歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

100分de手塚治虫を見て、思う事。(4)補足…。生とは熱中する事。我を忘れて何かに打ち込む事、楽しむ事、実感する事

2016年11月14日 23時38分05秒 | 日記

なんじゃないでしょうか?

我王と茜丸が、仏像を掘るのに打ち込む姿を見せていましたが、生きているというのも、活動です。

まぁテレビやクリエーター屋さんなど集まっていたから「表現する」となっていますが、作るでも、芸術を鑑賞するとか、野球をやる、野球を見る、どちらも打ち込む事で楽しむ事で実感する事です

愛少女ポリアンナ・ストーリーでも「良かった探し」(原文:幸せの遊び)自分の生活の中で成した事、感じた事に「良かった」を探し認識する事です。

そして、それは実感する事であり、それは生きているからこそ出来るのです。

その生は、天災や事故で明日にも失われる。

それを難しくやると変な宗教になるのであって、程よい心地で、生死というものを見る貴重な「きっかけ」それが手塚治虫の漫画であり、なかんづく火の鳥や不思議のメルモでしょう。

そんな手塚漫画の読者には、女は子どもを生む道具などと言う経団連の非常識を言う人は居ないでしょう。


100分de手塚治虫を見て、思う事。(3)火の鳥と言う、哲学は何とも浅そうで深く、深そうで難解ではないような…

2016年11月14日 23時22分28秒 | 日記

100分de名著では、毎度腹を立てるのが、仏教とアドラーで、延々と何ぞほざいているが「それが落ちかよ!」と言う内容の無さが毎度辟易します。

それとは正反対なのは手塚治虫の漫画でしょう。

トランスジェンダーもそうですが、これは性の問題であり、生の問題であり、恋愛となれば、それに客観的な正しさは存在していません。

手塚治虫氏の最後もそうですが、死は突然訪れて、今日は昨日の続きで、今日の続きで明日があると言うものこそ、死という現実、生きている奇跡を感じるものです。

火の鳥鳳凰編で、我王が最後の悟りを得て「宇宙の中に人生など、一切無だ!ちっぽけなゴミなのだ」と言う時に笑い声を上げました。

それを見て私は、別の人の姿が重なるのです。

歌舞伎の中村勘三郎さんは、死の直前、意識もなくなった勘三郎さんが、突然大声を出して笑うのです。

それは中村勘三郎さんの最後の感情を表現した一瞬でした。

火の鳥鳳凰編を見ると、この時の中村勘三郎さんの笑った意味が、忍ばれます。

また「今日は昨日の続きで、今日の続きで明日がある」とは、アインシュタインが相対性理論のベースとして考えていたものでした。

つまり永遠に続く宇宙、その根源は永遠の過去からのものとして考えていました。

この存在哲学の違いはハッブルの法則で着目され、今、どれほど宇宙が「崩壊」へと向かって加速しているのかが立証されています。

一方で、例えば、ドレークの生命方程式とかなどで、宇宙の中に生命体が居る存在は極小規模であることだけは分かっています。

例えば地球と言っても、生命の生存圏は今の所-2500mの深海から8000mの生存圏内だけです。直径12000kmからすれば0.0087%の所にしか生物は居ません。

太陽の直径の1/108しかない地球の更に0.0087%にしか生物は居ないのです。

よくハッブル宇宙望遠鏡で星が生まれる所を見せていますが、あの光のある領域は生物が住めません。

宇宙線が激しすぎるからです。

この世の中の僅かな生物生存領域。

それが地球で、それは「ちっぽけ」どころではないのです。

毎度コズミックフロントで描かれる延々とした未来への可能性は、原子力発電所が丸々一個完全破壊されたら急に現実となります。

それは突然癌が見つかり、余命幾ばくもなくなった勝野ひろしとキャッシー中島の長女や今井雅氏の様なものです。

そして何より火の鳥を描いていた張本人が、そうなりました。

また糞チョン集合地獄=電通でも、東大の生命力溢れる美人さんが、宇宙でこれほど最低の物体はないと世界が認める電通のチョングソ物体に依って自殺してしまう事もあります。

まぁ電通を皆殺しにするのは規定の方向として、延々と悪事と死をひり散らす電通を中心としたチョングソども、などの存在を見ると、人生とはなにか?と思わせられます。

どうもチョングソや虫獄はパクる事はあっても手塚治虫を理解する能力は根底から無いようで、それは手塚治虫の別のパワーとして、明記しておきましょう。

近年起きる老いぼれに拠る若者の殺害を見るにつけ、無常の世の中を今でこそ感じます。

死すべきものが生き、生きるべきものが生を剥がされる時代です。

一つ言えるのは、手塚治虫の漫画は、仏教野郎やアドラーと違い、完全には分からないが、生あるは、死を前提としてあり、生まれるに所以はあるが理由はない。

つまり親がエッチして産んだけど、貴方が、どんな意識で生きているかは、何ら関係はない。

それは貴方が今どんな行動をしているのか?それをどう思っているのか?と言う事をある部分は決めもするが、最終的には本人にかかっている。ということです。

そして、良いか悪いかは、今の状態過去の状態、で決めるもので、その影響は未来に縁として連なるものである。

最終的には「明日は明日の風が吹く」と言う事でしょう。

それは良い意味でも悪い意味でも。

その様な実も蓋もない事が現実ですが、それでも覚悟をする事は必要でしょう。

延々とほざきましたが、最終的には「人の振り見て我が振り直せ」「他山の石とする」程度のものですが、それでも考えずにはいられない、だから皆手塚治虫に惹かれるのでしょう。

予定調和、失礼致しました。


100分de手塚治虫を見て、思う事。(2)だらしないドラマを見せてくれるのは、白土三平か手塚治虫だろう。

2016年11月14日 22時43分34秒 | 日記

今の時代劇の描き方は、武家ベース、梨園ベース、歌舞伎ベースであり、完成された演芸ベースなのである。

だが、ショーケンの黒駒の辰三をやった、清水次郎長を悪役にするドラマや、同じくショーケン主役の「股旅」と言う映画があるが、1970年代以前の世界で評価される日本映画の時代劇は、妙に生臭い風俗の日本人の姿が見える。

この100分de手塚治虫の中では「寄子」などの中の村の「アーパー女」のだらし無い着物の着方は、今の話の中では見られないが、浮世絵の中や、江戸時代の文献を見ると、だらしないのが庶民だった。

もっと、特徴的に見せるものとしては「どろろ」がある。

また、似たような雰囲気は横溝正史の金田一耕助シリーズに連綿として流れる、暗い、だらし無い庶民の風俗です。

特に「寄子」では、土蔵の地下室に押し込める。

これは、横溝正史や江戸川乱歩の淫猥な暗い世界に通じるものがある。

今は放送コードが出過ぎているが、例えば「七人の侍」の中の三船敏郎が演じた役は、将に、江戸時代の百姓の姿で、この姿は、江戸の宿場の篭かきの姿であり、人足の姿である。

近年の時代劇は、お約束の林立している、NHK、名物「いやぁ〜ちょっと、そこ違うんだよなぁ〜」野郎のお決まりの世界で、嘘ばっかりです。

本来はもっと、ふしだらだったりする。

例えば、時代劇では殆ど水路の運送を見せない。

だが、当時の江戸は物流も交通も全部川がメインで、そうでないと道は人で溢れる状態でした。

これは、江戸の浅草や本所深川の中央部は、いつも押すな押すなの状態でした。

一方で、谷根千は、殆ど田んぼだらけで誰も居ませんでした。

もう一方で、例えば、浅草などの庶民街では、昼の日中から、女郎が船に乗って、道を歩いている人を誘っている絵が残っています。

大体経団連は、江戸時代人々は、殆んど休日はないとほざいていますが、それは嘘で、実は江戸時代の労働時間は、実に180日程度だった可能性が高いのです。

通常出職は雨の日は休みで、また正月になったら、ほぼ1月休みみたいなもので、この時期働いているのは商売人で全労働者からすれば一部だったのです。

今守貞漫稿で窺い知るだけですが、信じられない程アホくさい事が仕事となりました。

その最たるものが、着ぐるみで、母親を背負っている孝行息子を仮装する事で「親孝行」と言う商売になり、これで金が貰えたのです。

また、今の時代では想像できませんが、恐ろしく江戸時代は暗く、暗いからこそ、その時間を満たす為にふしだらに、ただひたすらふしだらに生きていたのです。

つまり光の無い所ではでは、性の領域は今より広く深かったのです。

「寄子」や「どろろ」の暗い世界は、今のように妙に明かりが得られる時代とは違う、薄暗い所の生活を見せる意味で、本当に意味のあるものです。

だらしなく、ふしだらな姿は、ある意味での本当の人間の姿です。

江戸時代は、今では失われた性の遊びがあり、その奥義は、実は戦後幾らかの時代残っていたと聞きます。

今の性生活は、江戸時代からするとかなり貧相で、暴力的なものなのだそうです。

明るい世界でも暗い世界でも江戸時代は潤いがあった世界だと思うのです。


100分de手塚治虫を見て、思う事。(1)ちょっと、嫌な流れだったな…。

2016年11月14日 20時43分49秒 | 日記

ちょっと色々あって最近きちんとビデオが取れておらず100分の内の30分が抜けておりました。

見ていて、まぁ最後は、伊集院氏が狙っていたのかディレクターが狙っていたのか分からないけど、いい終わり方をしており、これは唐沢なおき氏を怒らせた「いやぁ〜ちょっと、そこ違うんだよなぁ〜」野郎とは違うと思いました。

さて、この中では、手塚治虫のリボンの騎士では、ちょっと大げさすぎる気がする。

私はBBCの「人生は全て舞台」って言うドキュメンタリー(30年ぐらい前)のがあって、この中で、ギリシア神話、ローマ神話にはデュオニソス(バッカス)が居り、半陰半陽の神が居て、その主題、つまり性を超えた恋愛は3000年ぐらいのテーマがある。

確か、シュメールの時代から起源があるのです。

ただリボンの騎士では、当時ヨーロッパのウーマンリブの影響もあるんじゃないかな?と思いました。

その日本の漫画が何故広まったのか?と言うのもそうだけど「手塚治虫が居なかったから」と言うのだが、それはどうだろうか?

日本には鳥獣戯画などのアミニズム文化が平安時代から有り、自然の擬人化は、浮世絵の世界で、バンバン出ている。

例えば現代のスペイン映画「所有」と言う変態映画は葛飾北斎だったか?女を犯すタコのイメージをそのまま使っていて、この手の獣姦の最たるものが「半魚人現る」などにも出ている。

また日本は薩長の明治維新以降の明治政府で男色は禁じられましたが、実は、薩摩は男色といえば薩摩と言われるほど噂が有り、それはそれは昔からの日本の文化の中にはあったのです。

しかし、手塚治虫のリボンの騎士は、その日本の男臭い同性愛よりも、トランスジェンダー色が強く、ヨーロッパの棋風なのではないだろうかとも思っています。

また、その中にはカワイイ文化も入っており、日本ほど、可愛い動物を可愛く描くのは珍しいし、一時期、浮世絵の中の猫を探すと、ダントツで多いのです。

それも可愛い猫です。

女が化身するものとしては狐も居り、カワイイ娘は猫、狡猾で妖艶な女は狐がシンボルでした。

他方で、男のむさ苦しさは、実は狸が受け持っており、狸の浮世絵は、狸の陰嚢八百畳を徹底的に茶化した浮世絵は沢山あるし、見ると腹を抱えて笑う程の面白さです。

この様に、トランスジェンダーや、キャラクターの可愛さ、そして、漫画文化が日本に強力に根付いていたのか?は、元々漫画国家日本があり、それを許すものは、恐らく天皇陛下の「奴隷をもってはならない」と言う勅命でしょう。

そして、大和朝廷から続く八尾万津の神は、今も自然を維持している唯一の国家日本を哲学・宗教そして、民間の風俗が支えており、その事は何も今ではなくて、印象派の時代から、いや、その前の有田焼や伊万里焼七宝焼きなどの文化なども、ヨーロッパにオオウケだったのです。

つまり、手塚治虫が漫画家になるべくしてなったのは漫画文化である日本文化だからこそだと思います。

ただ手塚治虫の称揚のみで、延々と構成しているけど、それは手塚治虫の漫画に呼応した読み手の偉大さをもっと言うべきであり、つまり「100分de手塚治虫の出演者」との連携があって手塚治虫が出来上がった事を何故言わない。

偉人も評価されねば埋もれるもので、埋めなかった、読み手があってこその、手塚治虫である。

つまり世界の文化を先進するのは元々、その文化に応える読み手の存在、左翼の気違いが漫画有害論が出ている中、隠れて、漫画を読んでいた人々が、それこそトランスジェンダーの多少の淫猥さがある漫画を支えていたと私は思う。

そんで「傷だらけの天使(4コマ漫画:喜国なんとかさん)」のなかで手塚治虫氏の発言を取っていて「PTAが目を背けるような漫画こそ、本当にいい漫画なんです!」と言っておりました。

と言う事で、私は「読み手なかりせば、描き手、描き手足らず。」と言います。


セウォル号と博多駅前陥没事件と福島第一原発の類似性。日本における馬鹿の無限増殖。

2016年11月14日 07時08分23秒 | 糞馬鹿文化系大学出が分からない世界

言っても委員会NPでセウォル号事件の詳細を聞いて呆れる始末である。

違法改造(トップヘビー化)、バラスト水抜き(トップヘビー化)、積荷個縛なし、救命ボート使用不可、ブリッジ関係者が最初に逃げた、船長はパートタイマー

この救命ボートも本来油を塗るなどして、動作を良くしなければいけない所をペンキで塗って、固めていたという。

このデリカシーのなさは、博多駅にデカイ穴を掘った、福岡の最低の劣物:愚か者之丞低能之助馬鹿右衛門とよく似ている。

もしかして、チョンか?コイツラに共通するのは、今後これが発展するとどうなるか?と言う恐怖感である。

例えば東日本大震災の福島第一原発の様子は、私は逐一理解し、その後どうなるか?を検討していた。

毎度、どう言う手立てを取り、どう言う結果が想定でき、その対応についてはどうするか?

一番の問題は圧力容器が破裂する事。一番考えたく無い事である。

だが、その可能性は普段は1ppm以下だったのが、その時は最大30%程度まで上がっていた。

この手の下らない問題は、例えば原発では、もう分かっていた。

福島第一原発の場合は、安全装置の設置がチグハグだった。

そして、電源が適当に配置されている事を理解していなかった。

有名な話とすれば私の家の近くにあるディスカウントストアーの非常電源は1基は駐車場横にあるが、残りは全部屋上にある。

これは取り決めでそうなっている。電源が一番やばいのは水没と発火である。言われるまでもないが、それは基本的な事実として存在している。

では、何故福島第一原発では、低層に発電機と電池を配置したのか?

これは私が某自動車、法令違反隠しの時の前の頃から出てきた雰囲気である。

それは過去の人間が出した「レポート」である。このレポートは、回覧され、印鑑が押される。

例えば或る車で、ある問題が解決した。そして、それは「もう起こらない事」と言う「妙な決まり」が存在し、その空虚な決まりだけが独り歩きするようになっていた。

これは九州大学を出た馬鹿はよく使う方策で、岡山大学での馬鹿も使っていた。

「出来て当たり前」しかし、それが適用された環境は違うのだが、それは「言い訳」としか採られないのだ。

例えば、福島第一原発の場合は、電池や発電機の性能や機能はしっかり調査しており(下請けがしている)完全だったが、建屋を計画する奴が愚か者之丞低能之助馬鹿右衛門だったようで、この安全性のチェックを放棄していた。つまり上の方に置くのは、スペース的に、苦しいので、下に置こうというのである。

このレイアウトを決める能力は富に下がっており、これにより、全体が大きく混乱される事は私自身でも一切ならずある。

またエリートさんとやらは、図の描き方も知らないようで、トンデモナイ図法で描けと言ってくる。

こちらは、それを承って下請けに文句言われ、ちょっとダメだねと言われるのだが、ダメの本質は上の方の設計図を妙に書きたがるお偉い変な奴である。

例えば、実験的装置を作れとの話だが、その時にも3本のトーチが、3方向に独自に動き、更に全体を三方向動かすようにすればいいとしつこく言うのである。

移動距離が取れないと言っても、その事を延々と言うのみである。

さんざん悩んで描いた図面を送って見せようとすると、CADを扱った事が無いと言う。

「DXFで送るからJW−CADでもダウンロードしてやってくれ」と言ったが扱えただろうか?

こんなお安い馬鹿が私の4倍の給与を貰っていると考えるとバカバカしい限りだ。

正直やっていられない。何より毎年馬鹿になっていく。どんどん馬鹿になっていく。際限なく馬鹿になっている。

福島第一原発では、この馬鹿な問題は何故発生したかというと「安全が当たり前」と言う、某自動車会社の「出来て当たり前」と言う、過去の狭い領域の成功報告を延々と他の領域まで「出来て当たり前」と言う九州大学の捏造した、妙な常識・決まりで「何故出来ない」と社員に無茶な要求を通す為の「御託」となったのである。

例えば、今頃はちゃんとやるだろうが、再現番組でよく「イソコン」というのが出てきた。

吉田所長の最悪の失敗は炉が傷もうと無動力で動く「イソコン」は最低全部を切ってはいけなかったのだ。

大体、「安全」と言う「世迷い言」だけがある為に、後ろ暗い負い目のある馬鹿は、アメリカから輸入した安全装置のイソコンの動作チェックをしなかったようだ。

何故か?これは巨大な笛のような音をするので、一旦動かすと周囲に鳴り響く、そして、それは「安全世迷い言の後ろ暗い負い目のある連中」は「馬鹿!危ないと思われるかもしれないじゃないか!何で大きな音を鳴らすんだ!」と言う事になる。

そして、現場の人間が「この危険性があるので、こう言う装置を付けた方が…」と言うと「何故そんな事をする?だって原発は安全なんだから、そんなものは不要だ」と言う九州大学や岡山大学の妙な宗教が出てくる。

その結果根本的な安全問題は横に置かれている。

あつ抜き用のバルブが、圧力容器内部がある程度の圧力になると動作の空圧を越えて動かなくなり、圧力が抜けない弁が出てきたが、それなんぞ「馬鹿丸出しの醜態」だったのだ。

そして、1990年代頃に問題となったのは、福島第一原発級の自己が起きた時の想定が30億とか100億程度と言う信じられない数値を出してきたのだ。

これについて、九大と岡山大が揃っていたのだろう。一切耳を貸さない。安全だから、安全だからと言うのみである。

だが、実際は2桁は上で、3桁に達するのも時間の問題だろうと言われている。

今頃になり東電の経営を圧迫すると泣き言である。

だが、それは20年も前に出された数値と大差ないのである。

当時の会議資料を持ってきて「おい!お前この字が読めるか?」と当時の推定費用の欄を見せると良いだろう。

だが、それはたまたま発覚しただけで、今回の福岡が誇る土木の無能:愚か者之丞低能之助馬鹿右衛門の様に、信じられない馬鹿が大手を振って歩いているのが現状だ。

よくチョンの失敗を論う。確かに酷い。全く馬鹿である。

だが、それと似たような事をしている日本の中の「愚か者之丞低能之助馬鹿右衛門」も立派に馬鹿で無能で有害だ。

取り敢えず東電とバ姦直人は確実で、バ姦はチョンだ。何処に出しても恥ずかしいチョンだ。だが、東電の上層部も、負けず劣らず何処に出しても恥ずかしい。

こんな過去は忘れているのだろう皆。

そうそう、それもマスゴミの仕業だよね。

だから博多駅前の道路を埋めるのが速いと「さすが日本」と吹聴して、事の本質、問題の種を隠そう隠そうとするんだ。

お目出度い、記憶力が雀以下の馬鹿が利口利口とほざいて、大手を振って高い給料を貰うんだ。

何とも立派な国じゃないか。

私は到底精神的に付き合えない。

正直早く死にたい。