ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『解放朝鮮の歴史・上巻』- 3 ( 「カイロ宣言」 について)

2018-02-10 18:00:16 | 徒然の記

 コンデ氏の説明によれば、本書の目的の一つは、共産主義への脅威を感じ始めたアメリカが「カイロ宣言」に反し、連合国軍内でのソ連の影響を阻止しようと、李承晩政権を作り上げた暴挙を糾弾することにあります。

 本論に入る前に、「カイロ宣言」について調べてみました。

  ・ 1943( 昭和18 ) 年11月22日に、エジプトのカイロで行われた会談。

 ・  ルーズベルト、チャーチル、蒋介石三人の首脳会談の結果を公表したもの。

 ・  宣言には日時や署名がなく公文書も存在せず、宣言として扱うことが適切かについて議論もある。

 ・ 議題は、「日本の降伏」、「満洲・台湾・膨湖諸島の・中国への返還」、「朝鮮の自由と独立」など。

 ・ その後連合国の基本方針となり、「ポツダム宣言」に継承されたと言われる。

 この時のルーズベルトの狙いは、抗日戦を断念し、連合国の戦線から脱落する恐れがあった中国を、米英ソの三巨頭に加え国連常任理事国入りをさせ、士気を高めさせることにあったと言われています。

  『チャーチル回顧録』には、中国戦線の実態を把握していなかったルーズベルトと異なり、実情を知悉していた彼は、蒋介石の参加に反対だったと書いてあるそうです。

 カイロ宣言の翌年、日本は蒋介石軍の対日戦線をほぼ全滅させています。敗戦国となる蒋介石を連合国に加えたくなかったチャーチルですが、なぜかルーズベルトにはこの事実を伝えませんでした。一方ルーズベルトは、厭戦気分になりつつある蒋介石が、単独で日本と停戦し、講和をを結ぶことを危惧していました。

 結局蒋介石の晴れ舞台は「カイロ会談」で終わりとなり、その後、連合国の重要会議である「テヘラン会談」「ヤルタ会談」「ポツダム会談」には、招かれていません。

  チャーチルが事実をルーズベルトに語り、ルーズべルトが蒋介石を参加させていなかったら、歴史は大きく変わっていました。敗北寸前だった蒋介石は、実際に単独で日本との講和を模索していました。歴史にイフはありませんが、蒋介石との講和が実現していたら、毛沢東の「中華人民共和国」は、誕生していなかった可能性があります。

 歴史にもしもはありません ので、本来のテーマへ戻ります。コンデ氏が、「カイロ宣言」に反し、アメリカがしゃにむに李承晩政権を作ったと憤っているのには、少し説明が要ります。

 「朝鮮の自由と独立」が議題にされたカイロ会談には、スターリンが参加していませんでした。日本が無条件降伏した後のことは、ソ連を含む連合国で処理するというのが建前でしたから、ルーズべルトはテヘラン会談時に、「カイロ宣言」をスターリンに説明し、同意を取りつけました。

 これ以後、「朝鮮を独立させ、自由な国にする。」という政策が、米ソの同意した基本方針となりました。しかし問題はこれからでした。「朝鮮を独立させ、自由な国にする。」までは、ソ連を含む連合国の共同作業となり、ソ連の同意なしに事態が動きません。

 ソ連軍が朝鮮北部に進駐したのは、米軍が南部朝鮮に軍を進めるより一ヶ月前でした。ソ連は金日成を使い、社会主義政権の樹立を進めていましたので、静観していると朝鮮は社会主義国家になってしまいます。

 アメリカはマッカーサー元帥に指示し、元帥は現地のホッジ将軍に司令をだし、保守政治家の李承晩を担ぎ上げ、統一国家の首班とすべく動き出しました。

 コンデ氏は、アメリカだけを攻撃しますが、ソ連も「カイロ宣言」を無視し金日成の政権基盤を北部で固めていたのですから、どちらにも同じです。コンデ氏のように、敵対する相手側だけに難癖をつけるのが、左翼主義者の常套手段です。氏の意見だけを読んでいますと、事実を知らない読者は騙されます。

 ここまで結論づけると、本の紹介が終わったことになりますが、まだ具体的な事実を述べていません。このままでは息子たちも、訪問された方々も納得がいかないと思いますので、次回は具体的事実を述べます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『解放朝鮮の歴史・上巻』- 2 ( マッカーサー元帥の「布告文」 )

2018-02-09 18:42:07 | 徒然の記

 コンデ氏は、小さな活字で300ページ以上ににわたり、アメリカの軍事政権の悪行を暴露しています。その長い説明を要約しますと、次のようになります。

  ・アメリカが余計な干渉をしなければ、朝鮮には統一された社会主義国家が生まれていた。ソ連の協力で、人民を解放する素晴らしい国ができていたはずだ。

 氏の叙述はアメリカの悪口の後で、常に日本への敵意が続きます。

 ・米軍事政権は、朝鮮の人民を抑え込むため、日本が残した統治組織を利用し、日本以上の圧政を行い、人民の苦しみと悲惨さを放置した。

 コンデ氏だけでなく、この書の出版に協力した左翼主義者たちは十分な調査もせず、頭から日本叩きをし、朝鮮人を弾圧したと述べます。出版当時の状況を思えば、この本は日本で多くの人間に読まれただろうと推察できます。マルクス主義に憧れる日本人だけでなく、在日の朝鮮人も意を強くして読んだはずです。

 本はさらに韓国・北朝鮮に持ち込まれ、彼らの「恨日」に貢献したと思われます。具体的な事実でアメリカを攻撃すると、必ずそこに日本への憎しみが添えられているので、読んでいる間ずっと怒りをこらえました。

 現在の北朝鮮を見れば、コンデ氏たちの考えが見当違いだっだことが分かります。社会主義国家として朝鮮が統一されていたら、朝鮮民族が幸せになったと、こんな意見ですから、「歴史的な価値」があるというのはそういう意味です。

 トルーマン大統領の『回顧録』の中に書かれている、朝鮮占領後3ヶ月の時点で、ホッジ将軍が報告した言葉が紹介されています。

   ・現在の状況では、アメリカの朝鮮占領は疑いもなく、政治的、経済的などん底状態にまで押しやられる。

  ・ここからは極東におけるアメリカの威信を、回復することはおぼつかない。

  ・現状のままなら、アメリカとロシアが同時に朝鮮から撤兵し、あとは朝鮮人の思うにまかせ、必然的に起こる国内動乱の中から、みずからが清浄化の方向へ動くよう、ロシアとの協定を真剣に検討するよう勧告したい。

 これに対し、コンデ氏は次のように述べています。

  ・ホッジの結論は、正直で、賢明な判断だった。

  ・アメリカの政策が、この判断に基づいていたら朝鮮戦争など起こらず、朝鮮の状況は大いに違ったものになっていただろう。

  ・この時アメリカ軍が南朝鮮に到着してから3ヶ月、ソ連軍が北朝鮮に入ってから、4ヶ月が経過していた。

  ・この二つの地域で取られた決定は、全く異なっていた。

  ・両国の占領が始まった時、すでに朝鮮全土には、人民共和国委員会が樹立され、権力を行使していた。

  ・北部ではソ連が、人民の意志に基づき、つまり民主的に人民が統治し続けることを許可した。

  ・土地改革と昔の日本人企業の国有化は、大多数の朝鮮人民に支持された。

  ・これに反対した比較的少数の者は、地主、実業家、対日協力者など、自分の労働で、暮らしを立てることに慣れていない人々で、彼らは南部に逃亡した。

  ・南部のアメリカ地区では、人民共和国委員会は弾圧された。

  ・日本人企業の国有化の要求や、アメリカの政策より少し左寄りのことを実行しようとすると、その努力は妨害された。

  ・ホッジ将軍が発した三大布告は、朝鮮人民がみすがら作った組織を通じて、自治を行うという可能性を奪ってしまった。

 〈 ホッジ将軍が発した三大布告 〉

   1. 日本人の政府が出したすべての法律、規則は引き続き効力を有する。

      2. 日本人によって維持された朝鮮の慣習は、正当な権力によって変更されるまで有効である。

      3. 軍政府は、日本の朝鮮総督の権限をすべて引き継ぐ。

  ホッジ将軍が発した三大布告は、以上です。著者が批判しているのは、北朝鮮でソ連がやったように、日本政府の作った法律や諸制度を全廃せず、継承すると宣言したところです。

 社会主義国を作ろうとするソ連には、日本の影響を残すものはすべて邪魔でしかありません。破棄し、破壊し、消滅させなければ、社会主義朝鮮が作れません。

 しかしこれから、ソ連や中国の共産主義と戦おうとするアメリカは、反共の日本が作った政策を継承します。アジアで共産主義と戦い、懸命に国を守ろうとしたのは日本だけでしたから、米国の指導者も朝鮮統治に関しては日本の制度を継承しました。

 それなのにアメリカは、日本を悪として叩き、解放者としての姿で朝鮮人に臨もうとしました。なぜならアメリカの占領に韓国が激しい拒絶反応をし、アメリカそのものが憎悪されたからです。アメリカは、韓国の世論に合わせ、日本を極悪非道の国としなくては占領政策が遂行できなくなりました。

 それはちょうど現在の米国が、かけがえのない同盟国として日本を重要視しながら、一方で韓国の機嫌を取り、私たちを傷つける言動をしているのと同じ姿勢です。アメリカの矛盾した動きは、この時から始まっていました。

 昭和21年に韓国共産党が発表した、党の目的とする三項目を氏が紹介しています。これを読みますと、日本の存在は、日本人が認識している以上に、当時も今も韓国に大きな影を投げかけているのが分かります。

  1. 日本帝国主義を、朝鮮から完全に駆逐すること。

  2. 親日朝鮮人を、公的生活と軍政府から追放すること。

  3. 朝鮮における、進歩的民族運動を支持すること。

 韓国の歴代政権が取り組んでいたのは、上記3項目だった言うことが分かります。朴槿恵氏が、「日本への恨みは千年消えない。」と言いましたが、本音なのかも知れません。

 次に、太平洋軍総司令官としてマッカーサー元帥が、朝鮮人民へ発した布告文の帥一部を紹介します。

 韓国も北朝鮮もことあるごとに、日本が韓国人を奴隷として扱ったと見当違いの攻撃をしますが、これを最初に公的に発言したのがマッカーサー元帥でした。大東亜戦争の責任をすべて日本に負わせるため、元帥は日本国憲法だけでなく、日本の悪評をアジアで広めた最初の人物だったことを発見しました。

 〈 アメリカ太平洋軍総司令部布告第一号 〉

朝鮮人民へ

 アメリカ太平洋軍総司令官として、余は、ここに次のごとく宣言する。

 余の指揮する戦勝軍はきょう、北緯38度線以南の朝鮮領土を占領する。朝鮮人民の長い間の奴隷状態と、やがて朝鮮は解放され独立するであろうという朝鮮人民への決意を心にとどめ、占領の目的は、朝鮮人民の個人的、宗教的権利を守ることであることを、余は保証する。

  第一 住民に対する全統治権は、当分の間、余の権限下に行使される。

  第二 公共福祉等の全公共事業の幹部並びに従業員、国家公務員、地方公務員、および

    他の重要な任務にたずさわつているものはすべて、通常の機能と任務を引き続き

    遂行し、すべての文書と財産を守らなければならない。

  第三 すべての者は、余の命令と余の権限下に出される命令に従い、占領軍に対する反

    抗行為、および公共の治安と安全を乱すすべての行為は、厳重に処罰される。

 ( 第四、第五、第六は割愛します。)

         横浜にて記す

          1945年9月7日 アメリカ陸軍元帥

                    アメリカ太平洋軍総司令官

                    ダグラス・マッカーサー

 マッカーサー元帥は大時代的で、尊大で、芝居かがっているとの批判がありますが、布告文を読むと、なるほどと思わされます。日本政府に対しても、同様の布告をしていたのだと思うと、敗戦国の惨めさを改めて知ります。要領よく変節した卑怯者もいましたが、耐えていた日本の政治家と軍人に敬意の念を捧げたくなります。

 本日は、ここまでといたします。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『解放朝鮮の歴史 (上 ) 』 ( 著者、編者、翻訳者も、反日左翼 ? )

2018-02-08 19:14:57 | 徒然の記

 デービッド・コンデ氏著『解放朝鮮の歴史 (上 ) 』( 昭和42年刊 太平出版社 )を、読了。

 朝鮮戦争の後、朝鮮の南半分を支配・統治したアメリカが、「何をしたのか」を暴露する本で上下2冊に分かれています。古本屋で買い、読まないまま放置していましたが今回目を通し、貴重な資料としての価値を発見しました。

  裏扉に印刷された、著者デービッド・コンデ氏の略歴を紹介します。

  ・明治39年にカナダで生まれ、のちアメリカへ移り、日本問題を研究

  ・第二次世界大戦中は、米軍の心理作戦局に所属し、対日宣伝戦に従事

  ・終戦と同時に、GHQの情報教育部映画課長とな

  ・昭和21年に辞任し、ロイター特派員として活躍。

  ・翌22年に、無許可滞在を理由に、日本国外追放となる。

  ・昭和49年、カナディアン・フォーレム・トロントの駐日特派員として再来日し、現在に至る

 監訳者の岡倉古志郎氏は、岡倉天心の孫でした。略歴を紹介します。

  ・岡倉氏は明治45・大正元年の東京で生まれ

  ・昭和11年に東大経済学部を卒業、東京電力に入社。

  ・昭和13年に東亜研究所に入り、治安維持法違反で検挙される。

  ・同志社大学、大阪外語大学、中央大学等で教鞭をとる傍ら、昭和22年に「アジア・アフリカ研究所」を立ち上げ、初代所長に就任。

  ・アジア・アフリカ地域における、民族運動の研究をし、国際政治学者、経済学者としても著名

  ・日本学術会議副会長、原水爆禁止日本協議会専門委員、日本平和委員会の常任理事などを歴任

 そして本の編集者が、レオ・ヒューバマン氏です。

  ・明治36年生まれの、米国のジャーナリスト

  ・労働運動家で、元・コロンビア大学ニュー・カレッジ社会科学部長

  ・昭和15年より、労働新聞「PM」の編集者として活躍

  ・第二次世界大戦中は、全国海員組合教育部宣伝部長として労働運動に専念

 大学一年生の夏休みに、氏の著書『資本主義経済の歩み』( 岩波新書 ) を読み、始めてマルクス主義を知りました。大学に合格したばかりの私は、左翼共産主義思想の歴史分析に、新鮮な驚きを覚えました。著書の中で氏は「私は共産党員でなく、共産主義者」だと自分を説明していました。

 編集者の最後に紹介するのは、マーク・ゲイン氏です。 

  ・明治35年に、清朝末期の中国の生まれ

 ・両親はロシア帝国から移住した、ロシア系ユダヤ人

 ・ウラジオストックの学校で学び、1930 ( 昭和5 )年代、上海でワシントンポスト紙の特派員

 ・その後、アメリカとカナダのジャーナリストとして活躍

  ・1945 ( 昭和20 ) 年12月から、1948 ( 昭和23 ) 年5月まで、日本に滞在

 ・GHQによる占領統治の内幕を記した『ニッポン日記』を、離日後に刊行

  忘れもしません、ゲイン氏は、『ニッポン日記』の中で日本を酷評していました。敗戦の衝撃に打ちひしがれていた当時の日本人を、行く先々で憐れむべき劣等民族として書き、私の心を傷つけました。

 中学生だった私は、粗末な製本の『ニッポン日記』を、放課後の図書館でどれほど悔しい思いで読んだか、今でも残る記憶です。

 著者だけでなく関係する人物を紹介したのは、彼らが私の嫌悪してやまない、「反日左翼主義者」だからです。本の出版当時はソ連が健在で、社会主義国家として輝いていました。口を揃えて日本を批判しても、仕方あるまいと納得しつつも、偏見の悪書の「歴史的価値」も発見しました。

 本の出版された昭和42年の日本が、どういう状況だったのかも調べました。

 ・第二次佐藤内閣が発足し、この年の2月11日が建国記念日として制定された

 ・統一地方選挙で、美濃部都知事が当選し、革新知事ブームの先駆けとなった

 ・6月に、東京教育大学の筑波学園都市への移転が決まった

 ・同じ6月に中国が水爆実験を行い、8月には、東南アジア諸国連合 (ASEAN) が結成された。

 ・10 月には吉田元首相の葬儀が、戦後初の国葬として武道館で営まれた。

 由緒正しい保守だった岡倉天心の孫が、反日左翼になっている忌々しさがありますが、この本の歴史的価値はこれだけではありません。コンデ氏の本が米国で出版のめどが立たないため、日本での翻訳・出版が先行していたところです。この間の事情を、著者の前書きから一部紹介します。

 ・私はこの本が、日本で刊行中であることに対して、喜びの言葉を述べる一方で、依然その英語版が、アメリカで刊行されないことに対して、批判と弁明の双方をしたい。

 ・主要な原因は、ワシントンの国防総省とCIAから発して、アメリカの出版産業全体に及んでいる政治的圧力である。

 ・ある一流のアメリカ人編集者が語ってくれたところによると、私の朝鮮物語のテーマは、禁断の課題だということである。

 ・私が朝鮮問題に興味を持つようになったのは、昭和20年に、GHQの民間人部員の一人として、日本にやってきた時である。

 ・その時私は、戦後の歴代の日本政府が、GHQと軍司令部の援助のもとに、在日朝鮮人を引き続き抑圧するのを目撃し、かつ、そのことについて書いた。

 ・朝鮮戦争は、そもそも初めから奇妙な戦争であったから、私は朝鮮、ワシントン、および国連における、戦争の日々の動きに関する、資料の収集を始めた。

 ・事実を綿密に調べるにつれ、私はこの戦争が、中国が独立政府を樹立しなかったならば、決して始まっていなかったと確信するに至った。

 ・アメリカは、この理由から朝鮮に干渉したのであり、それとまさに同じ理由からして、今日ベトナムの汚れた戦争に、深く巻き込まれている。

 ・この本を書き上げるまでまる5年を要したが、私の文章が歴史を照らし、それを明確にするよすがとなることを願いつつ、私のライフワークの公刊を心から喜ぶものである。

 ・GHQと軍司令部の援助のもとに、日本政府が、在日朝鮮人を引き続き抑圧するのを目撃した。

 アメリカ憎しの感情が強く出て、最初から嫌悪に駆られしまた。日本語の翻訳が下手で、文意の掴めない叙述があちこちにありました。悪文としか言えない翻訳文に、苛立たせられ、長いあいだ本棚に並べたままにしていたのです。

 歴史的な価値があるとしても、日本語にならない文章で書かれていたら誰が読むと言うのでしょう。岡倉氏も大した学者でなかったかと失望しましたが、自分の責任ではないと「前書き」で釈明しているのですから、呆れました。

 ・翻訳は、監訳者が所長をしている、アジア・アフリカ研究所に所属する部員が、分担し翻訳したものを、所員山本和彦が整理・統一し、さらにそれを岡倉古志郎が、全体にわたって、校閲・監修した。

 上巻にも下巻にも、「前書き」に同じ説明がされています。ひねくれ者の私は、別の受け取り方をします。

 これだけ念入りに校正していて、こんな粗雑な悪文を公刊するのだから、「アジア・アフリカ研究所」はどれほどお粗末な団体なのだろう。

 山本和彦氏と岡倉氏は、日本語もろくにできない学者か・・・と、こんな感想になります。

 本の中身に触れないまま、一回目のブログが終わりました。二回目からは、歴史的価値のある悪所の中身を紹介します。知らない事実が沢山ありますので、歴史を追求する「学徒」の方は、楽しみにしていてください。

 明るい話題を好まれる方は、二回目以降はスルーされることをお勧めします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小集団対話活動 ( 幕末の志士と自民党の議員 の違い )

2018-02-06 18:04:04 | 徒然の記

 「沖縄防衛情報局」というラジオ番組の動画を、今年から見ています。

 ラジオ番組の動画ですから声がするだけで、メンバーの静止画像しかありません。メンバーは、我那覇隆裕、江崎孝、我那覇真子、我那覇マキの4氏です。

 沖縄防衛情報局のメンバーは、ラジオ番組の他に地域小集団対話活動を展開しています。我那覇真子さんの妹・マキさんが説明しています。

  「沖縄の偏向新聞、沖縄タイムズと琉球新報のウソ報道を糾し、沖縄の真実を伝えるための、キャラバン隊です。」

    「沢山の人数を集める、派手な集会でなく、少人数で参加者が意見を述べ、その参加者が同時に、当事者になるという対話集会です。」

 偶然ユーチューブで見つけたのですが、強い関心を持ちましたので、メンバー各氏を、自分が知っている範囲で紹介いたします。

 4人の中で最初に知ったのは、江崎孝氏と我那覇真子さんでした。二人は現在も、チャンネル桜の「沖縄の声」という番組で、火曜日を担当するキャスターです。

 曜日ごとに担当するキャスターが異なりますが、日本一偏向がひどいと言われる沖縄の新聞の実態を、初めて全国に知らせたのがこの番組です。朝日新聞やNHKは、全国的、世界的に反日偏向報道を拡散していますが、沖縄の二紙 ( 沖縄タイムズと琉球新報 ) は、数倍も偏向した報道を沖縄でしています。

 戦後73年間、この2紙は国民の多くが知らないのを良いことに、沖縄の言論界、政界、教育界を牛耳り、住民を引きずり回してきました。2紙の記事は、報道という範疇には入れられず、記者たちの思い込みと意見が活字にされているだけです。記事の内容の内事実は2~3%で、残りは全部記者たちの偏った意見で、これが報道という名前で住民に届けられています。

 この実態を最初に教えてくれたのが、チャンネル桜の「沖縄の声」でした。

 話がどんどん飛躍しますが、チャンネル桜の水島社長とは田母神氏の件で気持ちが離れ、「ねこ庭」は、以来同番組から遠ざかっています。しかしチャンネル桜「沖縄の声」だけは、水島氏の大きな功績と今でも敬意を払っています。

 住民の一部でしか支持者がいないのに、「オール沖縄」と大層なキャッチフレーズで、本土の人間を騙している翁長氏のまやかしを明らかにしたのは、「沖縄の声」でした。日本だけでなく韓国からも来て辺野古で反基地活動をする、左翼暴力集団の姿を国民に教えたのも、「沖縄の声」でした。

 我那覇隆裕氏は真子さんの父で、マキさんが妹であるということを、「沖縄防衛情報局」のラジオ放送を聞きながら知りました。我那覇真子さんは、すでに全国的に有名になっていますが、こういう家族に支えられているのだと知りました。

 この4人が展開しようとしている「小集団対話活動」に、私は期待します。

  「対話への参加者が、やがて当事者となり、さらに対話の輪を広げていく。」という活動方法に、「国民運動」の原点を見る思いがするからです。「市民運動」の原点と言っても良いのですが、「市民」という言葉は反日・左翼の活動家によって、すっかり汚されてしまいましたので、あえて「国民」という表現にしました。

 注目したのは主催する人間が一方的に喋り、参加者を啓蒙するという形でなく、常日頃胸に溜まっている思いを、参加者が述べられる場にしたという点です。

 小さな対話活動を、100回、200回、全国津々浦々で行うという発想に共感を覚えました。旗を広げて大声で叫んだり、鉢巻や横断幕で派手な行進をしなくても、心を同じくする人々が集まり、静かに熱く意見を交換することの方が、世論の喚起に力を発揮する気がします。

 大手マスコミに報道されなければ、過激な左翼集団に邪魔される心配もありません。日本の大きな問題を、小さな集団で、常に話し合える場があれば、それはいつか大きな流れとなっていきます。

 放送設備もスタジオも見すぼらしいものですが、それでもキャラバンを続けるには資金がいります。我那覇氏親子と江崎氏だけで、この活動が展開できるはずがなく、ボランティアの寄付の他に、もしかすると、チャンネル桜の水島氏の支援があるのかもしれません。

 しかし沖縄の片隅で、我那覇氏親子と江崎氏がやり始めたと同じ活動が、かぜ自分の周囲で起こらないのかと、そんな疑問が大きくなりました。

 「ねこ庭」が言いたいのは資金の出どころの話でなく、自民党と所属議員の不甲斐なさです。「憲法改正」「議員の二重国籍」「皇室の現状」「朝日新聞やNHKの偏向報道」等々、多くの国民が腹に据えかねている問題にについて、自民党の議員に一人でも「小集団対話活動」を思いついた者があったか。

 「ねこ庭」が言いたいのは、ここです。

 国会だけでなく、県議会、市議会を合わせれば、どれだけの数の自民党の議員が全国にいることでしょう。地域の冠婚葬祭にばかり目を向け、多額の政務費を不明瞭に使っているのなら、その一部でもこうした活動に回せば、保守の世論が喚起できると、なぜ考えないのか。国民だけでなく、議員諸氏こそ発想の転換が必要です。

 思えば、「小集団対話活動」を日本で初めてやったのは、幕末の下級武士たちでした。勤王の志士と呼ばれた彼らは、外国に攻め滅ぼされないため、「尊皇攘夷」を合言葉に、命がけで全国を行脚し同志を集めました。

 「市民運動」や「住民運動」が、左翼の専売特許と思い込んでいるのでしたら、それは大きな間違いです。

 勤王の志士たちは、幕府の目をかいくぐり、身分を隠し、薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩を駆け回りました。もちろん江戸や大坂、東北の諸藩にも足を伸ばし、彼らの努力の積み重ねが、巨大なうねりとなり維新の大業を成就させました。

 私は千葉県に住んでいますが、県下の自民党議員に不満を抱いています。ありきたりの挨拶は交わしますが、肝心の憲法、皇室、議員の国籍、マスコミの偏向等に話を向けますと、誰一人としてきちんと答えませんでした。

 企業の誘致、地域の開発など、利益誘導の話ばかりをし、国の根幹を語りません。自民党が多数を得て政権の座にいるのは、私たちのような名もない庶民が一票を投じているからだと、彼らは自覚しているのでしょうか。

 議席だけを守ろうと、くっついたり離れたり、国の危機を忘れてモリカケで総理を責めたり、反日・左翼の野党議員が碌でも無いため、「不毛の選択」で自民党が多数を得ていると、議員諸氏は分かっているのでしょうか。

 このような無様を続けていたら、与党も野党もなく、日本そのものが崩壊していきます。幕末と似た状況、つまり日本の危機が迫っているのに、肝心の時に自民党が目を覚ましません。

  だから「ねこ庭」は本日ここに、新たな提案を自民党の議員諸氏にします。

 ・自分たちの後援会を足がかりとして、自分たちの手で、「小集団対話活動」 を始めてもらいたい。

 ・我那覇氏親子と江崎氏を真似るのでなく、幕末の志士の意志を継ぐ形で「 小集団対話活動 」に取り組んで欲しい。

 当然のこととして、従来からの提案は生きています。

  1.  議員の二重国籍禁止法を立案、可決し、実施すること。

    ( 国会議員の二重国籍を禁止し、該当者には帰化を促し、帰化しない者は国外退去とする。)

         2.  NHKに関する特別法を制定し、役員の二重国籍を禁止し、該当者には帰化を促し、帰化しない者は辞職させる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ティラーソン国務長官の発言で見えるもの

2018-02-04 17:10:10 | 徒然の記

 1月28日の千葉日報に、ティラーソン国務長官の発言に関する記事が、大きく掲載されました。意識せずに読めば、長官の発言は騒ぐほどの内容に聞こえません。

 「慰安婦問題の解決につき、日韓双方に、なすべき事はまだある。」

 これだけの記事です。しかし日本政府は、即刻米政府に懸念を伝えました。平成27年に締結した日韓合意での、「最終的かつ不可逆的な解決」に対し、米国が韓国側に同調していると見られたからです。日韓合意の白紙化を主張する文在寅大統領は、これを米国からの支援と受け止め意を強くしています。

 米国は一貫して日韓合意を支持していると言いながら、一方でティラーソン氏の発言があるので、辻褄が合いません。ワシントン発の共同通信の記事では、次のように書いています。

  ・トランプ政権は、平成27年の日韓合意を歓迎する立場だ。

  ・だが同時に旧日本軍による、性的目的による女性の人身売買は、ひどい人権侵害だとの考え方も堅持し、日韓双方に和解を促す姿勢も積極的に見せている。

 朝日新聞の捏造と誤報が明らかになって以来、日本人の多くは韓国の言う「慰安婦問題」は、「売春婦問題」として終わったと考えています。しかし朝日新聞は国内で誤報を認め、責任を取って社長を交代させましたが、世界に向かっては「捏造と誤報」の訂正をしていません。

 国民に対して解決したように見せながら、朝日新聞だけでなく政府も外務省も、米国や他国に対しては誤報の訂正をしていません。女性への酷い人権侵害という意見は、オバマ政権内でも浸透して、異を唱えた安倍総理がオバマ氏に冷たくあしらわれたことが忘れられません。

 なぜ政府と外務省は、これほど「慰安婦問題」に及び腰なのか。昨日の「ねこ庭」で書いた言葉が、今も生きている確信を得ましたので再度紹介します。 

 ・エホバの塔は、日本とアメリカで互いに不都合な事実を隠しあい、何も知らない信者を騙しています。

 ・政治も国民に知らされないだけで、「日本の闇」と「アメリカの闇」が繋がっているのではないかと、「ねこ庭」は庶民の知恵で思考します。戦勝国アメリカに統治されて以来、日本の指導者と国民の多くが日本人の魂を失いました。

 米国長官の一言で、日韓両政府が喜んだり落胆したり、アメリカが強国とは言いながら、どうしてここまで振り回されるのでしょう。先の日韓合意も、オバマ大統領の意向があったから、安倍総理が決断したと言われています。平昌オリンピックへの出席も、アメリカの強い意向があったため総理が決意しました。

 敗戦以来の日本の立場、あるいは韓国も同様に、米国のアジア意向を無視しては、動けない状況が続いているということになります。国民は、安倍氏の弱腰や妥協を責めるだけでなく、今も続く「米国属国」の現実を、もっと知るべきでしょう。

 平成27年の日韓合意について外務省は、韓国と日本国民に別々の説明をしていると聞きました。「玉虫色の文言」なので、双方が都合の良い解釈ができるのだそうです。

 「玉虫色の文言」であることを、日韓両政府もアメリカも知っていますが、互いにそこには触れません。事実が日韓の国民に明らかになれば大騒ぎになるので、政治家たちが避け、マスコミも報道しません。

 「慰安婦問題」に深入りすれば、返り血を浴びるのは韓国と米国です。

 韓国はベトナム戦争時に、ベトナム女性の暴行、虐殺をしており、米国は朝鮮戦争時に韓国女性を慰安婦にしました。韓国政府が女性と設備を、米軍に提供しています。隠していた事実が世間に漏れているため、韓国と米国が協力し日本を黙らせようとしています。

 これが、「ねこ庭」から見える「慰安婦問題」の風景です。

 ワッチタワーが、日本の教団と意を通じ明石氏を抹殺したと同じ構図で、米韓の政府が、自国の「慰安婦問題」を無いものにしています。日本は米国に逆らえない「属国」ですから、事実を明らかにする勇気はありません。

   総理の弱腰だけを責めるのでなく、

 「日本の戦後はまだ終わっていない。」

 「日本はまだ、アメリカの属国のままだ。」

 という現実を国民が肝に銘じ、「憲法改正」をしなければなりません。日本独立のための道は、憲法を改正し自衛隊を軍隊と位置づけ、国防の任につかせることです。国内の米軍基地を無くし、沖縄の米軍も縮小するにはこれしかありません。

 「九条を守れ。」「平和憲法を守れ。」「安倍を許すな。」

 このようなことを叫んでいる人々は米国軍の駐留を固定化し、日本の独立を阻んでいます。本人たちがどこまで分かっているのか知りませんが、喜んでいるのは、結局アメリカです。

 武士道精神を持つ無敵の軍隊が消えたままですから、中国や韓国・北朝鮮、あるいはロシアも、喜んでいるのかもしれません。

 ちっぽけな国なのに世界を相手に戦い、陛下の言葉でしか終戦を受け入れなかったのですから、日本の軍隊が甦ったらと、敵対国はそれを恐れています。「お花畑」の住民が念仏を唱え続けていることを、彼らは歓迎しています。

 「九条を守れ。」「平和憲法を守れ。」「安倍を許すな。」

  これはまさに念仏であり、唱える人間たちは「ねこ庭」から見ると、「亡国の徒」です。反日左翼思考に汚染されたお人好しがいる限り、日本は「米国の言うなり、「他国の言うなり」です。
 
 だから私も国を愛する国民の一人として、負けずに念仏を唱えます。

 「自分の国を大切にしましょう。」

 「ご先祖様を、敬いましょう。」

 「私たちが愛国心を取り戻せば、日本の独立が取り戻せます。」 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『兵役を拒否した日本人 』- 5 ( 明石氏抹殺の経緯 )

2018-02-03 08:29:58 | 徒然の記

 明石順三氏の長男真人氏は、村本氏より先に兵役を拒否した「エホバの証人」でした。獄中で思索・読書し、転向して下記手記を残しました、

 「自分はこれまでエホバの証者として、国家に対する義務も責任も、人間的な名誉も権利も、現世に生活するということも否定してきた。」

 「しかしながら、己を現実の世界から隔離させ、自己のみの精神的満足を、得ようとするのは、自己中心の独善主義である。」

 「自分はその点に気づかず、聖書信仰という夢の中に眠っていたのだ。」

 「元来自分の信仰は、現世に対する不満とか人生的煩悶とか、他宗教に対する不満より発したものでなく、子ども時代より父が教育した結果、有するに至ったものである。」

 「灯台社の教義には、いくつか矛盾点があるように思う。」

 「第一に完全なる神が、人間を罪を犯すべく創造したというのも、おかしくはないか。」

 「第二に灯台社は、全人類の希望だとする神の国の、具体的構造を示していない。」

 「仮にその教説を信じ、神エホバの前に進む者は、ハルマゲドンの時、神に保証され、永遠の生命を与えられるとしても、現実にこの教義を知る者の数は少ない。」

 「とくにシベリアや蒙古、チベットなど、灯台社が行ったこともない方面の住民は、何も知らずに神に撃滅されてしまうというのか。」

 「だとすれば、不公平な神ではないか。」

 「ましてわれわれは、日本人である。正しく生きるためには、日本人としての意識を持つことが必要である。」

 「日本人の偉大さは、一君万民の世界無比の国体があるからである。」

 「古事記や日本書記を読むと、原始日本人の国体についての心の記録として、貴重なものであることが分かる。」

 「この古典の国体観を生かすことが、日本人の責務であろう。」

 「自分は今、真の日本人に復活し得たことを幸福に思う。今後は皇軍の一員として国家を守護すべく、清く死ぬつもりであります。」

 長いので割愛していますが、この手記に対する著者の批評を紹介します。

 ・真人の手記は一読して、あまりにも甚だしい変貌という感じがいなめない。

 ・いわゆる転向手記では、古典の読書を契機として、国体賛美に至ったと記すのが通例となっており、真人の手記も軌を一にしている。

 ・真人のいう国体思想なるものは、国民を戦争に駆り立てるための官許の思想であり、戦死を美化する意図で巷間に流布した、通俗的見解に過ぎない。

 氏は真人氏の手記を、散々に酷評します。しかし「ねこ庭」から眺めますと、真人氏の素朴な疑問や、日本人としての目覚めは普通の話です。むしろ稲垣氏の批判の方が通俗的見解で、「ねこ庭」から言わせて貰えば、反日左翼の紋切り型で聞き飽きたセリフです。

 自分と著者と、どちらの意見が正しいかと、そのようなことを言いたいのではありません。正義と言い真実と言い大そうな言葉が、まるでこの世に一つしかないように言いますが、「ねこ庭」に立つと「笑止千万」な風景です。

 「エホバの証人」の正義と真実、カトリック教会の正義と真実、マルクス主義者たちの正義と真実、私のような日本の保守の正義と真実・・・

 人間が拠って立つ思考の数だけ、無数に存在しています。この単純な事実を理解するのに高尚な思索は無要で、庶民の知恵で充分です。

 「第一に完全なる神が、人間を罪を犯すべく創造したというのも、おかしくはないか。」

  完全になる神なら、最初から罪を犯さない人間を創造できるのできないか、という素朴な疑問です。

 「とくにシベリアや蒙古、チベットなど、灯台社が行ったこともない方面の住民は、何も知らずに神に撃滅されてしまうというのか。」

 「だとすれば、不公平な神ではないか。」

 真人氏の疑問は普通の人間が、普通に考えれば出て来るものです。氏が考えついたというより、ご先祖様から続く知恵と、そんな気がします。八百万の神様の国の常識ではないかと思ったりします。

 ということで、違った常識を持つ著者稲垣氏への反論を終わり、最後に、明石氏が教団から抹殺された理由を紹介します。

 明石氏は大東亜戦争終了後に、米国のワッチタワー総本部に対し、鋭い詰問状を投げかけました。昔言葉を現代語に直し、要点だけを紹介します。

 〈 1. 国旗礼拝について 〉

   従来ワッチタワーは、国家権力に妥協してならないと言い、国旗礼拝を禁じてき

   た。敬礼を拒否し、検挙・投獄される者が数千人あったというのに、今次大戦後の

   大会では、舞台いっぱいに広げた国旗の前で賛美歌の合唱と祈祷がなされている。

   国権に対する妥協により、組織の温存を図った証拠ではないのか。

 〈 2. 総本部のみが無疵なのは、絶対にあり得ない。 〉

   今次大戦中、ワッチタワーの指導のもとに、多くのクリスチャンが、殺害、暴行、

   監禁、投獄、その他あらゆる迫害を被ってきた。しかし総本部では、それが皆無と

   言う。末端の大部分が、敵側の手によって、かくも莫大な苦難を受けたにもかかわ

   らず、中心たる総本部では、迫害の報告がほとんど発見されないとは、どういうこ

   となのか。

    この点に関し、代表である会長の公式弁明を出してもらいたい。

 著者の意見を紹介すると、明石氏抹殺の理由が理解できます。

  ・こうした批判と直言は、ワッチタワー本部からすれば、あまりに明確な不服従の態度と、みなされたのであろう。

  ・本部は、この質問状に一言の弁明もせず、会長名で、明石を高慢なる者、不謹慎なる者と決めつけて、除名・削除するという一片の通知を、送付してきたのみであった。

  ・これ以後灯台社は、ワッチタワーとは無縁の者となった。

 結局稲垣氏は、ワッチタワー本部の行為を一言も批判せず、ウヤムヤのうちに終わらせています。

 だから「ねこ庭」は、稲垣氏も、ワッチタワーも、口ほどにもない「偽物」と断定します。戦勝国アメリカの宗教団体に妥協した腰砕けの著者に誉められても、明石氏と村本氏が喜ぶはずがないでしよう。

 そしてまた本部の指示に唯々諾々と従い、教団の先駆者を葬り去る日本の「エホバ」も、たいした宗教組織とは言えないでしょう。

 冒頭で「日本の闇」と「アメリカの闇」が繋がっていると言ったのは、日本とアメリカで互いに不都合な事実を隠しあい、何も知らない信者を騙していると、この事実を指しています。

 戦勝国アメリカに統治されて以来、指導者と国民の多くが日本人の魂を失いました。政治も国民に知らされないだけで、「日本の闇」と「アメリカの闇」が繋がっているのではないかと、「ねこ庭」は庶民の知恵で思考します。

 明石氏のように、正論をぶつけて抹殺されるのも無念ですが、国際社会は弱肉強食の世界で、強い者が勝ちます。独立を再び手にするまで、私たちは、強い外国勢力に潰されないようにしなければなりません。

 本の紹介と直接関係のない結論になりましたが、本日で終わります。おつきあいに感謝致します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『兵役を拒否した日本人』 - 4 ( 明石順三氏と、裁判長の問答記録 )

2018-02-02 17:06:32 | 徒然の記

  村本氏に召集令状が来たのは、昭和13年の4月で、伝道旅行で函館にいる時、東京の灯台社経由で回送されてきました。

 氏が入隊した熊本歩兵第13連隊は、満州の関東軍の供給源として、全国的に蛮勇のきこえが高い軍隊でした。野戦上がりの古参兵も多く、上等兵や一等兵による初年兵への制裁は凄まじかったと言います。

 氏が大きく変わったのは、幹部候補生への志願を勧められ、断った時からです。私の下手な説明より、稲垣氏の叙述の方が分かりやすいので紹介します。

  ・志願を断ったばかりでなく、彼は今ひとつ、軍隊では誰も真似ができなかったと思われる、ある拒否行為も実行していた。

  ・軍隊の大元帥である、天皇の住居のある東方を向き、皇居遥拝の最敬礼が行われる時、彼だけはそれをしなかったのである。

  ・灯台社の教理では、偶像の礼拝が禁じられ、神はエホバのみであり、天皇は人間の一人であるに過ぎない。

  ・村本は教義を忠実に守り、実践していた。

  ・天皇への敬礼を拒否するというのは、この上のない抗命行為であり、軍規にも背くこの行為には、どれほど過酷な刑が待ち受けていたかと、想像されもしよう。

 だが不思議なことに、氏は誰からも制裁をされず、不問のままに過ぎました。

 こうなりますと氏に残されている抵抗は、与えられている銃の返還、つまり兵役拒否でした。キリスト者として殺人の訓練を受けず、人を殺す戦争には参加しないという、動かない決意でもあります。

 軍隊内で迫害されても本望と覚悟し、翌昭和14年の一月、彼は班長室へ行き、「私の銃はお返しします。」と申告しました。

  氏の身柄が憲兵に引き取られ、憲兵隊の留置所へ送致されます。連日の取り調べにも翻意しなかったため、陸軍刑務所へ送られ、ここから氏の受難が始まります。軍法会議にかけられ、懲役2年の判決を受け、陸軍刑務所の独房へ入れられます。裁判の記録がありませんので、氏がどのような受け答えをしたのか分かりません。

 しかし明石順三氏が裁判にかけられた時の、裁判長との問答記録を稲垣氏が書いていますので、それを紹介します。明石氏に帰依していた村本氏なので、同様の返事をしただろうと推測されるためです。

 昭和12年東京地裁の資料で、裁判長は徳岡一男氏です。長いので、必要部分だけを紹介します。

 裁判長  灯台社の目的は何か。

 明 石  聖書の真理に基づき、この世の人々が神の聖旨に背反している諸事実を指摘

     し、エホバの聖旨に添う人類となさんことを、目的としております。

 裁判長  教理によれば、エホバの神が、天地万物の創造主、唯一絶対最高神になってお

     るのか。

 明 石  そうです。

 裁判長  悪魔とはルシファーを指すのか。

 明 石  そうです。

 裁判長  全人類はすべて、ルシファーの邪道下に生活してきたという訳だね。

 明 石  そうです。

 裁判長  悪魔は地上に、悪魔の組織制度を持っておると、説明しておるのだね。

 明 石  そうです。政治・宗教・商業その他、全部の地上組織を指して、悪魔の組織制

     度とみております。これらはすべて、正義の神とは無関係の存在であります。

 裁判長  しからば国家も、悪魔の組織制度か。

 明 石  そうです。例外なく悪魔の組織制度で、神のものではありません。

 裁判長  日本国家について、如何に見ておるのか。

 明 石  日本はキリスト教国ではありませんが、教理上から異邦国の一つであります。

     全世界は悪魔の世でありますし、日本はエホバを神とも信じておりませんか

     ら、悪魔国です。

 裁判長   しからば被告は、灯台社運動継続中においては、天皇陛下および皇族の尊厳性

     を認めておったか。

 明 石  尊厳神聖ということは、全然認めません。

 裁判長  天皇陛下の御地位についてはどうかね。

 明 石  天皇の御地位など認めません。

 稲垣氏は裁判記録を読み、次のように感想を述べています。

 「以上の問答をみても分かる通り、まず灯台社が結社であることを認めさせ、ついでその教理が、日本の国家・国体の否定に結びつき、順三自身も、天皇の地位否定の立場に立っているのを立証するという、既定方針の順序に従い、一方的裁判を進行させていくのみだったのである。」

   「赤子の手を捻るように、やすやすと、治安維持法に該当させられていくのが、まざまざと読み取れるでないか。」

  「いわば罪に陥れるための、このような秘密裁判において順三は懲役12年の判決を受け、第二審では10年となったが、これ以上の上告は棄却された。」

 しかし「ねこ庭」は、著者とは別の意見を持ちました。裁判長の進め方が一方的だとは思わず、当然の問いかけであろうと思考します。明石氏の教理への真摯な取り組みと、伝道活動に敬意を表していますが、自分の国を大切にする「ねこ庭」見ますと、受け入れがたい主張です。

 氏は江戸末期以来、欧米列強の侵略から国を守るため、ご先祖が味わった苦難と献身牲への理解を欠いています。何万年も前のエホバの歴史より、二千年の日本の歴史を学んで欲しいと思います。

 ご先祖の苦労を知らず、日本の組織・制度が全て悪、日本は悪魔の国と単純化されては、裁判官でなくても許せなくなります。

 国土と国民を列強の侵略から守るため、政治家が天皇を利用し、必要以上に神格化したと思いますが、国を滅ぼされないための工夫ですから、明石氏のような愚かな否定はしません。

 天皇への尊崇の念は政府が無理強いしなくても、庶民の間では土着の神話とともに受け継がれています。世界のどこの国の支配者も、権力の起源を神に求め、神の権威を利用しています。

 時代が進み、文明が開けたからといって、他国は他国であり、日本は日本です。神話に基づく天皇が日本におられても、不都合を感じないばかりでなく、長い歴史を持たれる皇室への敬意が増すだけの話です。

 無縁な異国の神を信じる氏が、簡単に天皇を否定するのを知りますと、怒りが生じて来ます。日本にとっての悪魔は、むしろ明石氏自身でないかと思えて来ます。自己以外の神を否定攻撃する「一神教」の狭い教えと、万物に神を見て手を合わせる「八百万 ( やおよろず ) の神」の存在する寛容な日本について、氏は何も勉強しなかったとみえます。

 著者は裁判長が 悪意の意図を持ち、明石氏を有罪にしようとしていると説明しますが、氏は天皇否定の立場に立ち、国も否定するのですから、治安維持法の罪に該当します。

 信仰は個々人の内面の話だとしても、国家存亡の折に、氏のような考えの人間が増えると、日本が滅んでしまいます。

 村本氏と同様に、兵役の拒否をした「エホバの証人」は、氏のほかに2名います。一人は明石氏の長男である、明石真人氏です。氏は獄中の読書で転向し、日本人の自分へ戻ります。

 著者は真人氏を裏切り者として描き、説を曲げなかった明石氏と村本氏を評価し、この書を終わっています。

 「ねこ庭」のブログも、終わりが見えてきました。明日は最終回として、転向した真人氏と、明石氏が日本の「エホバの証人」から、抹殺された原因を紹介します。

 机に向かう時間が長かったので、運動も兼ねて、今から風呂掃除にかかります。今夜は呑める日ですから、夜にはゆっくりと、くつろぎの一杯を頂きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『兵役を拒否した日本人』 - 3 ( 灯台社の活動と村本一生氏 )

2018-02-02 00:50:18 | 徒然の記

 明石順三氏が著作を出版し、布教活動をしていた昭和5、6年は、どんな年であったか。ネットの情報から拾ってみました。

 昭和4年に勃発した世界大恐慌が、翌5年に日本を直撃しました。戦前の日本を襲った、最も深刻な恐慌だったと言われています。企業が倒産し、失業者が溢れ、農村では娘たちが売られました。一部の裕福な企業家や政治家たちが贅沢をし、国民の多くは生活苦に喘ぎ、各地で労働争議が発生しました。

 明石順三氏は、米国でラサフォードが説いた教えを日本に持ち込み、自分の言葉で広めました。

 「工場における労働状態を見るも、職工の労賃は、雇い主に益々搾り取られるばかりか、彼らは容赦もなく、解雇手段を取り、今や何百万という失業者が、食うに食なく、妻子を養い得ざる、悲惨なる状況に陥っている。」

 「しかるに彼ら資本家側は、不義の栄華を楽しんでいるのである。」

 「これら貪婪なる、悪しき暴利の資本家こそが黒幕の中にあって、政府の実権を握る者である。」

 「国民の公僕たるべき政府役人は、資本家の意のままに国法を改変して、一般国民の福利を無視す。」

 「市民怒りてこれを法廷にて争うも、正義を行なうべき法廷が、これもまた、強欲な資本家の手の下に、自由に支配されている。」

 「優秀な弁護士も黄金の力で雇われ、資本家に有利な証拠を、各方面より蒐集する。かくして貧しき者は、法律で守られるべき権利すら失うこととなる。」

 これは、そっくり左翼共産主義者の主張と重なっています。世相が暗く、重苦しいばかりでしたから、明石氏の言葉も、共産主義者の主張も、切実なものとして庶民の中に浸透していきました。

 だが、歴史が経過した現在になってみますと、一変した状況が私たちの目前に展開します。

 マルキストたちはいざ政権を手に入れ、社会主義者の政府を作ると、悪辣な資本家と同じように、自己の利益を優先するようになりました。そればかりか、共産党の一党独裁を絶対として譲らず、逆らう人間を蹴散らすようになりました。

 国民を幸せにするどころか、全体主義の強権政治で庶民を弾圧し、資本家の政府よりもっと残酷で、もっと大ウソの強弁で支配しています。崩壊したソ連だけでなく、現在の赤い中国や北朝鮮のどこが人類のユートピアなのでしょう。

 マルクスの共産主義思想は、多くの若者を惹きつける救済の思想で、当時は確かにそうだったのですから、ラサフォード氏や明石氏を笑う気持はありません。

 氏は、ラサフォード氏が説いた教えを、「エホバの証人」の一人として、日本の国で訴え続けました。

 「カトリック教会や、プロテスタントの教職者たちは聖書に基づいて、神の言葉を伝える正しき人々に、なぜ反対するのであろうか。」

 「その答えは、簡単である。彼らは、暴利を求める資本家や政治家と連合して、地上の諸国民を支配し、悪しきサタン、すなわち悪魔を主君として、その支配下で行動しているからである。」

 「資本家は、民衆の金銭を盗む。しこうして聖職者は人々の信仰を、神エホバより盗み取る。ゆえに他の何ものにも増して、極悪者である。」

 大正14年に施行された治安維持法は、もともと共産党を弾圧するために策定されたもので、加入者を10年以下の刑にするとしていました。昭和3年になると、加入者の最高刑が無期懲役または死刑と改定され、思想取締のための特別高等警察課  ( 特高 )  が、内務省に新設されました。

 昭和7年になりますと、警視庁や各都道府県の警察にも特高課が置かれるようになり、全国的思想犯の取締体制が出来上がります。稲垣氏の著作が、当時の明石氏の活動状況を紹介しています。

  ・それにもかかわらず、明石順三指導下の灯台社は、法律による断罪を意に介さないごとく、文書配布や、地方伝道の実践活動にも、型破りの積極的方法を取っていた。

  ・駅頭、学校周辺などの街頭や、戸別訪問による配布のほか、今でいうダイレクトメール方式で、一度に数万部を多方面に発送した。

  ・地方へ行くメンバーは、汽車など利用せず揃って自転車に乗り、東京の灯台社を出発した。

  ・彼らは自転車でリヤカーを引き、炊事用の鍋・釜や木製のベッドまで積み込んだ。

  ・東京近県から、北は東北・北海道へ至り、やがて沖縄、朝鮮、台湾にまで出かけ、聖書信仰の浸透を図った。

 荻窪にあった灯台社本部への最初の弾圧は、昭和8年でした。宿泊していた奉仕者の検挙と、在庫文書類が押収されると共に、伝道先々でのエホバの証人たちの一斉検挙が行われました。

  この頃村本一生氏は、まだ「エホバの証人」と無縁な、ごく普通の学生でした。氏は大正3年に、熊本県下の医師の長男として生まれ、東京工業大学へ進んでいました。昭和11年の卒業を前にした最後の夏休みに、帰省していた時、たまたま父の書斎で灯台社の機関紙を読み、明石順三氏の文章に触れ強く心を惹かれました。

 日頃は引っ込み思案なのに、明石氏に手紙を書くと、まもなく返事があり、帰京するとその足で灯台社本部を訪ねます。社の教えだけでなく、明石氏の人柄に惹かれてしまい、ついに洗礼を受け、エホバの証人の一人に加わります。

 決まっていた会社への就職もなげうち、灯台社へ住み込み、伝道に参加します。

 当時の暗い世相を考えますと、村本氏の決断も分からないでありません。若い頃の自分がそうであったように、氏もまた、一途な学徒だったのでしょう。あの頃の学生なら、マルクスの本だけで夢中になったでしょうから、エホバの神様が加わると、「目から鱗」のような感激があったに違いありません。

 私が大学生だった頃の日本で大学生はエリートでなく、巷にあふれる若者の位置づけでしたが、村本氏の時代なら間違いなしのエリートです。

 治安維持法の恐ろしさも知っていたでしょうから、命がけの決断だったはずです。だから私は、戦前のマルキストや、反政府宗教の信者に向かいますと、自分と相容れませんが、無意識のうちに敬意を払ってしまいます。

 なんとかして村本氏の話をまとめたいと頑張るのは、そうした思いがあるためです。今夜も12時を過ぎましたが、肝心の所が紹介できませんでした。明日こそは兵役を拒否した氏のことを書き、その行為を誉める著者への反論を述べ、自分の気持を整理したいと思います。

 夕方から降り出した雨が、みぞれとなりました。このまま降り続けば明日の朝は、天気予報通り積雪10センチなのかも知れません。先日の雪がまだ残っているのに、やっかいなことです。

 だが会社勤めの人々や学生たちを思えば、年金暮らしの自分が雪をボヤいていては恥ずかしくなります。「ねこ庭」で読書する私は、幸福な老人です。

  お休みなさい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『兵役を拒否した日本人 』- 2 ( 明石順三氏について )

2018-02-01 12:55:11 | 徒然の記

 「兵役を拒否した日本人」を語るには、明石順三氏について話さなくてならず、氏を述べるには、「エホバの証人 」が何であるのかを知る必要があります。

 別名「ワッチタワー」、「ものみの塔」とも称される「エボバの証人」という教団は、チャールズ・テイル・ラッセルが設立し、後継者のジョセフ・F・ラザフォードによって確立されたと知ることも大事です。

 稲垣氏が詳しく述べていますが、「ねこ庭」では多少不正確になっても大胆に割愛し、主要部分だけを紹介します。私のような門外漢に一番分かりやすいのは、彼らは、イスラム教の中にいる「原理主義者」に似ている、という説明ではないのでしょうか。

 イスラムの原理主義者は、経典の教えを厳格に解釈し、妥協せず実践する人々です。エホバの証人の指導者たちも、聖書を厳格に理解し、外れるものを排斥します。つまり彼らの言うことは、「正論」なのですが、正論というのは正論であるゆえに、実践すると周囲に波風を起こします。

 ラッセル氏とラザフォード氏は、旧約・新約の聖書から、エホバが唯一の神であることを証言する言葉を集めます。そこでは万物の父なる神は、ただ一つであり、偶像崇拝が虚しいことも明示されています。イエスはあくまで一個の人間であり、エホバの代理執行者として、この世の終末の時に、その精神が復活されるに過ぎないと解釈します。

 ・しかるにキリスト教の聖職者たちは、神には、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位があるとし、

 ・これら三位の神は一なる神であり、同一、同位、同等の権威を有し、三位にして一体の神という。

 ・聖書では、偶像への礼拝は認められていないのに、キリストの十字架像や、マリア像が礼拝の対象となっている。

 ・これらはすべて、聖書の真理に反することだ。

 と言うような主張です。

 こうなりますとローマカトリック教会や、プロテスタント教会が反発するのも分かります。ラッセル氏がアメリカで、これを説き始めたのが、1870年 ( 明治3年 ) 頃と言われ、後継者のラサフォード氏が会長になり、教義を敷衍したのが1917年 ( 大正16年 ) 頃といいますから、千年以上の歴史と伝統を持つ既存の教会が黙っているはずがありません。

 「エホバの証人」については、この位にとどめ、次に明石順三氏が、どのような経緯で教団の教えに触れ、帰依するようになったかです。

 氏は明治22年滋賀県に生まれ、代々彦根藩の藩医を務めた家に生まれました。生家が裕福でなかったことと、生来独立心が旺盛だったことから、海外雄飛を目指しました。

 渡航の便宜を得るためキリスト教系の会に入り、苦学しつつ働き、金を貯め、明治41年に渡米します。

 苦労の中で独学し、大正3年に、現地にある邦字新聞社の記者となります。氏は権力に対して説を曲げず、社会批判をするイプセンに共鳴していました。この頃からワッチタワー ( エホバの証人 ) の教義に触れ、心を寄せるようになります。

 本論を外れますが、当時の氏が「新聞記者の限界」について、書いた文があります。現在の記者にも、そのまま当てはまりそうな内容なので、紹介してみます。

  ・記者に、真に報道の自由が与えられるならば、喜んで事実を報道するであろうが、彼らは実際には、新聞社を支配する権力者によって掣肘を受け、その命令に服従させられ、事実を報道し得ないのが、実情である。

 こういう事情もあってか、氏はロサンゼルスの新聞の記者をしたり、サンフランシスコの新聞に移ったりしています。

 第一次世界大戦の最中でもあり、ワッチタワーの信者たちの中から、聖書の教えに従う兵役拒否者が続出しました。合衆国憲兵に逮捕・起訴されても、彼らは法廷闘争で戦いました。この間の事情を、稲垣氏が説明しています。

  ・明石順三が接したのは、主としてラザフォード氏によるワッチタワーの文献であった。

  ・約言すれば、それは現実の社会体制の悪、なかんずく帝国主義的な国家体制の悪を指摘し、そうした悪に、いかに教会制度がかかわっているのかを説いていた。

  ・第一次世界大戦後の国際連盟の実情や、米国資本主義の社会機構の矛盾を説きつつ、世界の終末やキリストの再臨という思想に、ジャーナリストとして生きていた順三は、十分に納得した。

  ・大正13年にロサンゼルスの新聞社を辞し、彼はワッチタワーの伝道者となり、全米各地の邦人にその思想を普及させた。

  ・その翌年に、彼の著作『神の立琴 』の日本語訳が、「ワッチタワー本部から出版された。

  ・彼はワッチタワー総本部の正式派遣により、日本に支部を作るため、帰国することとなったのである。

  ・20年ぶりに帰国した彼が、最初に住み着いたのは、神戸市外の一ノ谷にある、須磨の浦聖書講堂だった。

  ・つまり氏は、日本において正式に「エホバの証人」と認められた、第一番目の人物であり、開拓者でもあります。

  ・わずかだとしても、ワッチタワー本部から定期的に資金が送られ、氏はこの期待に十分報いる活動をします。

  ・この初期活動のメンバーの中に、本書の主人公である「兵役を拒否した日本人」、すなわち村本一生氏がいます。

 やっと、主人公について述べるときが来ました。著者の説明を紹介します。

  ・兵役拒否は、積極的な、正面きっての抵抗である。」

  ・「それは軍隊内で、あるいは招集にあたって、逃げも隠れもせず、自己の信念に基づいて、軍務を一切拒否する意思を、軍そのものに突きつけることなのである。

  ・過酷な軍律の統制下にある、戦前の天皇制の軍隊内で、兵役拒否をするには、どんなに勇気がいったことか。軍隊生活を体験した人々、国民皆兵当時の日本を知る人々には、十二分に理解されることであろう。

 明石氏も村本氏も、戦後は「エホバの証人」を離れ、世捨て人のように暮らしました。最初に述べたとおり、聖書の教えを守り、命がけで戦った氏たちが、どうして日本の教団から消し去られたのか。これを紹介するスペースがなくなりました。

 「日本の闇」が「米国の闇」につながっていることを次回に語ります。単なるキリスト教の一会派の話ですが、注意深く考察しますと、同じような構図が浮かび上がってきます。

 つまり「日本政治の闇」が「米国政治の闇」と、深く繋がっている構図です。

 あと一回でまとめられるのか、自信はありませんが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々のために、頑張らなくてなりません。

 今日も、厳しい寒さの日です。バードバスの水が凍り金槌で叩いても割れません。水浴びに来る鳥たちを思い、ヤカンに沸かした熱湯を注ぎ、それをまた金槌で割りました。

 小鳥が火傷しないように、お湯が冷えるまで側にいます。残っている氷のせいで、5、6分もすれば、冷たい水に変わります。

 人間のためには、安売りの灯油を車で買いに行きました。先ほど帰りましたので、部屋のストーブをつけ、一息入れて「ねこ庭」に向かっています。それでも足元が、しんしんと冷えます。

 「こんな寒さなんて、モンゴルに比べれば何てことはない。」

 こうして私は、次回にかかろうとしています。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする