「古瀬は平家の落人が畑沢に住みついた」との言い伝えがあります。平家の落人伝説は全国に残されており、どれも真実だとすると膨大な落人の数になります。だからと言って、それらが全て間違っているとも言えませんが、それらに共通しているのは「とにかく歴史が古い」ことと、「資料がない」ということです。このように平家伝説が多くなった背景には、次に述べるような古代以前の歴史に対する認識が作用しているものと考えられます。昔々に東北地方が「えみし」その後に「えぞ」と呼ばれていた時代があります。「えみし」も「えぞ」も同じく「蝦夷」と書きますが、このころに住んでいた東北の人間は、「アイヌ人」だと言う学説(「蝦夷アイヌ説」という。)があり、それも極、最近まで信じられてきました。この学説の発端は江戸時代の国文学者である荒井白石や本居宣長です。明治以降もこの学説は、神道を国教とする当時の国家権力にとっては都合の良い学説でした。その考えによると、「昔、東北地方にはアイヌ人が住んでいたが、やがて大和民族が東北に住むようになり、今に続いている」というものです。従って、「今住んでいる人たちの先祖は、蝦夷と言われいてる時代は東北に住んでいなかった」ということになりますので、蝦夷と言われていた時代の後で、どこからか人々が移り住むことにしないと、今につながらないことになります。そこで、移り住んできた原因として「平家の落人」の説が多用されたものと思います。
しかし、考古学の研究が進むとともに、血液型(ABO型以外も)の研究、縄文人のDNA分析などから、縄文人が現代人に繫がっていることが分かっています。つまり、今の東北の人達の先祖は東北に住んでいたのです。勿論、縄文時代以降には大陸から入って来た民族との混血状態になっていますが、東北の人々は縄文からの血を色濃く受け継いでいます。例えば、東北人は酒に強いなどはその表れで、私達が西日本の人達とお酒を飲んだ時などに実感できます。
さて、「古瀬」ですが、このような平家落人説が残るほどに、畑沢でも古くから住んでいた一族であったと思われます。ほぼ「古瀬」で占められている上畑沢には、歴史の古さを物語るものがあります。上畑沢の延命地蔵堂付近は、地蔵堂だけでなく多くの畑沢で最も多くの石仏が集中しており、上畑沢の「聖地」か「シンボル」的な場所になっています。これは江戸時代だけの話ではなくて、この場所の直ぐ近くから縄文時代の石器や土器が大量に出土していたことからも、この場所は縄文時代から現代まで続く上畑沢の中心的な場所だったと考えられます。人が住むにはそれなりの理由があります。一般に言われているのが食糧、水、住居です。食料は狩猟と若干の栽培、水は清水畑の語源になった思われる古瀬K氏宅の大量の湧き水があります。住居としても比較的平坦に近く、陽当たりも良好、また北側が低くなっていますので、水はけも良好で申し分ない環境でしょう。
しかし、この場所の利点はそれだけではなかったのではないかと思います。実は縄文時代から交通の要衝ではなかったかと考えてみました。一昔前の考古学では、「縄文時代は集落単位の生活だけだった」ように考えていたようですが、実はそうではなくて、かなりの交易が行われていたようです。例えば、青森県の三内丸山遺跡の発掘調査の結果、北海道、新潟県、長野県などの産物が出土しており、縄文時代においてもかなり広範囲な交易が行われていたことが分かっています。仙台市立博物館に展示されている縄文時代の石器には、その石材は山形県であることが説明されていました。このような縄文時代の状況を考えると、宮城県の軽井沢から上の畑に入り畑沢を通って村山平野へ通じるルートは、縄文時代にも盛んに使われた可能性があります。畑沢は縄文時代における交通の要衝だったと思うと、夢が膨らんできます。畑沢の最初の集落が上畑沢に形成された理由も、そのような観点で見ることができるのではないでしょうか。このことについて物的に証明できる物がありませんが、そのような一つの歴史の見方もあってはと思います。