いつも虫酸が走った。私は情けなくなった。兄貴は、父親の悲しみを忘れてしまっている。
・兄貴が日本人以上に、日本人らしく生きようと思っているのは、単なる処世術にすぎないのである。
・会社経営の現実の困難に日々直面していると、自然とあのような考え方に、落ち着いていくのであろうか。
・朝鮮人よりも日本人が有利であり、日本人の方が信用がある。こうした現実の不条理は、無視できない。
・しかしいくら裸になれと要求されたからといって、パンツまで脱ぐことはないじゃないかと思う。
そして今度は、唯一の友と言える男との対話です。その友は、朝鮮の統一を願い、民族の祖国を取り戻そうと活動しています。
・君はこの日本の社会構造、差別と偏見に満ちた世界に向かって、憎しみを吐き出した。それが僕に、一つの魅力を感じさせた。
・憎しみを、君が持っているという素晴らしさだよ。僕は、われわれ青年の憎悪とか敵意は、健康な青春の証拠だと考えている。
敵意や憎悪が青春の証拠だと、私は一度も考えたことがありません。このような思考は、日本人にはないもので、違和感を覚えました。けれども、次のような思考の穴でもがく主人公には、同情とかすかな共感を覚えました。
・もし日本人をすべからく復讐の対象とすれば、私は自らを憎まなくてならない矛盾に陥る。
・なぜなら私も、日本人という外装をつけた人間だからだ。罪のない大津増蔵も、小坂好子も憎むべき対象となる。そして誰よりも、妻と息子を !
・しかし、こんなことは可能だろうか。
・復讐の観念を単純化するのは、危険だ。しかしもしと、私は考える。
・この日本に巣食っている偏見と、差別に反対する日本人がいれば、私は喜んで、兄弟の血盟をするだろう。
・日本人だって、ジャップとか、黄色い猿と、外国人から軽蔑されているではないか。私は日本人の少数者と手を組んで、偏見退治の同盟軍を結成してもいい。
日本人は大東亜戦争時に、米国で蔑まれ疑われ、過酷な荒野の収容所へ強制移住させられました。人格も財産も奪われ、ただ日本人という理由だけで、戦争の間中辱められました。
そんな日本人を知り、自分の憎しみを和らげるというのでなく、差別された日本人の憎しみと、手を取り合おうと言います。朝鮮人である彼は、赦しという気持ちを知らず、憎しみでしか結びつこうとしません。
作者は、主人公の唯一の友である男に、驚くようなことを喋らせます。朝鮮人が、このような思考を持っていると知るのは初めてでした。
・僕らが反日的だということは、避けられないことだ。
・日本の大国主義的な、政治と経済侵略が祖国の政治と経済を支配し、ふたたび36年間の悪夢を蘇らせようとしているのに、どうして親日的になれるだろう。
・僕は日本人に向かって、はっきりそう言うだろう。」
昭和50年代の日本人が、そのように思われていたとは、本を読むまで知りませんでした。彼らの憎しみは再生され、新しい理由が生まれていました。日本人が意識しないことですから、横たわる溝の深さは見えません。韓国人との和解は、未来に渡ってあり得ないという思いがしました。
主人公は長野へ行き、大本営壕の工事跡を訪ね、その付近に残り住んでいたわずかな朝鮮人たちと出会います。荒れ果てたあばら屋に住む夫婦が、彼の眼の前で小声の会話をします。
夫婦は、主人公の亡くなった父親の過去を知っている様子でしたが、訊ねても、言葉を濁し答えません。二人きりになった時、彼はその妻に、再度話しかけました。
・どうして、ここに残っているんですか。
・行くとこ、ありゃせん。、と金歯を覗かせて彼女が笑い、顔を曇らせます。
・北へ帰った人からは、やれ何送れ、かに送れって、手紙が来るって言うじゃないの。
・韓国に戻った人は、財産はたいて乞食していると言うし、もの言えば捕まるって、いうじゃないの。
・だから、何だかんだ言っても、日本が暮らしいいのと違いますか。
そしてついに彼は、その女から父親の当時のことを聞き出します。
・死んだから悪くは言えんけど、あんたのトーサンも、朝鮮人から恨まれた組だよ。
・日本人と組んで、どのくらい私らをこき使ったか。天皇のためだとか、大東亜のためだとか言ってな。
・あんたのトーサンは、朝鮮人の親方の一人で・
主人公はそこまで聞き、めまいを感じてうずくまり、女が心配顔になります。休んで行けという申し出を断り、彼は大本営地下壕へ行き、暗い穴倉の中で自殺を決行します。兄の家から盗んできた、工事用のダイナマイトに火をつけ放り投げます。
しかし彼は、傷を負いながら奇跡的に発見され、意識が戻ったのは病院のベッドの中でした。
傍らには、妻と息子がいました。そして彼は日本への帰化をやめ、もう一度朝鮮国籍に戻ろうと決意します。己を隠したトンネルから抜け出し、地上の人間になると、彼は決めました。妻の信頼を回復するためにも努力しようと、心に言い聞かせます。
・私は自由なのだ。とにかくトンネルから出てきたのだ。
・明日からの生活、日々のたたかい。私は身震いを覚えた。
・その生活が、どんなに親しく、また重々しく感じられることだろう。
妻子のため、ふたたび生きようとする彼の決意に、私は尊いものを感じました。日本への恨みや憎しみを乗り越え、愛する家族のため生きようとする姿には、反日と偏見を超える普遍のものが示されているような気がします。
北朝鮮と韓国への帰国者たちが、不幸な目に遭っている事実や、父親が裏切り者だったことなど、都合の悪い話も隠さずに書いています。作者の悲しみと、絶望に、敬意の念が湧きました。
というところで、本の紹介は終わりです。楽しい読後でありませんが、意義深かったと満足しています。こういう作品を書いた李恢成とは、どんな人物なのか。次回はそれを述べ、不思議な本との出会いの記念にする予定です。