昭和16年10月12日、東京荻窪の近衛邸における、総理と外相、陸相、海相並びに企画院総裁との日米交渉問題に関する会談以来、政局は、急転直下の方向をとっていきます。
14日の閣議前に、公は東条陸相と単独会談をしました。
・日米交渉の成否は、中国からの撤兵問題に帰着すると思われる。
・名を捨て実を取るという態度で、一応撤兵を認めるということには出来ないものか。
・支那事変が、四年にわたって解決しない今日、さらに見通してのつかない大戦争に、突入することは何としても避けたい。
これに対する陸相の答えは、
・撤兵ということは、皇軍の崩壊を意味する。
・この際アメリカに屈すれば、ますますつけ上がらすことになるばかりで、2、3年すればまた戦争ということになる。
・総理の考えは、悲観に過ぎる。撤兵問題は、絶対に譲れない。
・撤兵を認めれば、結局満州、朝鮮さえも危なくなる。
当時陸相は公に対し、「人間一生のうちには、清水の舞台から飛び降りることも、必要であります。と言い、次のように公が答えられたと富田氏が書いています。
・それは個人のことであって、自分は2600年の国体と、一億の国民を背負っている総理大臣として、そんな軽率なことはできるものでない。
・たとえ因循姑息と言われても、自分はそんなことはできない。
・安全第一で、100パーセント安全でなければ、戦争は避けねばならぬ。
事態がますます逼迫し、当日の夜陸相の使いとして、鈴木企画院総裁が公に意向を伝えに来ました。
・自分としては、大変言いにくいことであるが、東久邇宮以外にこの事態を収拾しうる方はないと思う。
・これ以上総理に会っても結局感情を害するだけであって、もうお目にかかって会談したくない。
陸相から匕首を突きつけられ、総辞職を要求された公は、陛下に宛て辞表を書くことを決意します。
「今この辞表を、改めて読み上げながら、感慨誠に無量なるものがある。」と富田氏が語っています。長文のため、最後の数行だけを紹介します。
「ここにおいて臣は遂に、所信を貫徹して、補弼の重責を全うすること、能わざるに至れり。」
「これひとえに、臣が非才の致すところにて、まことに、恐懼の至りに絶えず。」
「仰ぎ願わくば、聖慮を垂れ給い臣が重責を解き給わむことを、臣文磨、誠惶誠恐勤みて奏す。 内閣総理大臣 近衛文磨」
今はもう使われない言葉ですが、そのまま紹介しました。刀折れ、矢が尽きた孤高の宰相の言葉がです。軍人のテロが終始公を狙い、日々が命がけでしたから、公にご苦労様でしたと言わずにおれません。
危機の迫る国際情勢の中で公は過去の人となり、次代は東条陸相へ引き継がれていきます。東京裁判の折、陛下に責任を負わせることなく、敗戦の責任を一身に負った東条大将ですが、政争の舞台裏を知りますといささか失望します。
「近衛公はあの時もっと頑張って、東条陸相を更迭してでも、戦争を回避できなかったのか。」
「そのことは、戦争反対であられた陛下に御了承願えたと思うが。」
戦後にこういうことを言う人が現れ、富田氏が公に話を伝えますと、次のように語ったと言います。
「問題は、陸軍大臣よりも海軍大臣ですね。」
「山本五十六大将なら、日米戦争を回避し得たかもしれません。」
「海軍大臣に山本氏を持ってこなかったのは、日本のために残念でしたね。」
緊迫した御前会議でしたが、当時は陛下を含め、誰もが戦争回避を願っていました。海軍が戦争は無理と言えば、それで陸軍を抑えることができると公は期待していました。
しかし海軍は後々の責任を取らされることを危惧し、非戦を言い出しませんでした。つまり陸軍と海軍が互いに責任回避をつづけ、戦局の悪化を深めていた面がありました。公が海軍を批判したのは、こういう背景があったからと思われます。
一方では、木戸内府のような意見もあります。
「海軍では、陸軍は抑えられぬ。」
「海軍が戦争回避に持って行こうとすれば、陸海軍衝突の、内乱が起こるかもしれない。」
一層公の苦境が見えて来ます。富田氏に語った公の言葉は以下のものも含め、歴史的に貴重な述懐という気がします。
「それから陛下のことだが、陛下はもちろん平和主義であくまで戦争を避けたいお気持ちであったことは、間違いないが、自分が総理大臣として、陛下に、開戦の不利なることを、申し上げるとそれに賛成されていたのに、」
「翌日御前に出ると、昨日あんなにお前は言っていたが、それほど心配することもないよと仰せられて、少し戦争の方に寄って行かれる。」「また次回には、もっと戦争論の方に寄っておられる。」
「つまり陸海軍の統帥部の人たちの意見が入って、軍のことは総理大臣には分からない、自分の方が正しいという、御気持ちのように思われた。」
「従って、統帥についてなんら権限のない総理大臣として唯一の頼みの綱の陛下がこれでは、とても頑張りようがない。」
初めて知る昭和天皇のお姿です。英名な君主でなく、臣下の意見に左右される陛下でもありました。
「また仮に、戦争反対派の小畑俊四郎や真崎甚三郎を陸相にしても、殺されれば後は続かない。」
「木戸は寺内、阿部に近く、東条を信用して真崎を嫌っている。」
「陛下も、皇道派をだいたい御信任にならない。」
「こういう状況では、自分の手の施しようもなかったのだ。」
公自身の弁解も多分にあるが、心境を伺えぬでもないというのが富田氏の意見です。陸軍と海軍が、開戦についての本音を言わず、互いに相手が言いだすのを待っていた状況にも似て、公の決断は常に相手の出方待ちが多かったと感じました。
多面的思考を巡らせ、軽挙妄動しない慎重さは、国の指導者に求められる資質です。難局に向かったとき、これしかないと決断するのも指導者の役目です。
理屈は通っていますが、松岡外相の罷免の件でも、東条陸相への対応についても、はたまた陛下への奏上につきましても、公には凛とした覚悟が見えません。
「近衛はどうも、頑張りが足りないね、」と陛下がおっしゃっていると、木戸内府が富田氏に伝えたそうですが、
もしかすると陛下は、公の口から「開戦には断固として反対です。」と聞かされるのを待っておられたのかもしれません。聡明であり過ぎるゆえの優柔不断が、公の言動にはついて回るように見えます。
従って残念ですが、近衛公も、松岡外相、東条陸相と共に、「日本を破滅に追いやった張本人の一人だった。」と言わざるを得なくなりました。
次の「ねこ庭」は、近衛内閣から交代した東条内閣です。箸にも棒にもかからない内閣だったと、昨年読んだ、『岡田啓介回顧録』に書いてありました。明日の日本を考える上で大切な過去だと思いますので、次回も続けます。