本日はいよいよ「統帥権」について、氏の著作の本題に取り組みます。
何度か読みましたが、今ひとつ理解に至りません。長くなりますが、根気強く紹介し、紹介しながら考えます。
・統帥権の独立、という言葉があります。・これ軍隊の統帥が、法律事項でないことを意味しているわけです。
・統帥権は、何からの独立かということを、ハッキリさせなくてなりません。
・これは戦前においてもしばしば曖昧であって、東大や陸海軍の部内においても、憲法からの独立という解釈すら出ておったのです。
・それから、政府からの独立である、という解釈もあった。
・そういう混乱が、軍を誤らせた点につながったと思います。
・統帥権の独立とは、国会からの独立ということなのです。つまりこれは、法律事項ではないということで、これが統帥権独立の根本義です。
・こういう考えが出てくるまで、ヨーロッパにおいても、幾変遷がありました。
・第一次大戦の頃、フランスでも、こういうことを国会で論戦したのです。
・ところが国会で、ああだこうだと議論しておったら、作戦も間に合わないし、秘密保持も何もあったものではない。これでは大変だと、考え直したわけです。
天皇と直結した統帥権が問題なのですから、天皇のおられないヨーロッパの話が、なぜ出てくるのか。「ねこ庭」の疑問が始まります。
・したがって統帥権は、法律に基づく、行政作用の下に立つものではありません。
・今の自衛隊と違って、本来の軍隊は行政官庁ではありません。そうでなく、国家の統制作用の下に立つものである、ということです。
・以前は、統帥権の独立などと言って軍部が独走し、勝手に戦争をやったから、いけないのだ。
・だから今度は、シビリアン・コントロールでいくのだ、という議論が、自衛隊の中でも内閣でも、今平気で行われているけれど、これは意味をなさぬのです。
・シビリアン・コントロールであると同時に、それでいて、統帥権の独立なのです。ここが非常に重要な点ですから、ひとつ、よく吟味していただきたいと思います。
この辺りから、分かったような、分からないような、それでいて、日本人なら、簡単に否定できない氏の意見が出てきます。
・統帥権の独立があったから、軍が独走したのだというのは、実に卑怯な、泣き言だと思います。
・今は軍隊が無くなっているものだから、責任を全部転嫁し、軍隊のせいにしていますけれど、あれだけの戦争をやるのに、いったい軍隊が独走なんかできるものですか。
・内閣も産業界も国民も、みんながそっぽを向いても、軍が独力でボンボン突っ走る。そんなことは、できっこありません。
・そうではなくて、やはりみんなが、欣喜雀躍といっていいくらいに、今までアジアの有色人種を侵略してきた白人優越の世界史の間違いを、打破するのだ。そして東亜永遠の平和を、築き上げるのだと、そういう理想に燃えて、立ち上がったことは、確かに間違いないのです。
昭和48年に、氏が述べた意見です。
「軍国主義の日本の間違い」「絶対的天皇制のアジア侵略」と、東京裁判史観が日本に浸透していた時の意見です。
先日の、長尾たかし氏の言葉を思い出してみましょう。
20年前といえば、たかだか平成10年代です。その時でさえ憲法問題を語ることがタブーだったのなら、昭和48年にこんな意見を公表すれば、東大を追放され、冷遇されるわけです。氏の勇気と無鉄砲さと、信念の強さを感じさせられます。愚かな政治家長尾氏の無知な説明と比較しながら、氏の意見を読むことにします。
・日本は戦闘には負けたけれど、戦争に勝ったか負けたかは、まだ分からない。
・むしろ、戦争目的を達したかどうかが、大事な点です。身を殺して仁を為す、という言葉もあります。
・とにかくあの戦争から戦後にかけて、有色民族の国がアジアどころか、アフリカその他の方面でも、独立したではないですか。
日本はこれからも国際社会で、有色民族のため新しい国際秩序の形成に努めなくてならないと、氏は結びます。
日本は戦闘には敗れたが、アジアの解放には成功したと意気軒昂です。頑固な保守の独りよがりだと、先日まで「ねこ庭」ではそう思ってきました。
「温故知新」の読書で、タイの元首相ククリット・プラモート氏が、昭和50年に語った言葉を知りましたので、氏の意見を頑迷保守の思い込みと、簡単に片づけられなくなりました。
タイの元首相ククリット・プラモート氏の言葉を紹介します。